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英雄の喪失

 森が、いつの間にか背中の方へ遠ざかっていた。


 出発した朝には、まだ両側に木立が続いていたはずなのに、今は低い灌木がちらほらと残るだけだ。

 足元には踏み固められた土の道が一本、ひたすらに先へ伸びている。左右には、耕されたまま人影のない畑が広がっていた。



 森がないことが、いちばん怖かった。


 地面がぜんぶ、見えてしまっている。

 土も石も、水の流れ方さえも、人の手でならされていた。


 父さんは、あれを営みと呼んだ。


 畑。

 道。

 家。

 煙。


 一本ずつなら分かるのに、あれだけ集まると、何か別の生き物みたいに見えた。



 子供の頃、父さんにこう教わった。


 人間は、森を食う。


 獣は腹が減ったときだけ木を折る。

 巣を作るときだけ枝を運ぶ。


 人間は、腹が満ちていても木を倒せる。

 橋をかけるために川を縛り、道をまっすぐにするために丘を削る。


 だから、人間は獣より厄介で、残虐だ。


 だからこそ、目をそらすな、とも言われた。


 畑の端で、立ち話をする人間の顔を見ろ。

 土に触れていない指先を見ておけ。


 道の上で倒れた者がいたら、そのまま踏まれるか、誰かに起こされるか、最後まで見届けろ。


 そこにある怖さと、そこにしかない優しさと、両方を覚えておけ。


 それができて初めて、あいつらと同じ地面の上を歩いていい。


 父さんはそう言って、外壁の街を顎で示した。


 あいつらみたいにな、と。




 風の音が、少し違って聞こえた。


 木々のざわめきではなく、広い地面と空の間をまっすぐに駆け抜ける風。

 それが、ラヴィの耳と包帯の端を、交互にぱたぱたと揺らしていく。


「……なんだか、落ち着かないわね。」


 思わず口にすると、前を歩いていたラヴィが振り返った。


「え、いいじゃん。空、広いよ。走りたくならない?」

「あなたは、どこでも走りたくなるだけでしょう。」

「うっ……否定はしない。」


 肩をすくめて笑いながら、ラヴィはまた前を向く。

 包帯の巻かれた胸から腹にかけてはさすがに慎重な足取りなのに、耳と歩幅だけは、どうにも元気だった。


 私はふと、その背中に目を凝らした。


 腰回り。尻尾の付け根。


 何かがおかしい。


「……ラヴィ。」

「なに?」

「あなた、尻尾、どこやったの。」


 振り返ったラヴィが、きょとんとした。


「え?」

「尻尾よ、尻尾。さっきから揺れてないなと思っていたけれど……ないじゃない。」


 ラヴィは慌てて自分の腰のあたりを探った。

 左右にひょいひょいと指先をさまよわせ、それから、ぽかんと口を開けた。


「あれ?! ほんとだ!」


 その反応に、今度は私の方が呆れる番だった。


「……痛くは、ないのね。」

「うん。……あ。」


 ラヴィは、ぽんと手を打った。


「前にさ、砂漠の国に行ったときにね。こーんなでっかい蠍に刺されてさ。」


 両手を目いっぱい広げて、ありえない大きさを示す。


「そっから先、尻尾の感覚、ぜんぜんなくなってたんだよね。だからかな。」

「砂漠……聞いたことはあるわ。ずーっと海岸みたいに砂まみれの国、でしょう。サソリって何。」

「わわっ!? 何さ、あたしの心配、もう終わり? ちぇー……結構ショックなんだぞ、これでも。」


 ラヴィがむくれた顔をするので、私は慌てて言い直した。


「ううっ……ラヴィったら、かわいそう……。で、そのサソリって、どんなの。」

「おい。」


 じとっとした視線を向けてきてから、ラヴィは大きくため息をついた。


「あー、もーう怒った。いーっ、だ。」


 と口を尖らせる。


「何よ。なくなっちゃったものは、しょうがないじゃない。私とおそろいなのが、そんなに嫌なのかしら。」


 自分の腰を軽く叩いてみせる。

 ラヴィは一瞬、きょとんとした後で、ぱっと表情を和らげた。


「あ、そっか。それは嬉しいね。」

「ええ、逆にびっくりな軽さね、その切り替え。」

「仕方ないじゃん。ハピィのせいさ。」

「……どんな理屈か、聞いていいかしら。」

「だってさ、あの子、何でもいい方に考えるでしょ。怒るってよく分からないけど、楽しそうだから一緒に飛ぶ、みたいなさ。あたしも真似してみた。」


 そう言って、ラヴィは悪戯っぽく笑った。

 確かに、どこかハピィに似ていた。


「なるほど。それなら、しょうがないわね。」

「そうそう。ハピィのせい、ハピィのおかげ。」

「ふふ。」

「ふふふ。」

「あはは。」

「あっはっは。」


 風と笑い声が、拓けた土地の上を転がっていく。

 森の中では響きすぎる笑いも、ここでは空に吸い込まれていくだけだった。


「じゃあ、順に話すよ。」


 ラヴィが足を止め、くるりとこちらに向き直る。


「砂漠、氷、火山、島国。ラヴィ様の大冒険、はーじまーるよー。」


 わざとらしく両手を広げてみせるその調子に、思わず吹き出した。


「ふふっ。ハピィみたいね。」

「でしょ。では第一幕、蠍と尻尾の悲劇からスタートします。」

「タイトルからして悲劇なのだけれど。」

「大丈夫大丈夫。今こうして歩いてる時点で、ちゃんと喜劇だから。」


 ラヴィは、包帯の下を軽く叩いて見せた。

 痛みをごまかす仕草のはずなのに、その顔にはやはり笑みが浮かんでいる。


「じゃ、行きながら話そっか。砂漠の話、リルにはまだ内緒ね。」

「分かったわ。耳ならここに、ちゃんとあるもの。」


 私は自分の耳にそっと触れ、それからラヴィの横に並んだ。


 森の影はもう遠く、前には広く流れる空と土だけがある。

 英雄譚の続きを聞くには、ちょうどいい道だった。

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