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噂の行方

 夜が明けるころには、その話は三つも四つも増えていた。


 あたしが話すたびに、誰かが一言足し、二言盛る。


「掴まれた腕が、内側から冷たくなってさ。」

「目が緑色に光ってたって?それ、魔王だろ。」

「イシュの民を連れてたんだろ?」


 怖かった瞬間を喋れば喋るほど、あたし自身も、だんだん分からなくなってくる。


 本当に目が光っていたのか。

 本当に力が、人じゃなかったのか。


 でも、盛れば盛るほど、あのときの悔しさと怖さは、少しずつ別の形になっていった。


「見たこともねえくらい綺麗だったんだ。」


 そう言ったとき、周りが少し黙った。


「恐ろしいくらい綺麗でさ。笑ってないのに、笑ってるみたいで。」


 誰かが、吹き出した。


「何だよそれ。」

「それ、もう神様だろ。」


「神様じゃねえ。魔王だ。」


 あたしは強く言い返す。


「人の顔して、人じゃないみたいな目してた。」


 誰かが、古い卓から炭を持ってきた。


「だったら描いてみろよ。」


 唐突な一言だったけど、あたしの指は、もう勝手に動いていた。



 丸い卓の天板に、炭の粉を指先で馴染ませる。

 木目の上を、線が走る。


 まずは、目。

 細すぎず、丸すぎず。

 少しだけ吊り上がっていて、でも、冷たくない。


 眉の形。鼻筋。口元。


 あたしは、自分でも驚くくらい、細かいところを覚えていた。


 髪の流れ。

 耳の位置。

 顎の角度。


 炭の棒で線を引き、指の腹で少し擦り、また引き足す。


「おい、似てきたぞ。」

「誰だか知らねえけど、綺麗だな。」


 仲間に加え、周りがざわつき始める。


「隣に兎も描けよ。」


 仲間の誰かが言った。

 あたしは、迷いなく耳を描いた。


 長くて、よく動きそうな耳。

 包帯で巻かれた胸元。

 偉そうに笑っている口元。


「おお。怒れる兎だ。」


 誰かが声を上げた。


「あれ、帝国の兎じゃねえか。」

「報告書に描いてあったぞ。ほら、調査部隊のあれ。」


 怒れる兎は、もう帝都の有名人だった。

 軍の報告だか、酒場の噂だか、とにかく街のどこかで、誰かが見た似顔絵を、あたしも一回だけ見たことがある。


 だからこそ、耳と目だけで、誰なのか分かる。


「じゃあ、これ、本当に魔王ってことか。」


 卓の上の二人の顔を見て、誰かが低く呟いた。


 怒れる兎。

 その隣に立つ、恐ろしくも綺麗な女。


 魔王。

 そう呼ぶしかない何か。



 卓の天板は、そのうち外された。

 持ち上げられて、店のいちばん目立つところに立てかけられる。


 朝になり、昼になり。

 配給から戻ってきた誰かが、食べ物を求めて卓の周りに集まる。


「何だ、これは。」

「昨夜、魔王に襲われたっていう子が描いたんだ。」


 誰かが、話を買ってくれた。

 もう音まで付いている。

 あたしは、炭だらけの指を膝で拭きながら、それを聞いていた。


「恐ろしくも美しい目をした女が、人ならざる力を振るったってさ。」

「イシュの民を大勢引き連れた魔王に違いないってさ。」


 あたしが言った言葉が、存分に脚色されて、他人の口から出ていた。


 昼過ぎ、男たちがやってきた。

 腰に細い剣を提げ、上着の胸には小さな紋章。


 帝都で、あまり見ない顔。

 目だけが、やたらよく動いている。


「これが、その噂の絵か。」


 一人が、卓の天板に顔を近づけた。

 指で炭を触るでもなく、輪郭をじっとなぞるように見る。


「……王国の聖女として記録されている顔に、酷似しているな。」


 横にいた男が、小さく言った。

 ゆっくりとした口調で、唇もあまり大きく動かない。

 低い声が、不思議とよく通る。


 あたしは、耳を疑った。


 王国の聖女。

