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穏やかなのに、怒れる兎

 砂漠と氷と火山と島の話をひとしきり語り終えるころには、道の先にうっすらと高い城壁の影が見え始めていた。

 ラヴィはひと息ついた。

 歩きながら喋り続けていたせいで、包帯の下の胸が少し上下している。

 ラヴィが耳を揺らしながら、ぽつりと口を開く。


「ね。よく分かってないくせに、あちこちで怒っちゃってさ。」


 ラヴィは照れたように笑った。


「あたしが怒ったせいで、余計ややこしくなった場所も、たぶんある。」


 私は、すぐには何も言わなかった。

 砂漠の井戸の列。氷の丘。火の走る鍛冶場。波打ち際の子ども。


 ラヴィの言葉の向こうに、顔のない誰かの表情が、いくつも浮かんでは消えた。


 怒られて困った大人もいたのだろう。

 巻き込まれて損をした人も、きっといる。


 それでも。


 遠慮して笑っていた子。

 泣けなかった孫。

 手を諦めかけた見習い。

 海を嫌いと言えなかった子ども。


 その誰かにとって、ラヴィは、たった一度、自分の代わりに本気で怒ってくれた兎だったのだろう。


 怒られた側がどう思ったかまでは、ラヴィは知らない。

 怒ってもらった側が、どれほど救われたかも、きっと分かっていない。


 だからこそ、私は心の中でそっと呟いた。


 ――ラヴィ。

 あなたの怒りは、きっともう、十分に希望になっている。


 口に出すのは、もう少し先の楽しみに取っておくことにして、私は代わりに軽く笑った。


「……ふふ。やっぱり、ラヴィは英雄だわ。」


 ラヴィは「え、どこが!」と慌てて耳をばたつかせた。

 その様子がおかしくて、私はますます笑いたくなった。



「最後は帝国かな。」

「そうね、ドーラに捕まった話でもいいけど?」


 わざと軽く言ってみせると、ラヴィの肩がびくりと跳ねた。


「うげぇ、背中がむずむずしてきた。」


 情けない声を出しながらも、歩みだけは止めない。

 私は小さく笑って、少しだけからかう調子で続けた。


「穏やかなのに、怒れる兎、だっけ?」

「そう。穏やかってのはイシュの民って意味だよね。」


 ラヴィは自分の胸を指でとんと叩く。

 その横顔に、ドーラのあの鋭い視線が、一瞬重なった。


「ドーラは帝国の怒れる兎って呼んでたわ。」

「よく分かってないくせに、あちこちで怒った結果の二つ名。恥ずかちい。」


 耳を寝かせてうつむく姿は、どう見ても「怒れる兎」というより「照れてる兎」だ。


「ふふっ、例外種って呼ばれるよりはカッコいいんじゃない?」

「リオナに例外って呼ばれるの、好きだよ。」


 不意にまっすぐな言葉が飛んできて、思わず足が半歩だけ止まる。

 あのときの声色が、胸の奥で蘇った。


「……あら、例外。」

「よう、例外。」


 口に出してみると、あのときの空気まで戻ってくる気がした。


「たしかに、悪くなかったわ。」


 ラヴィはますます居心地悪そうに身じろぎする。


「恥ずかちい。なんでそんなに男前なのさ。」

「そうかしら。ラヴィなんか私の英雄よ?」


 正面から言うと、ラヴィの耳がばさばさと音を立てて揺れた。

 包帯の下の胸まで、真っ赤になっているような気がする。


「恥ずかしさがどんどん更新されていく……」


 ぶつぶつ文句を言いながらも、足取りは少し軽くなっていた。

 ふと前方を見ると、帝都の城壁が、もうはっきりと形を取っている。


「ふふっ、ほら、もう帝都じゃないかしら?そろそろ怒れる兎の顔に戻らなくちゃ。」

「へっへっへ、ラヴィ様だぜぇ!切れる刃だぜぇ!」


 わざと声を低くして胸を張るその姿は、どう見ても茶番だ。

 私は冷静に一言だけ添えた。


「続けて。」

「ごめんなさい。キャラ間違えました……」


 ラヴィは一瞬でしぼんで、いつもの耳に戻った。

 その背中を見ながら、帝国で語られる「怒れる兎」の伝説と、今ここにいる少し情けない英雄像との落差に、私はそっと口元を緩めた。



 帝都の城壁は、遠目に見えていたときよりも、ずっと圧迫感があった。

 高く積まれた石と、門の上に並ぶ兵士の影。

 深まった冬の冷気は石に宿り、城壁を一層冷たく無機質なものに見せていた。

 それでも、隣を歩くラヴィの耳は、妙に楽しそうに揺れている。


「じゃ、怒れる兎で手続きしてくるわ。」


 門前の検問所の前で、ラヴィが一歩前に出た。

 兵士に名乗ると、思いのほか話が早かった。


「……なるほど。調査部隊より、数日遅れて帰還予定と伺っておりました。こちらで手続きは通っております。」


 兵士は、こちらをちらりと一瞥しただけで、あとは慣れた調子で書類を重ねていく。

 どうやら、帝国にとって「怒れる兎」は、もう説明不要の存在らしい。


「便利だねぇ、二つ名。」


 検問所を抜けてから、ラヴィが肩を回しながら笑った。


「初日くらい、いいところに泊まらない?ちゃんとしたご飯が出るとこ。」

「いいところって、どのくらいの?」


 見上げれば、二階建て、三階建ての宿屋が看板を掲げていた。

 窓辺に花を飾ったもの、酒樽を山積みにしたもの。どれを見ても、領主邸とは違う華やかさがある。


「ふかふかのベッドと、まともな湯と、ご飯が美味しいとこ。」

「それは……確かに魅力的だけれど。」


 私はちらりとラヴィの腰の小袋を見た。


「……お金はあるのかしら。」


 現実的な心配を口にすると、ラヴィは自信満々に胸を叩く。


「あるある。蠍の素材、火山の国で売ったから、まだまだ残ってる。」

「サソリ。」


 さっき聞いたばかりの巨大蠍の姿が頭をよぎる。

 あの砂漠の村と、氷の割れ目と、火山と。全部ごちゃまぜの絵が、ぼんやり浮かんでは消えた。


「じゃ、とりあえずご飯の美味しそうな宿を探しましょう。」

「異議な~し。」


 帝都の大通りは、外壁の街とはまた違う人混みと匂いで満ちている。焼いた肉の匂い、香草、油、鉄の匂い。

 ラヴィは、耳をぴんと立てて帝都の通りを見回した。

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