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英雄譚

 結局、選んだ宿は、通りから少し外れた場所にある中規模の宿だった。

 新しくはないが、看板の木がよく磨かれ、窓からこぼれる灯りの色がやわらかい。


「ここ、匂いがいい。」


 ラヴィが鼻をひくつかせて言う。

 扉を開けると、肉と香草と焼きたてのパンの匂いが、ふわりと鼻先をくすぐった。


 荷物といっても、二人とも大したものは持っていない。

 小さな部屋に荷物を置き、顔を洗ってから、すぐ一階の食堂へ降りた。


 外は凍てつき、内には火が踊る。

 暖炉の熱、食事の湯気。

 人々の熱気が窓を曇らせる。


 灯りに照らされた長い卓と、丸い卓。

 賑やかではあるが、怒鳴り声はなく、笑い声がちらほら混ざる程度だ。

 部屋の一角には、牧羊犬の誕生日に牝の子山羊が生まれたといって祝う席もあり、豊かな国らしい笑い声がささやかに響いていた。


「……そういえば。」


 席に着き、水を一口飲んでから、前から気になっていたことを口にした。


「氷の割れ目にはまったとき、荷物は無事だったの?」

「そのときは、何も持ってなかったよ。」


 ラヴィはあっさり答え、パンをちぎりながら続ける。


「火山の国でさ、暇つぶしに蠍の話をしてみたの。そしたら、あるなら買い取ってくれるって言われてね~。」

「……あるなら。」


 妙な引っ掛かりを感じつつ、私は視線だけで続きを促した。


「だからさ、ドラゴンで砂漠に取りに行って、売りに戻った。ドラゴンの叫び声がこだました数日後だったからさ、おっちゃんの顔が傑作だった。」


 スープをすくいながら、ごく自然な口調で言う。


「…………」


 あまりに平然としていて、逆に言葉が出なかった。


「何、その沈黙。」

「いいえ。ただ、どこから突っ込めばいいのか整理しているところよ。」

「じゃ、整理が終わる前に食べよ。冷めるから。」


 ラヴィは、妙にまっとうなことを言いながら肉を口に運んだ。

 私もスープを口に入れる。温かさと塩気が、歩き疲れた体に染み込んでいく。



 食堂のざわめきは、ほどよく耳に入ってきて、ほどよく遠かった。

 ふと、隣の卓の話し声が耳に引っかかる。


「兎と言えばさ。砂漠でさ、村一つ分の水場を牛耳ってたっていう大蠍がいて――」

「はいはい。また客寄せの作り話だろ。酒場で聞いたぞ、それ。」

「違うって。火山の国の鍛冶屋が言ってたんだ。素材を持ち込んだ兎がいたって。」


 私は思わず、向かいのラヴィに視線を向けた。

 ラヴィは、パンをかじりながら、聞こえないふりをしている。


 別の卓からは、また別の声がする。


「岩が勝手に動く谷の話、知ってるか。ドラゴンの棘をどうにかしてやった兎がいるって。」

「怒れる兎だろ?あれはほら、伝説ってやつだ。」

「いや、親方が見たって言うんだよ。鍛冶場の火を面白そうに覗き込んでた兎の女の子だって。」


 火花のはぜる音と、あの鍛冶場の熱を、私はまだ見ぬ景色として想像する。

 ラヴィは相変わらず、黙々と皿を片付けていた。


 さらに奥の卓では、若い兵士たちが身を乗り出していた。


「島の方の話、聞いたか?船の墓場で、オルカと遊んで帰ってきた兎がいるって。」

「遊んで、ってお前。」

「マジだって。漁師の子どもと一緒に、オルカを馬みたいに乗り回してたって。」

「そんなの、本当だったら英雄じゃねえか。」

「だから、怒れる兎の英雄譚なんだって。」


 英雄という言葉が、耳の奥で跳ねた。

 目の前のラヴィは、英雄らしさとは程遠い姿で、皿のソースをパンで拭っている。


「……聞かないふりをするのかしら。」


 思わず、低い声で呟く。


「何が。」


 ラヴィが首をかしげる。耳だけ、ほんの少し赤い。


「あなたの話と、妙に符合する話があちこちから聞こえてくるんだけど。」

「世の中には、似たような話がたくさんあるってことだよ。」


 ラヴィは、わざとらしく視線を逸らしながら水を飲んだ。

 その耳が揺れるたびに、さっきのラヴィの言葉が、胸のどこかで一緒に揺れる。


 砂漠で怒った兎。

 氷の国で泣き顔を見つめた兎。

 火山で火花みたいに怒った兎。

 海で怒りの向きを変えようとした兎。


 それを、誰かがどこかで視点の違う形にして語り継いでいる。

 この帝都で、「怒れる兎」という二つ名だけが、一人歩きしている。


「……英雄譚ね。間の抜けたところがないじゃない。」


 小さくそう言うと、ラヴィがむっとした顔でこちらを睨んだ。


「間の抜けたところは余計。」

「でも、そこが好きよ。」

「……そういうことをさらっと言うのやめてくれないかな。恥ずかしさがまた更新されていく。」


 ラヴィはそう言いながらも、どこかほっとしたように笑った。

 食堂のざわめきの向こうで、ここにいるラヴィが当人だと知ってか知らずか「怒れる兎」の名がまた誰かの口にのぼる。


 世界が勝手に付け足した勇ましい言葉と、目の前の少し情けない本人と。

 その両方を知っていることが、少しだけ誇らしく思えた。


 そこは冬の真ん中、温もりの揺りかご。

ハッピーバースデー

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