諜報
城壁に沿って並ぶ小屋と、配給の列。
その少し外側に、不自然な輪ができていた。
「あれは。」
人垣の切れ目に、妙にきれいな布をまとった男が見えた。
帝国風の装いではない。教国の聖職者が身に着けるような、刺繍の多い衣。
男は、集まった難民たちに向かって、何かを熱心に語りかけていた。
ときどき手を挙げ、西の方角を指さす。
西――教国のある方角。ガン・イシュのある方向。
「……教国の人間ね。」
私が小さく呟くと、ラヴィが目を細めた。
「宣教?」
「それもあるでしょうけど。」
私は、その背後の城壁に目をやった。
配給所の周りに掲示されていたのとは、少し雰囲気の違うチラシが貼られている。
帝国文字でびっしりと書かれた紙が、何枚も重ね貼りされていた。
粗末な小屋の壁にも、同じ紙がところどころに見える。
「……識字率は、そこまで高くないはずよね。」
思わず、口の中で確認するように呟く。
「ん?」
「難民の多くは、文字を学ぶ余裕なんてないはず。」
配給所の板札には、記号のような印が刻まれていた。
字が読めなくても、石の数で日数を表せるような工夫。
けれど、今、教国の男の後ろに貼られているチラシは、明らかに読ませるためのものだ。
「帝国文字でチラシを貼るのは、見せる相手を篩にかけるためね。」
ラヴィがこちらを見た。
「どういう。」
「文字が読めるかどうかは、その人がどのくらい元の生活で余裕があったかの目安になる。」
指でチラシを指さす仕草だけして、声は落とす。
「読み書きができるということは、元々、少なくとも誰かに学ぶ機会を与えられていたということ。家の事情か、村の事情かはともかく。」
ラヴィが、目だけでチラシと人の流れを追い始める。
「つまり、戦地になっている地域の中にも、格差があるってことか。」
「ええ。」
文字が読める者は、元々、何かを任されていた可能性が高い。
帳場を手伝っていた子か。村の記録を付けていた者か。
チラシの前に立ち止まり、目を細める人々がいる。
口の中で、文字を追うように唇が動いている。
「……本当に読めているのか、見よう見まねなのか。」
ラヴィが小さく笑う。
「いずれにしても、知識か知恵のありそうな人間だってことだよね。」
そう言っている間にも、妙な動きが見えた。
チラシの前で、しばらく紙を見比べていた男がひとり。
そこへ、さきほどの聖職者とは別の、質素な服の男が近寄る。
何か短く言葉を交わし、頷き合う。
そして、二人で人混みから離れ、路地の奥へと消えていった。
しばらくすると、配給所寄りの場所のチラシの前で、また別の人間が足を止める。
今度は女だ。手には、擦り切れた布袋。
そこへ、さきほどとは違う服装の女が近寄り、同じように声をかける。
「……なるほど。」
私は、配給所に貼られた帝国の布告と、教国のチラシとを見比べた。
帝国は、粥の列で生かすべき手を数えている。
教国は、文字の列で引き抜くべき頭を探している。
難民街は、ただの哀れみの対象ではない。
帝国と教国にとっての資源の集積場でもあるのだ。
「そんな思惑があるのか。」
ラヴィが、感心したように息を漏らした。
「言われてみたら、そうだよね。チラシなんて、読めない人にはただの紙だもん。」
それでも、文字を追っている人はいる。
次々とチラシを渡り歩き、内容を見比べている者たち。
そこへ、どこからともなく現れた誰かが声をかけ、連れて行く。
あれが、教国側の耳と足になるのだろう。
「……しっかり諜報活動できているわね、教国も。」
思わず本音が漏れた。
「帝国も負けてないけどね。」
ラヴィは配給列の向こう、志願兵受付の札の辺りを顎で指した。
「こっちはこっちで、怒りの向きが変えられそうな人を集めてる。」
戦争難民。
文字が読める者。
槍を持てる者。
帝都の外側は、帝国と教国が静かに手を伸ばす場所なのだ。
「……やっぱり、ここは最前線ね。」
私は小さく息を吐いた。
「戦場に行く前の、もうひとつの戦場。」
ラヴィが、不意に笑って私を見た。
「そういうのを言葉にできるの、リオナくらいだよ。」
「分析するだけなら、誰でもできるわ。」
「でもさ。」
ラヴィは、チラシを見上げる男と、配給を待つ子どもと、その横で西を指す聖職者とを、順番に目でなぞった。
「あたしは泣きそうな顔を見て怒ることしかできなかったけど。」
ゆっくりと立ち上がる。
「今は、誰がどこを狙ってるかくらいは、リオナと一緒に見ていける。」
その言葉に、少しだけ救われた気がした。
「……じゃあ、しっかり見ておきましょう。」
私は立ち上がり、埃を払う。
「帝国が我が故郷と教国の聖地に、どう楔を打ち込もうとしているのか。怒れる兎の目と、聖女見習いの目で。」
「聖女見習い、ね。」
ラヴィがくすりと笑う。
「それってさ、どうやったら卒業なのさ。」
いきなり飛んできた言葉に、思わず瞬きをしたが、自分でも少し驚くくらい、答えはすぐに口をついて出た。
「見習いたい人の隣に、ちゃんと立てたら、でしょうよ。」
ラヴィが「ほほう。」という顔をする。
「じゃあ、リオナはもう、とっくに聖女だね。リルの隣に立ち続けたじゃん。」
ラヴィは、当たり前のことを言うように肩をすくめる。
「怒ってるリルの隣でさ。あんた、自分もちゃんと怒ってた。イシュの民のことでも、人間のことでも。」
言葉としては軽い。
けれど、その裏に、ラヴィのこれまでの旅の話と、自分の見てきたリルの背中が、一度に押し寄せてきた。
「じゃ、観測ごっこ続行だね、聖女様。」
返事に詰まった、そのとき。
掲示板の前で紙を読んでいた男の肩が、ぴくりと動いた。
さっきまで紙面だけを見ていた視線が、一瞬だけこちらに向きかけ、すぐに逸らされる。
「あいつ、軍の人間だ。」
「え?あの教国のチラシを見てる人?」
「難民の恰好してるけど、訓練の癖がある。」
神妙な顔をしてラヴィが警戒する。
「へえ、そんなことも分かるのね。てことは、教国に潜り込むことが目的かしら......」
「分っかるわけないじゃん。そんな素人丸出しだったらそもそも潜り込むとか無理だっての。」
「……は?ぐりぐりされたいの?」
私は急におどけてみせたラヴィの脇腹目掛け、手を伸ばした。
そのとき、掲示板の前から離れていく二つの背中が、視界の端を通り過ぎる。
彼らが何者かはわからない。
勘ぐったとおりかもしれないし、違うかもしれない。
ただひとつだけ、はっきりしているのは。
帝都の北の端で、「怒れる兎」と「聖女」という言葉が、確かに同じ場所の空気に混ざった、ということだった。
それがどこの誰の耳に残ったのかを、このときのリオナたちには知る由もなかった。
というやつである。




