怒りは悪くない。ただし、飲み込むな。燃やして立て。
◆砂漠の国 ――井戸端で怒った日
最初に砂漠を見たとき、あたし、ちょっとわくわくしてたんだよね。
だってさ、地平線まで、ずーっと砂なんだよ。森も草もない。足跡だけが伸びていくの。
その真ん中に、村がぽつんとあってさ。村の真ん中に、井戸がひとつだけあった。
毎朝、そこに長い列ができる。壺や桶を抱えた大人と子どもが、ずらっと並ぶんだ。
列の中ほどに、小さな女の子がいた。
頬がこけてて、唇が割れてて、それでも、一番重そうな壺を持ってた。
順番が来そうになると、その子は、いつも一歩だけ後ろに下がって笑うんだ。
周りの大人は、その子を良い子って褒めてた。
でも、その子の笑い方がさ、どうにも気に入らなかったんだ。
喉がカラカラで本当は泣きたいのに、いい子の顔をしている笑い方。
「ねえ、そこのあんた。」
気がついたら、その子の壺をひょいっと奪ってた。
驚いた顔をする暇もないくらい、あたしは列の先頭まで駆けていった。
「今日はこの子が先だよ。」
あたしが壺を井戸の縁にどんと置くと、列がざわっと揺れた。
井戸を守ってる年寄りが、眉をひそめる。
「順番は、守ってもらわんとな。」
「この子は、いつも自分の番を譲ってたんでしょ。」
あたしは女の子の腕を引いて、前に立たせた。
小さな肩がびくっと震える。だけど、目だけはあきらめたように静かだった。
「今日は我慢しない日。喉、からっからなんでしょ。」
女の子の喉が、ごくりと鳴った。
それだけで、あたしの中の何かが決まったみたいになった。
「泣いてる子に水を飲ませるの、そんなに悪い?」
年寄りは、あたしをじっと見ていた。
後ろの方で、「水が足りなくなる。」「子どもが多い家から先にってのは不公平だ。」とか、いろんな声がした。
あたしは、全部まとめて睨み返した。
正しい順番とか、村全体の配分とか、そんなの考える余裕はなかった。
ただ、その子の唇が割れてるのが、嫌だった。
結局、その日、女の子は真っ先に水を受け取った。
壺を抱えた腕が震えてて、飲んだとき、喉の音がはっきり聞こえた。
「ありがとう。」
女の子は、それだけ言って笑った。
今度の笑いは、さっきより、ちょっとだけ自然だった。
……けどさ。
夕方になって、井戸のそばを通ったとき、最後尾にいたはずの子が、水なしで帰っていくのが見えた。
あたしは、その子の背中から目をそらせなかった。
もしかしたら、あたしの正義のせいで、水が回らなかったのはあの子かもしれない。
胸の中が、ずしん、と重くなった。
井戸の石に腰を下ろして、うなだれてたら、さっきの年寄りが隣に来た。
「怒る子だな、兎。」
ぼそっとそう言って、笑った。
「……ごめん。」
あたしは思わず謝った。
怒ったくせに、すぐ謝るのも、我ながら情けない。
年寄りは首を振った。
「怒りは悪くない。ただし、飲み込むな。燃やして立て。」
ぽつり、ぽつりと続ける。
「お前が怒ったから、あの子は笑った。誰にどれだけ水を分けるかは、わしらの責任だ。それを、子どもの肩に乗せずに済んだ。」
あたしは、顔を上げられなかった。
でも、翌朝また井戸を覗きに行ったらね。
列のいちばん前に、前とは違う子が立ってたんだ。
年寄りが、わざとらしく目を逸らしながら、先に水を渡してた。
きっと、あの日から、順番の決め方が少し変わった。
あたしは仕組みまでは分かんないけど、誰かが、あたしの怒りを後始末してくれたってことだけは分かった。
それからかな。
怒るのは、悪いことじゃないかもしれない、って、ちょっとだけ思えるようになったのは。
◆
「え?サソリは?」
つい、口を挟んでいた。
さっきから気になっていたのだ。「こーんなでっかいサソリ。」とやらのことが。
「あー、いやぁ、それはさ……。」
ラヴィは視線を泳がせ、耳をへにゃりと寝かせた。
「あたし、村を離れてすぐに水場を見つけたんだ。だけどそこに、でっかい蠍がいてさ。」
「そのサソリが分からないのよ。」
私が首をかしげると、ラヴィは両手をぱちんと打った。
「蠍はね、両手が鋏で、尻尾に毒の針を持ってる蜘蛛みたいなやつだよ。」
「でっかいって、どれくらい?」
「ホプロケファルスくらい。」
さらりと言ってのける。
「昨日あなたをはねたのより大きいってことね。じゃあ勝ち目ないんじゃない?」
「まあ、すばしっこくてさ。石柱だろうが何だろうが、ぴょんぴょん張り付いて登ったりするんだけどね。」
「ますます無敵じゃない。」
想像しただけで、背筋が冷たくなった。
そんなものに追いかけられて、どうやって生き延びたのか。
「うーーん、どこまでも追いかけてくるんだよね。」
ラヴィは煮え切らない顔をして、前を向いた。
歩幅は落とさないまま、過去の砂漠を踏みしめているように、少しだけ足取りが重くなる。
「よく無事だったわね。」
「いや、それがさ。ジャンプ勝負は、勝ったんだよ。」
そこでラヴィは、少しだけ得意げに胸を張った。
「外壁くらい高く削られた岩があってさ。そのてっぺんから、向こう側の岩場までひと跳びしたんだ。釣られて跳んできて落ちて死んだ。」
「刺されてないじゃない。」
「う……」
言葉に詰まるラヴィ。耳が、ばつが悪そうにぴくぴくと動いた。
「……渡った先で安心して座ったら、ちっこいのに刺された。」
ぽつりと白状するその声が、やけに小さかった。
「ちっこいの。」
「うん。手乗りサイズ。」
ラヴィは自分の腰のあたりを軽く叩いて、肩をすくめた。
「だから正確にはね、でっかい蠍からは逃げ切ったけど、そのあと、ちっこい蠍に刺されたんだ。」
「話を盛るのはやめなさい。」
「いやぁ……でっかい蠍の迫力、伝えたくなるじゃん?」
ラヴィは照れ笑いを浮かべる。
毒に侵された過去を語っているはずなのに、その顔には、どこか誇らしげな光も混じっていた。
「でもまあ、そのおかげで、尻尾の感覚はずっと前からなかったわけだ。なくなってるのに気づくのが遅れたのも、そのせいってことで。」
「便利な言い訳ね。」
「便利だよ。だって――」
ラヴィは、包帯の下から伸びる自分の足をちらりと見て、笑った。
「それで翌朝、治療を言い訳に舞い戻って、怒りを後始末してくれたことを知れたんだから。」
でもこれって、近くの水場を解放したってことじゃないかしら。
「……やっぱり、あなたは英雄だわ。間の抜けたところ込みで。」
「どこがだ!」
ラヴィが抗議の声を上げ、耳をばたばたさせる。
その仕草が可笑しくて、私はほんの少し、歩く足を軽くした。




