噂の行方
夜が明けるころには、その話は三つも四つも増えていた。
あたしが話すたびに、誰かが一言足し、二言盛る。
「掴まれた腕が、内側から冷たくなってさ。」
「目が緑色に光ってたって?それ、魔王だろ。」
「イシュの民を連れてたんだろ?」
怖かった瞬間を喋れば喋るほど、あたし自身も、だんだん分からなくなってくる。
本当に目が光っていたのか。
本当に力が、人じゃなかったのか。
でも、盛れば盛るほど、あのときの悔しさと怖さは、少しずつ別の形になっていった。
「見たこともねえくらい綺麗だったんだ。」
そう言ったとき、周りが少し黙った。
「恐ろしいくらい綺麗でさ。笑ってないのに、笑ってるみたいで。」
誰かが、吹き出した。
「何だよそれ。」
「それ、もう神様だろ。」
「神様じゃねえ。魔王だ。」
あたしは強く言い返す。
「人の顔して、人じゃないみたいな目してた。」
誰かが、古い卓から炭を持ってきた。
「だったら描いてみろよ。」
唐突な一言だったけど、あたしの指は、もう勝手に動いていた。
◆
丸い卓の天板に、炭の粉を指先で馴染ませる。
木目の上を、線が走る。
まずは、目。
細すぎず、丸すぎず。
少しだけ吊り上がっていて、でも、冷たくない。
眉の形。鼻筋。口元。
あたしは、自分でも驚くくらい、細かいところを覚えていた。
髪の流れ。
耳の位置。
顎の角度。
炭の棒で線を引き、指の腹で少し擦り、また引き足す。
「おい、似てきたぞ。」
「誰だか知らねえけど、綺麗だな。」
仲間に加え、周りがざわつき始める。
「隣に兎も描けよ。」
仲間の誰かが言った。
あたしは、迷いなく耳を描いた。
長くて、よく動きそうな耳。
包帯で巻かれた胸元。
偉そうに笑っている口元。
「おお。怒れる兎だ。」
誰かが声を上げた。
「あれ、帝国の兎じゃねえか。」
「報告書に描いてあったぞ。ほら、調査部隊のあれ。」
怒れる兎は、もう帝都の有名人だった。
軍の報告だか、酒場の噂だか、とにかく街のどこかで、誰かが見た似顔絵を、あたしも一回だけ見たことがある。
だからこそ、耳と目だけで、誰なのか分かる。
「じゃあ、これ、本当に魔王ってことか。」
卓の上の二人の顔を見て、誰かが低く呟いた。
怒れる兎。
その隣に立つ、恐ろしくも綺麗な女。
魔王。
そう呼ぶしかない何か。
◆
卓の天板は、そのうち外された。
持ち上げられて、店のいちばん目立つところに立てかけられる。
朝になり、昼になり。
配給から戻ってきた誰かが、食べ物を求めて卓の周りに集まる。
「何だ、これは。」
「昨夜、魔王に襲われたっていう子が描いたんだ。」
誰かが、話を買ってくれた。
もう音まで付いている。
あたしは、炭だらけの指を膝で拭きながら、それを聞いていた。
「恐ろしくも美しい目をした女が、人ならざる力を振るったってさ。」
「イシュの民を大勢引き連れた魔王に違いないってさ。」
あたしが言った言葉が、存分に脚色されて、他人の口から出ていた。
昼過ぎ、男たちがやってきた。
腰に細い剣を提げ、上着の胸には小さな紋章。
帝都で、あまり見ない顔。
目だけが、やたらよく動いている。
「これが、その噂の絵か。」
一人が、卓の天板に顔を近づけた。
指で炭を触るでもなく、輪郭をじっとなぞるように見る。
「……王国の聖女として記録されている顔に、酷似しているな。」
横にいた男が、小さく言った。
ゆっくりとした口調で、唇もあまり大きく動かない。
低い声が、不思議とよく通る。
あたしは、耳を疑った。
王国の聖女。
