穏やかなのに、怒れる兎
砂漠と氷と火山と島の話をひとしきり語り終えるころには、道の先にうっすらと高い城壁の影が見え始めていた。
ラヴィはひと息ついた。
歩きながら喋り続けていたせいで、包帯の下の胸が少し上下している。
ラヴィが耳を揺らしながら、ぽつりと口を開く。
「ね。よく分かってないくせに、あちこちで怒っちゃってさ。」
ラヴィは照れたように笑った。
「あたしが怒ったせいで、余計ややこしくなった場所も、たぶんある。」
私は、すぐには何も言わなかった。
砂漠の井戸の列。氷の丘。火の走る鍛冶場。波打ち際の子ども。
ラヴィの言葉の向こうに、顔のない誰かの表情が、いくつも浮かんでは消えた。
怒られて困った大人もいたのだろう。
巻き込まれて損をした人も、きっといる。
それでも。
遠慮して笑っていた子。
泣けなかった孫。
手を諦めかけた見習い。
海を嫌いと言えなかった子ども。
その誰かにとって、ラヴィは、たった一度、自分の代わりに本気で怒ってくれた兎だったのだろう。
怒られた側がどう思ったかまでは、ラヴィは知らない。
怒ってもらった側が、どれほど救われたかも、きっと分かっていない。
だからこそ、私は心の中でそっと呟いた。
――ラヴィ。
あなたの怒りは、きっともう、十分に希望になっている。
口に出すのは、もう少し先の楽しみに取っておくことにして、私は代わりに軽く笑った。
「……ふふ。やっぱり、ラヴィは英雄だわ。」
ラヴィは「え、どこが!」と慌てて耳をばたつかせた。
その様子がおかしくて、私はますます笑いたくなった。
◆
「最後は帝国かな。」
「そうね、ドーラに捕まった話でもいいけど?」
わざと軽く言ってみせると、ラヴィの肩がびくりと跳ねた。
「うげぇ、背中がむずむずしてきた。」
情けない声を出しながらも、歩みだけは止めない。
私は小さく笑って、少しだけからかう調子で続けた。
「穏やかなのに、怒れる兎、だっけ?」
「そう。穏やかってのはイシュの民って意味だよね。」
ラヴィは自分の胸を指でとんと叩く。
その横顔に、ドーラのあの鋭い視線が、一瞬重なった。
「ドーラは帝国の怒れる兎って呼んでたわ。」
「よく分かってないくせに、あちこちで怒った結果の二つ名。恥ずかちい。」
耳を寝かせてうつむく姿は、どう見ても「怒れる兎」というより「照れてる兎」だ。
「ふふっ、例外種って呼ばれるよりはカッコいいんじゃない?」
「リオナに例外って呼ばれるの、好きだよ。」
不意にまっすぐな言葉が飛んできて、思わず足が半歩だけ止まる。
あのときの声色が、胸の奥で蘇った。
「……あら、例外。」
「よう、例外。」
口に出してみると、あのときの空気まで戻ってくる気がした。
「たしかに、悪くなかったわ。」
ラヴィはますます居心地悪そうに身じろぎする。
「恥ずかちい。なんでそんなに男前なのさ。」
「そうかしら。ラヴィなんか私の英雄よ?」
正面から言うと、ラヴィの耳がばさばさと音を立てて揺れた。
包帯の下の胸まで、真っ赤になっているような気がする。
「恥ずかしさがどんどん更新されていく……」
ぶつぶつ文句を言いながらも、足取りは少し軽くなっていた。
ふと前方を見ると、帝都の城壁が、もうはっきりと形を取っている。
「ふふっ、ほら、もう帝都じゃないかしら?そろそろ怒れる兎の顔に戻らなくちゃ。」
「へっへっへ、ラヴィ様だぜぇ!切れる刃だぜぇ!」
わざと声を低くして胸を張るその姿は、どう見ても茶番だ。
私は冷静に一言だけ添えた。
「続けて。」
「ごめんなさい。キャラ間違えました……」
ラヴィは一瞬でしぼんで、いつもの耳に戻った。
その背中を見ながら、帝国で語られる「怒れる兎」の伝説と、今ここにいる少し情けない英雄像との落差に、私はそっと口元を緩めた。
◆
帝都の城壁は、遠目に見えていたときよりも、ずっと圧迫感があった。
高く積まれた石と、門の上に並ぶ兵士の影。
深まった冬の冷気は石に宿り、城壁を一層冷たく無機質なものに見せていた。
それでも、隣を歩くラヴィの耳は、妙に楽しそうに揺れている。
「じゃ、怒れる兎で手続きしてくるわ。」
門前の検問所の前で、ラヴィが一歩前に出た。
兵士に名乗ると、思いのほか話が早かった。
「……なるほど。調査部隊より、数日遅れて帰還予定と伺っておりました。こちらで手続きは通っております。」
兵士は、こちらをちらりと一瞥しただけで、あとは慣れた調子で書類を重ねていく。
どうやら、帝国にとって「怒れる兎」は、もう説明不要の存在らしい。
「便利だねぇ、二つ名。」
検問所を抜けてから、ラヴィが肩を回しながら笑った。
「初日くらい、いいところに泊まらない?ちゃんとしたご飯が出るとこ。」
「いいところって、どのくらいの?」
見上げれば、二階建て、三階建ての宿屋が看板を掲げていた。
窓辺に花を飾ったもの、酒樽を山積みにしたもの。どれを見ても、領主邸とは違う華やかさがある。
「ふかふかのベッドと、まともな湯と、ご飯が美味しいとこ。」
「それは……確かに魅力的だけれど。」
私はちらりとラヴィの腰の小袋を見た。
「……お金はあるのかしら。」
現実的な心配を口にすると、ラヴィは自信満々に胸を叩く。
「あるある。蠍の素材、火山の国で売ったから、まだまだ残ってる。」
「サソリ。」
さっき聞いたばかりの巨大蠍の姿が頭をよぎる。
あの砂漠の村と、氷の割れ目と、火山と。全部ごちゃまぜの絵が、ぼんやり浮かんでは消えた。
「じゃ、とりあえずご飯の美味しそうな宿を探しましょう。」
「異議な~し。」
帝都の大通りは、外壁の街とはまた違う人混みと匂いで満ちている。焼いた肉の匂い、香草、油、鉄の匂い。
ラヴィは、耳をぴんと立てて帝都の通りを見回した。