 外の世界のどこかで、イシュの民に優しくしているとかなんとか、そんな噂話だけ聞いたことがあった。


「あの、聖女が。」

「堕落した、ってか。」


 男たちは、ひそひそと話し合った。


 兎の顔を指差し、うなずき合う。


「共に描かれているのは、我が国の怒れる兎だろう。」

「公式記録と照らしても、明らかに特徴が一致する。」


 怒れる兎。

 帝国のために怒る兎。

 戦場で名を上げた兎。


 その兎の隣に立っているのが、王国の聖女に似ている、と。


 男の一人が、こちらを振り返った。


「この絵を描いたのは。」


 視線があたしに突き刺さる。


「……あたし。」


 舌が少し震えた。

 でも、引っ込めたくはなかった。


 怖かったのは事実だ。

 負けたのも事実だ。


 それを、ただの失敗で終わらせたくないから、あたしは描いたのだ。


「夜明け前、あの女に腕を掴まれたのは、お前か。」

「……ああ。」


 認めた瞬間、男の目が細くなった。


「だが、ここにいる、と。」


 そう言われて、何と返せばいいか分からなかった。


「我が国にとっては僥倖だ。」


 男は、唇の端を片方だけ少し上げ、にやりと笑った。


「王国の聖女が、帝都で魔王となった。だがお前が、そうだな……退けた——と。」


 ——待て。


 あたしは、心の中で叫んだ。


 あたしは、ただ、掴まれて、逃げただけだ。

 何も退けちゃいない。


「お前は、魔王に鉄槌を下した勇者——だ。」


 男の口から出た言葉は、あまりにも軽かった。


「は……?」


 思わず声に出ていた。


「魔王に傷を負わされることなく、生き延びた。いや、帝都にて怒れる兎を従えた——魔王に初めて抗った者——だ。」


 そんな理屈、あるか。

 あたしは、ただ怖かっただけだ。

 怒りをぶつけたわけでもない。

 誰かを守ったわけでもない。


 なのに、男たちはもう勝手に話を組み立てていた。


「帝都に現れた聖女は、ここで魔王となった。」

「生まれたての魔王は、勇者によって退けられた。」

「今、この絵を前に話していることが、その証だ。」


 周りの連中が、息を呑む。


 あたしは、炭だらけの手を見下ろした。


 ——これは、あたしの怒りじゃない。


 恥ずかしさと怖さをごまかすために盛った話を、他人が勝手に飾り始めている。


「お前には、洗礼を授けよう。」


 男の一人が、あたしの肩に手を置いた。

 その手は、さっきの女の手とは違っていた。


 重くて、べたついていて。

 逃げてもいいとも、逃がしてやるとも言っていなかった。


「魔王に鉄槌を下した勇者——帝国の聖女として。」


 その言葉に、周りがざわめいた。


 勇者。

 聖女。


 難民街で、そのどちらも、ただの物語の中の言葉だった。

 怒ったり泣いたりしている誰かを見つけても、そのどれとも呼ばれない場所。


 いきなり貼り付けられた新しい名前。


「……あ……たしは。」


 何か言おうとしたけれど、うまく言葉にならなかった。


 男は、あたしの迷いなんかお構いなしに、先へ進めていく。


「お前の怒りは、帝国の正義のため、使われる。」


 あたしの怒り?


 ――違う。


 あたしの怒りは、あのとき掴まれた腕の中に置き去りにしてきた。

 負けたのは、あたしだ。

 怖かったのも、あたしだ。


 それなのに。


「あの目を、忘れたくなかったんだ。」


 呟いた言葉は、もう誰にも届かなかった。


 卓の上の似顔絵も、もうあたしだけのものではない。

 怒りも、恥も、怖さも。

 全部まとめて、誰かの物語の飾りにされていく。


 それが、きっとこの帝都のやり方なのだと、うすうす気づきながら。


 あたしは、炭の黒で汚れた指先を、握りしめたままにしていた。

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