英雄の喪失
森が、いつの間にか背中の方へ遠ざかっていた。
出発した朝には、まだ両側に木立が続いていたはずなのに、今は低い灌木がちらほらと残るだけだ。
足元には踏み固められた土の道が一本、ひたすらに先へ伸びている。左右には、耕されたまま人影のない畑が広がっていた。
◆
森がないことが、いちばん怖かった。
地面がぜんぶ、見えてしまっている。
土も石も、水の流れ方さえも、人の手でならされていた。
父さんは、あれを営みと呼んだ。
畑。
道。
家。
煙。
一本ずつなら分かるのに、あれだけ集まると、何か別の生き物みたいに見えた。
◆
子供の頃、父さんにこう教わった。
人間は、森を食う。
獣は腹が減ったときだけ木を折る。
巣を作るときだけ枝を運ぶ。
人間は、腹が満ちていても木を倒せる。
橋をかけるために川を縛り、道をまっすぐにするために丘を削る。
だから、人間は獣より厄介で、残虐だ。
だからこそ、目をそらすな、とも言われた。
畑の端で、立ち話をする人間の顔を見ろ。
土に触れていない指先を見ておけ。
道の上で倒れた者がいたら、そのまま踏まれるか、誰かに起こされるか、最後まで見届けろ。
そこにある怖さと、そこにしかない優しさと、両方を覚えておけ。
それができて初めて、あいつらと同じ地面の上を歩いていい。
父さんはそう言って、外壁の街を顎で示した。
あいつらみたいにな、と。
◆
風の音が、少し違って聞こえた。
木々のざわめきではなく、広い地面と空の間をまっすぐに駆け抜ける風。
それが、ラヴィの耳と包帯の端を、交互にぱたぱたと揺らしていく。
「……なんだか、落ち着かないわね。」
思わず口にすると、前を歩いていたラヴィが振り返った。
「え、いいじゃん。空、広いよ。走りたくならない?」
「あなたは、どこでも走りたくなるだけでしょう。」
「うっ……否定はしない。」
肩をすくめて笑いながら、ラヴィはまた前を向く。
包帯の巻かれた胸から腹にかけてはさすがに慎重な足取りなのに、耳と歩幅だけは、どうにも元気だった。
私はふと、その背中に目を凝らした。
腰回り。尻尾の付け根。
何かがおかしい。
「……ラヴィ。」
「なに?」
「あなた、尻尾、どこやったの。」
振り返ったラヴィが、きょとんとした。
「え?」
「尻尾よ、尻尾。さっきから揺れてないなと思っていたけれど……ないじゃない。」
ラヴィは慌てて自分の腰のあたりを探った。
左右にひょいひょいと指先をさまよわせ、それから、ぽかんと口を開けた。
「あれ?! ほんとだ!」
その反応に、今度は私の方が呆れる番だった。
「……痛くは、ないのね。」
「うん。……あ。」
ラヴィは、ぽんと手を打った。
「前にさ、砂漠の国に行ったときにね。こーんなでっかい蠍に刺されてさ。」
両手を目いっぱい広げて、ありえない大きさを示す。
「そっから先、尻尾の感覚、ぜんぜんなくなってたんだよね。だからかな。」
「砂漠……聞いたことはあるわ。ずーっと海岸みたいに砂まみれの国、でしょう。サソリって何。」
「わわっ!? 何さ、あたしの心配、もう終わり? ちぇー……結構ショックなんだぞ、これでも。」
ラヴィがむくれた顔をするので、私は慌てて言い直した。
「ううっ……ラヴィったら、かわいそう……。で、そのサソリって、どんなの。」
「おい。」
じとっとした視線を向けてきてから、ラヴィは大きくため息をついた。
「あー、もーう怒った。いーっ、だ。」
と口を尖らせる。
「何よ。なくなっちゃったものは、しょうがないじゃない。私とおそろいなのが、そんなに嫌なのかしら。」
自分の腰を軽く叩いてみせる。
ラヴィは一瞬、きょとんとした後で、ぱっと表情を和らげた。
「あ、そっか。それは嬉しいね。」
「ええ、逆にびっくりな軽さね、その切り替え。」
「仕方ないじゃん。ハピィのせいさ。」
「……どんな理屈か、聞いていいかしら。」
「だってさ、あの子、何でもいい方に考えるでしょ。怒るってよく分からないけど、楽しそうだから一緒に飛ぶ、みたいなさ。あたしも真似してみた。」
そう言って、ラヴィは悪戯っぽく笑った。
確かに、どこかハピィに似ていた。
「なるほど。それなら、しょうがないわね。」
「そうそう。ハピィのせい、ハピィのおかげ。」
「ふふ。」
「ふふふ。」
「あはは。」
「あっはっは。」
風と笑い声が、拓けた土地の上を転がっていく。
森の中では響きすぎる笑いも、ここでは空に吸い込まれていくだけだった。
「じゃあ、順に話すよ。」
ラヴィが足を止め、くるりとこちらに向き直る。
「砂漠、氷、火山、島国。ラヴィ様の大冒険、はーじまーるよー。」
わざとらしく両手を広げてみせるその調子に、思わず吹き出した。
「ふふっ。ハピィみたいね。」
「でしょ。では第一幕、蠍と尻尾の悲劇からスタートします。」
「タイトルからして悲劇なのだけれど。」
「大丈夫大丈夫。今こうして歩いてる時点で、ちゃんと喜劇だから。」
ラヴィは、包帯の下を軽く叩いて見せた。
痛みをごまかす仕草のはずなのに、その顔にはやはり笑みが浮かんでいる。
「じゃ、行きながら話そっか。砂漠の話、リルにはまだ内緒ね。」
「分かったわ。耳ならここに、ちゃんとあるもの。」
私は自分の耳にそっと触れ、それからラヴィの横に並んだ。
森の影はもう遠く、前には広く流れる空と土だけがある。
英雄譚の続きを聞くには、ちょうどいい道だった。