外の世界のどこかで、イシュの民に優しくしているとかなんとか、そんな噂話だけ聞いたことがあった。
「あの、聖女が。」
「堕落した、ってか。」
男たちは、ひそひそと話し合った。
兎の顔を指差し、うなずき合う。
「共に描かれているのは、我が国の怒れる兎だろう。」
「公式記録と照らしても、明らかに特徴が一致する。」
怒れる兎。
帝国のために怒る兎。
戦場で名を上げた兎。
その兎の隣に立っているのが、王国の聖女に似ている、と。
男の一人が、こちらを振り返った。
「この絵を描いたのは。」
視線があたしに突き刺さる。
「……あたし。」
舌が少し震えた。
でも、引っ込めたくはなかった。
怖かったのは事実だ。
負けたのも事実だ。
それを、ただの失敗で終わらせたくないから、あたしは描いたのだ。
「夜明け前、あの女に腕を掴まれたのは、お前か。」
「……ああ。」
認めた瞬間、男の目が細くなった。
「だが、ここにいる、と。」
そう言われて、何と返せばいいか分からなかった。
「我が国にとっては僥倖だ。」
男は、唇の端を片方だけ少し上げ、にやりと笑った。
「王国の聖女が、帝都で魔王となった。だがお前が、そうだな……退けた——と。」
——待て。
あたしは、心の中で叫んだ。
あたしは、ただ、掴まれて、逃げただけだ。
何も退けちゃいない。
「お前は、魔王に鉄槌を下した勇者——だ。」
男の口から出た言葉は、あまりにも軽かった。
「は……?」
思わず声に出ていた。
「魔王に傷を負わされることなく、生き延びた。いや、帝都にて怒れる兎を従えた——魔王に初めて抗った者——だ。」
そんな理屈、あるか。
あたしは、ただ怖かっただけだ。
怒りをぶつけたわけでもない。
誰かを守ったわけでもない。
なのに、男たちはもう勝手に話を組み立てていた。
「帝都に現れた聖女は、ここで魔王となった。」
「生まれたての魔王は、勇者によって退けられた。」
「今、この絵を前に話していることが、その証だ。」
周りの連中が、息を呑む。
あたしは、炭だらけの手を見下ろした。
——これは、あたしの怒りじゃない。
恥ずかしさと怖さをごまかすために盛った話を、他人が勝手に飾り始めている。
「お前には、洗礼を授けよう。」
男の一人が、あたしの肩に手を置いた。
その手は、さっきの女の手とは違っていた。
重くて、べたついていて。
逃げてもいいとも、逃がしてやるとも言っていなかった。
「魔王に鉄槌を下した勇者——帝国の聖女として。」
その言葉に、周りがざわめいた。
勇者。
聖女。
難民街で、そのどちらも、ただの物語の中の言葉だった。
怒ったり泣いたりしている誰かを見つけても、そのどれとも呼ばれない場所。
いきなり貼り付けられた新しい名前。
「……あ……たしは。」
何か言おうとしたけれど、うまく言葉にならなかった。
男は、あたしの迷いなんかお構いなしに、先へ進めていく。
「お前の怒りは、帝国の正義のため、使われる。」
あたしの怒り?
――違う。
あたしの怒りは、あのとき掴まれた腕の中に置き去りにしてきた。
負けたのは、あたしだ。
怖かったのも、あたしだ。
それなのに。
「あの目を、忘れたくなかったんだ。」
呟いた言葉は、もう誰にも届かなかった。
卓の上の似顔絵も、もうあたしだけのものではない。
怒りも、恥も、怖さも。
全部まとめて、誰かの物語の飾りにされていく。
それが、きっとこの帝都のやり方なのだと、うすうす気づきながら。
あたしは、炭の黒で汚れた指先を、握りしめたままにしていた。




