城壁の街
犬と子山羊の誕生日席は、ひとしきり笑いに包まれたあとも、穏やかな熱を保っていた。
――家畜を祝う余裕。
牧羊犬を家族として同じ席で祝えるということは、少なくとも、この家族には牧草地か、放牧地を預かる立場があるということだ。
牝の子山羊を迎えるということは、単に酪農か、あるいは今後、群れを増やす見込みが立っているということでもある。
家畜を持てる国。
それを祝える豊かさを持つ国。
どれも、外壁の街では禁じてきた光景だ。
外壁の内側は、水と穀倉を守るための機能として設計されている。
牧草地や農地は外に追いやられ、家畜は街に入れない。
祝い事といえば、もっぱら人間の食卓だけだった。
けれど、この帝都では違う。
家畜は富であり、同時に誇りだ。
犬は、ただの道具ではなく、守るべき家族として抱きしめられている。
家畜を家族として祝える国。
家畜を持てるだけの土地を与えられている国。
それを宿の一室で、笑いながら祝える余裕のある国。
旅装の具合や話しぶりからして、あの家族は城壁の内の住民ではないのだろう。
牧草地や農地は、きっと城壁の外、もっと豊かな土地に広がっている。
一日では往復できない距離だからこそ、納品のついでに宿を取り、こうして誕生日を祝っている。
内政の視点から言えば、これはたいへん優等生な構造だった。
城壁は帝都を守り、外側には食料を生む土地がある。
そのあいだを人と物が絶えず行き交い、税と恩恵が流れ合う。
――内側から見れば、帝国は豊かでよく回っている国に見える。
私は水をひと口飲み、視線をラヴィに移した。
ラヴィは、誕生日席の方を横目でちらりと見て、それからこちらに向き直る。
耳が、さっきまでより少しだけ落ち着いて見えた。
「ねえ、リオナ。」
「何かしら。」
「内側、けっこう良い感じに見えたところでさ。」
ラヴィは、出入り口の方を顎でしゃくった。
「今度は外を見に行こっか。南門から一番遠い、北の門の外。」
唐突な提案に、私は目を瞬かせた。
「わざわざ反対側まで歩くの?」
「うん。」
ラヴィはあっさりとうなずいた。
「帝都の内側がどれくらい豊かかは、もう分かったでしょ。ああいう誕生祝いができるくらいにはさ。」
さっきの家族を一瞥し、ラヴィは少しだけ表情を引き締める。
「でも、本当に帝国のこと知りたいなら、北の門の外を見た方が早いよ。」
「……南門と、何か違うの。」
「南門はさ、商隊と農家が出入りする方。」
ラヴィは指でテーブルの縁をなぞりながら、落ち着いた声で続けた。
「北の門は、逃げて来た人が集まる方。」
戦争難民、という言葉が、頭の中に浮かぶ。
連邦との戦争。
「帝都は、一番大きな城壁の街だからさ。」
ラヴィは、軽く肩をすくめた。
「ここに来れば生きることはできるって、帝国民の難民には思われてる。難民にそう思わせてる。」
それでも、とラヴィは窓の外に目をやる。
「城壁の内側に家を持てるわけでもない。帝都の民にはなれない。」
私は、犬と子山羊の席に視線を返した。
さっきまで帝都の豊かさの象徴に見えていた光景が、急に別の色を帯びる。
――ここに招き入れられるのは、すでに何かを持っている者たちだけ。
帝国は、その「内側」を、しっかり守っている。
その代わりに、この城壁の北側に、戦争の「外側」を押し込めているのだろう。
「ねえラヴィ。」
「ん。」
「あなたは、どうしてそんなに、北の門のことを知っているの。」
問いかけると、ラヴィは一瞬だけ目を伏せた。
耳が、少しだけ揺れる。
「あそこにはね、昔から泣きそうな子が集まるんだ。」
ぽつりと、そう言った。
