英雄譚
結局、選んだ宿は、通りから少し外れた場所にある中規模の宿だった。
新しくはないが、看板の木がよく磨かれ、窓からこぼれる灯りの色がやわらかい。
「ここ、匂いがいい。」
ラヴィが鼻をひくつかせて言う。
扉を開けると、肉と香草と焼きたてのパンの匂いが、ふわりと鼻先をくすぐった。
荷物といっても、二人とも大したものは持っていない。
小さな部屋に荷物を置き、顔を洗ってから、すぐ一階の食堂へ降りた。
外は凍てつき、内には火が踊る。
暖炉の熱、食事の湯気。
人々の熱気が窓を曇らせる。
灯りに照らされた長い卓と、丸い卓。
賑やかではあるが、怒鳴り声はなく、笑い声がちらほら混ざる程度だ。
部屋の一角には、牧羊犬の誕生日に牝の子山羊が生まれたといって祝う席もあり、豊かな国らしい笑い声がささやかに響いていた。
「……そういえば。」
席に着き、水を一口飲んでから、前から気になっていたことを口にした。
「氷の割れ目にはまったとき、荷物は無事だったの?」
「そのときは、何も持ってなかったよ。」
ラヴィはあっさり答え、パンをちぎりながら続ける。
「火山の国でさ、暇つぶしに蠍の話をしてみたの。そしたら、あるなら買い取ってくれるって言われてね~。」
「……あるなら。」
妙な引っ掛かりを感じつつ、私は視線だけで続きを促した。
「だからさ、ドラゴンで砂漠に取りに行って、売りに戻った。ドラゴンの叫び声がこだました数日後だったからさ、おっちゃんの顔が傑作だった。」
スープをすくいながら、ごく自然な口調で言う。
「…………」
あまりに平然としていて、逆に言葉が出なかった。
「何、その沈黙。」
「いいえ。ただ、どこから突っ込めばいいのか整理しているところよ。」
「じゃ、整理が終わる前に食べよ。冷めるから。」
ラヴィは、妙にまっとうなことを言いながら肉を口に運んだ。
私もスープを口に入れる。温かさと塩気が、歩き疲れた体に染み込んでいく。
◆
食堂のざわめきは、ほどよく耳に入ってきて、ほどよく遠かった。
ふと、隣の卓の話し声が耳に引っかかる。
「兎と言えばさ。砂漠でさ、村一つ分の水場を牛耳ってたっていう大蠍がいて――」
「はいはい。また客寄せの作り話だろ。酒場で聞いたぞ、それ。」
「違うって。火山の国の鍛冶屋が言ってたんだ。素材を持ち込んだ兎がいたって。」
私は思わず、向かいのラヴィに視線を向けた。
ラヴィは、パンをかじりながら、聞こえないふりをしている。
別の卓からは、また別の声がする。
「岩が勝手に動く谷の話、知ってるか。ドラゴンの棘をどうにかしてやった兎がいるって。」
「怒れる兎だろ?あれはほら、伝説ってやつだ。」
「いや、親方が見たって言うんだよ。鍛冶場の火を面白そうに覗き込んでた兎の女の子だって。」
火花のはぜる音と、あの鍛冶場の熱を、私はまだ見ぬ景色として想像する。
ラヴィは相変わらず、黙々と皿を片付けていた。
さらに奥の卓では、若い兵士たちが身を乗り出していた。
「島の方の話、聞いたか?船の墓場で、オルカと遊んで帰ってきた兎がいるって。」
「遊んで、ってお前。」
「マジだって。漁師の子どもと一緒に、オルカを馬みたいに乗り回してたって。」
「そんなの、本当だったら英雄じゃねえか。」
「だから、怒れる兎の英雄譚なんだって。」
英雄という言葉が、耳の奥で跳ねた。
目の前のラヴィは、英雄らしさとは程遠い姿で、皿のソースをパンで拭っている。
「……聞かないふりをするのかしら。」
思わず、低い声で呟く。
「何が。」
ラヴィが首をかしげる。耳だけ、ほんの少し赤い。
「あなたの話と、妙に符合する話があちこちから聞こえてくるんだけど。」
「世の中には、似たような話がたくさんあるってことだよ。」
ラヴィは、わざとらしく視線を逸らしながら水を飲んだ。
その耳が揺れるたびに、さっきのラヴィの言葉が、胸のどこかで一緒に揺れる。
砂漠で怒った兎。
氷の国で泣き顔を見つめた兎。
火山で火花みたいに怒った兎。
海で怒りの向きを変えようとした兎。
それを、誰かがどこかで視点の違う形にして語り継いでいる。
この帝都で、「怒れる兎」という二つ名だけが、一人歩きしている。
「……英雄譚ね。間の抜けたところがないじゃない。」
小さくそう言うと、ラヴィがむっとした顔でこちらを睨んだ。
「間の抜けたところは余計。」
「でも、そこが好きよ。」
「……そういうことをさらっと言うのやめてくれないかな。恥ずかしさがまた更新されていく。」
ラヴィはそう言いながらも、どこかほっとしたように笑った。
食堂のざわめきの向こうで、ここにいるラヴィが当人だと知ってか知らずか「怒れる兎」の名がまた誰かの口にのぼる。
世界が勝手に付け足した勇ましい言葉と、目の前の少し情けない本人と。
その両方を知っていることが、少しだけ誇らしく思えた。
そこは冬の真ん中、温もりの揺りかご。
ハッピーバースデー




