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自尊心

 帝都の北側の夜明け前は、いつだって腹が減る。


 昼間の配給の湯気も消えて、焚き火の煙も細くなって。

 冷えた粥を舐めてごまかした腹が、夜のあいだにまた空っぽになる。


 あたしは、城壁の影がいちばん濃い路地で膝を抱えていた。

 石畳の隙間からは、じっとりした冷気が上がってくる。


「なあジャンヌ。今日こそなんか当てようぜ。」


 背中側から声がかかる。

 同じくらいの年の連中が三人。顔見りゃ分かる、みんな同じように育った難民街の子だ。


「見張りはする。だからお前、手ぇ出せ。お前の手つきがいちばん早い。」

「……はいはい。」


 返事だけして、あたしは立ち上がった。

 空が、少しだけ白んできている。

 夜と朝のあいだ。警備も気が緩む時間だ。


 城壁の中へ向かう道を見張っていると、人影がひとつ、ふたつと伸びてきた。

 酔い潰れた誰か。仕事を終えた誰か。警備の交代。


「来た。」


 仲間が、ひそひそと合図を送る。


 ——目に入ってきたのは、見慣れない二人だった。


 一人は、でかい兎。

 耳が長くて、背中には包帯。

 胸のあたりにも厚く巻かれた包帯が覗いている。


 歩き方は、まだ少しぎこちない。

 それでも、目つきだけはやたら生意気そうで、どこか痛みを笑い飛ばしているみたいだった。


 もう一人は、その兎を支えている女だ。


 背筋がまっすぐで、薄暗い中でも姿勢の良さが分かる。

 布は地味な色合いなのに、縫い目がきちんとしていて、難民街の誰とも違う仕立てだ。


 何より、あの目だ。

 眠たそうでも、困っていそうでもなくて。

 まっすぐ前を見ているのに、周り全部を見ているみたいな目。


「……ちぇ。よりによって厄介そうなのが来たな。」


 仲間の一人が、ぼそっと漏らす。


「でも、あっちの方が持ってそうだぜ。」


 腰の方に小さな袋が見える。

 布の質がいい。鈴は付いていない。音を立てずに持ち歩く用の袋。


 あたしの指先が、勝手にうずいた。


 ——こういうとき、変に躊躇すると、先に他の奴にかっさらわれる。

 迷っているうちに、飢えた腹は待ってくれない。


「行く。」


 そう言って、あたしは路地から一歩踏み出した。



 道に出てみると、二人は思ったよりゆっくり歩いていた。

 兎の方が少し前に出たり、女の方が支えるように腕を回したり。


 ——あの袋だな。


 追い抜きざまの、一瞬でいい。

 あとは、走る。


 あたしは、夜明け前の通りにさっと踊り出た。


「おはよ、姐さん。」


 わざと軽い声を出しながら、距離を詰める。

 女の肩にそっと触れるふりをして、腰の袋に指を伸ばした。


 その瞬間——


 腕が、空を切った。


 何が起きたか分からなかった。

 さっきまでそこにあったはずの袋が、指先から消えている。


 いや、違う。

 あたしの手首が、逆に掴まれていた。


「え。」


 声が漏れるより早く、地面がぐらりと揺れた。

 あたしの方が前に出るはずだったのに、逆に引き戻されて。


 尻が石畳に落ちる衝撃が、ほとんどなかった。


 女の手が、ちょうどいいところで力を入れたのだと気づいたのは、あとになってからだ。


「……っっ。」


 あたしは、息を呑んだ。


 痛くない。

 腕も、腰も。


 痛いのは、胸ん中だけだ。


 女は、刃を抜いていない。

 大げさに投げ飛ばしてもいない。


 ただ、掴んだだけ。

 それだけなのに、自分の身体がまるで宙に固定されたみたいに動かなかった。


 目が合った。


 恐ろしくも、綺麗な目だった。


 怒っているわけでも、哀れんでいるわけでもない。

 上から見下ろすでもなく、同じ高さに立たせることもなく。

 ただ、そこにいるあたしを見ている目。


「……っ。」


 喉の奥で、何かがひっくり返る音がした。


 怖い、って感情が、先に来た。

 負けた、って言葉が、そのすぐ後から追いかけてきた。


 あたしの腕を掴んでいる女の手は、驚くほど冷静だった。


 揺さぶりもしない。

 突き飛ばしもしない。

 ただ、逃がさない。


 女は、何も言わなかった。

 兎の方が、ちょっとだけ耳を動かした。


 あたしの腕を掴んでいた手が、ふっと離れた。


「あ……」


 情けない声が出かける。

 自由になった瞬間、あたしは走り出していた。

 口が勝手に動いた。


「覚えてやがれ!」


 自分でも、ちょっと何言ってんのか分からない。

 でも何か言ってないと、泣きそうになる。


 膝が笑って、思うように足が上がらない。

 それでも、角を曲がるまで振り返らなかった。



「おいおい、どうした、そのツラ。」


 いつもの路地裏に戻ると、仲間が吹き出した。


「殴られたかと思ったら、きれいなまんまじゃねえか。」

「……うるさい。」


 あたしは石に背を預けて座り込んだ。

 手首を見る。大して赤くなってもいない。


 それが、余計に腹を立てた。


「殺されてもおかしくなかったんだぞ。」


 誰に向けて言ってるのか分からない文句が、口からこぼれた。


 怒られもしなかった。

 殴られもしなかった。


 だから余計に、負けた気がした。


「ああいうのだ。」


 仲間の一人が、さっきあたしが見た女の真似をする。

 顎を上げて、偉そうに。


「魔女か何かじゃねえの。」

「魔女じゃない。」


 思わず言い返していた。


「もっと、こう……」


 言葉にならない。

 頭の中に、さっきの目が浮かぶ。


 怒っていないのに、怖い。

 責めていないのに、責められている気がする。


「人じゃない、って感じだった。」


 ぼそっと漏らした。


「ほら見ろ、魔女だろ。」

「違う。」


 違うけど、違わない。


 人じゃないくらい綺麗で、人じゃないくらい強くて、人じゃないくらい冷静だった。


「……魔王だ。」


 ぽつりとした呟き。


「イシュの民連れてただろ。」

「噂のあの兎じゃねえか?」


 耳がぴくっと動いた。


「——怒れる兎か。」


 帝都のあちこちで聞いてきた噂。

 戦場から戻ってきた兵が酒場で言っていた。


 怒れる兎がいる。

 帝国のために怒る兎がいる。

 連邦の奴らをぶっ飛ばしたらさぞ痛快だろう、あの兎が前線に来てくれりゃな、って。


 訓練場で教官を転がしまくった兎一匹が、あたしの耳の中では、いつの間にか連邦の奴らをぶっ飛ばした兎に化けていた。


 それがいま、あたしの手首を掴んだ女の隣を歩いていたのだ。


「じゃあ、あの女は。」


 誰かが言いかけて、言葉を飲み込む。


「あの怒れる兎を従えた魔王、ってことか。」


 冗談半分、怖さ半分。

 でも、その言葉は、やけにしっくりきた。


 あたしは、腕を抱え込む。


 ——そうだ。


 ただの女だったってことにしたくないのは、あたしの意地だ。

 あんな目、あんな手、ただの人間が持っていてたまるか。


「魔王でいいや。」


 口の中でつぶやくと、少しだけ楽になった。


 怖かったのは、あたしのせいじゃない。

 魔王に掴まれたんだ。しょうがねえ。

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