「旅の末に帝都に来たんだよ。そのたびに、泣きそうな顔してる子を、だいたい北の方で見つけた。」
「……そう。」
ラヴィは立ち上がり、椅子を引いた。
「私より内政に詳しいリオナには、そっちも見ておいてほしいんだ。」
帝国の内政を考えるなら、と続ける代わりに、ラヴィは軽く笑ってみせた。
「じゃ、ごちそうさまでした。北までお散歩ターイム。」
「……はいはい。怒れる兎の案内とあっては、断りづらいわね。と、言いたいところだけど、今日はもう休みましょ。また朝から行けばいいわ。」
◆
部屋に戻ると、簡素なベッドが二つと、小さな机がひとつあるだけだった。
窓からは、帝都の灯りが遠くにまたたいて見える。
ラヴィは靴を脱いで、ベッドの端にどさりと腰を下ろした。
「ふう……怒れる兎も、さすがに今日は休業かな。」
冗談めかした声とは裏腹に、その耳はどこか落ち着かないように揺れていた。
「……さっきから、少し様子が変よ。」
私は窓辺に腰を預けながら、そっと問いかけた。
「北の門のことを話してから、ずっと。」
ラヴィはしばらく天井を見ていたが、やがて観念したように笑った。
「バレてたか。」
「あなたの耳は正直だから。」
「ひどいな。」
口では抗議しながら、ラヴィは自分の耳を指で弾いた。
「……帝国の怒り、思い出してたんだ。」
「帝国の。」
「帝国軍ってさ、怒りを道具にするんだ。怒りの真似事だって思ってた。あたしのいた頃は丁度、直接大きくぶつかることはなかったからね。」
「続けて。」
促すと、ラヴィは少しだけ息を吐いた。
「だけど、見たでしょ。反乱軍。二人を助けた時、みんな心の底から怒ってた。憎しみを込めて石を投げてた。」
あの時、飛んできた石の重さと、皮膚に残る鈍い痛みが、じわりと蘇る。
私に向けられた怒りの熱と、その奥にあったどうしようもない絶望の色。
「明らかに頭に血が上ってる感じだったのに、やったことは冷たかった。」
ラヴィの言葉に、私は別の光景を思い出す。
リルが馬車から飛び出し、私が慌てて追い掛けた。
下流へとなすすべもなく押し流されて行くイシュの民たち。
冷水と、びくりともしない護岸。
「あたしは前後に跡を見ただけだったけどさ、怖くなった。だから軍は怒りを使うんだって思った。軍の怒りは偽物の怒りだなんて、幼稚な考えさえ持ってた。」
ラヴィから聞いた、あの一朝一夕ではできない規模の準備の話が、頭をよぎる。
工事の名目で進められていた護岸の補強。
会議で、簡単に許可が下りていた壁の修繕。
「用意周到な残虐さを全部、怒りのせいにするためなんだって。」
ラヴィの声が低くなる。
「最初は偽物でも、戦えば現場には怒りの種がいくらでも増える。終わらなくなる。お互いにね。」
仲間が殺されれば怒る。
怒った側がやり返す。
やられた側が今度は怒る。
現場で繰り返されるその往復と、増幅の連鎖を想像して、私はぞっとした。
「軍は……最初の種を、安全圏から植え付けるんだ。」
命令を出す者たちの表情が頭に浮かぶ。
どこかの会議室の、整った机と、涼しい顔をした者たち。
自分の手を汚さずに済む場所から、怒りの種だけをばらまく光景を想像した途端、今度は吐き気に似たものがこみ上げた。
「そんなの、どうやって終わらせるんだよ……」
ラヴィは、握りしめた自分の拳を見つめたまま、小さく呟いた。
無理だ、と私は心の中でそっと答える。
少なくとも、怒りを知っている者の側からでは。
怒りの連鎖に巻き込まれたままの誰かには、きっと止められない。
それでも、見てしまった以上、目をそらさないことだけは、明日からも続けなければならないのだと思った。




