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耳と目で

 国境付近の丘に張られた宿営地に着いたころには、空の色がすっかり変わっていた。


 簡易の幕舎がいくつも並び、焚火の煙が低く漂っている。

 気付いた兵がこちらへ駆け寄り、あたしを見るなり声を上げた。


「おい、怒れる兎が潰れてるじゃねえか!」

「潰れてない。ただの全身打撲だ。」


 あたしは冷静に言い返し、そのまま医療用の天幕へと運び込んでもらう。

 包帯と湿布の匂いの中で、軍医が手際よく処置を進めた。


「骨は無事だ。だが、しばらく全力疾走は無理だな。」

「じゃあ、半力疾走なら。」

「黙って横になってろ。」


 軍医の叱責に、あたしは素直に口を閉じた。



 粗末な机の上に、地図と報告書の束が広げられていた。

 調査部隊の隊長は、あたしを見ると短く息を吐いた。


「無事だったか。」

「おかげ様でこの通り。」

「……そうか。では、報告を。」


 隊長は複雑な顔をする。

 あたしは簡潔に語った。


 辺境伯領では人間軍の反乱が発生。

 イシュの民を収容した施設が破壊される。

 イシュの民が皆殺しにされたことを確認。

 情報を持ち帰るために、早々に戦線を離脱。


「ご苦労。なるほど、それで聖女の逃亡か。」

「何か見つけたのか?」


 あたしは一抹の不安を覚えた。


 少し西の国境付近で辺境伯領から遠ざかるイシュの民の一団を確認。

 軍の保有する聖女と酷似した人物と共に、更に西へと移動。

 教国との国境まで追尾。

 進路は教国の聖地、天空の台地。


 こちらの情報と引き換え、というわけではないだろうが、そんな情報を得た。


「部隊は明日、引き返す。軽傷者を含めて全員だ。」

「了解。あたしはこの通りだから、ゆっくり帰るよ。」

「ああ、そうしろ。」



 ラヴィが天幕から出てくる頃、夕暮れの風が頬を撫でた。


「どう?」

「うん、全身が痛い!」


 ラヴィは胸から腹にかけてぐるぐると巻かれた包帯を見下ろし、むっとした顔で言った。


「でも、生きてる。」

「生きているから、痛いのよ。」


 私は小さく笑ってから、その包帯の端を指でつついた。


「ねえ、ラヴィ。」

「何さ。」

「私たち、どっちに行く?」


 ラヴィは少しだけ考え、すぐに答えた。


「……帝国。まずは、そこ。」

「帝国?」

「うん。」

「理由、聞いてもいい?」


 ラヴィは、痛みをこらえるように膝を抱え、笑った。


「帝国は、戦ってるけど、王国とは正面きって喧嘩はしてない。連邦との戦で忙しくて、辺境伯領の反乱に対しても、あたしの情報の受け取り方次第かな。でもさ、そういう国ほど、他所の話を知りたがるんだ。」


 帝国の市場。

 情報を運ぶ商人たち。

 諜報の網。


 ラヴィは、その真っ只中で「帝国の怒れる兎」として名を知られた存在だ。


「あたしの名、まだ、ぜんっぜん使えるし。」


 ラヴィは自嘲気味に笑った。


「怒れる兎が、帝都の酒場うろついてたらさ。王国でこんなことがあったらしい。教国がこんな触れを出した。って、誰かが勝手に喋ってくれる。」

「世界の情報が集まる場所、というわけね。」

「うん。ガン・イシュに行っちゃったら、きっとしばらくは、外の話より、毎日の食べ物とか、寝る場所とかの方が大事になる。わかんないけど、それで満足しちゃいそう。」


 ラヴィは、森の奥の暗がりの方を見た。


「リルはそれでいい。みんなもそれでいい。でもね、誰かはきっと、外で何が語られてるか、拾っておいた方がいい。」

「それが、あなた、ということ。」

「……あたし一人じゃ心細いから、リオナも来てよ。」


 妙に子どもっぽい言い方だった。


「王国に戻ったってさ、リルはいないんだ。聖女はいないのに、聖女の席だけ残ってる場所でさ。何すんのさ。」


 ラヴィは、鼻で笑った。


「でも帝国なら、あたしは怒れる兎だ。リオナは……そうだな、怒れる兎の付き人?護衛?なんでもいいや。」

「雑な肩書きね。」

「雑な方が、記録に残りにくいよ。」


 そこだけは、妙に説得力があった。


 私は、しばらく口を閉じていた。


 ガン・イシュは、楽園だ。

 そこにはきっと、リルの法はいらない。


 けれど、その外側で、何が語られるか。

 イシュの民が、どんな名前で呼ばれ始めるか。


 それを知る役目を、誰が担うのか。


 ——リルのそばにいることだけが、守ることではない。


 そんな考えが、一瞬だけ胸をよぎった。


「はぁ……それで説得してるつもり?」

「うん……だめ、かな?」

「ばかね。最初の一言でもう、行く気満々よ。誰がほっとけるってのよ。」

「やった!」

「……帝国まで、歩けるかしら。」


 私がそう問うと、ラヴィは大げさに肩をすくめた。


「歩くよ。走らなきゃいいんでしょ。跳ばなきゃいいんでしょ。」

「跳ぶのは、一月は禁止。」

「長っ!」


 抗議の声を上げながらも、ラヴィの耳は楽しそうに揺れた。


「じゃあ決まり。ガン・イシュは、あの子たちとリルに任せる。あたしたちは、世界が何を言い出すか、ちょっと耳を澄ませてくる。」

「勝手に任せられたら、リルが怒るわ。」

「そうだよね、リルは普通に怒るんだ。怒れるリルも、ちょっと見てみたいかも。」


 痛みに顔をしかめながら笑うラヴィを見て、私は小さく息を吐いた。


「……リルの怒りは、私の希望。」


 私は立ち上がり、ラヴィに手を差し出す。


「帝国へ行きましょう。あなたの耳と、私の目で、世界の言葉を拾えるだけ拾っておく。」

「約束ね。」


 ラヴィは私の手を掴み、ゆっくりと立ち上がった。

 私はちょっとわくわくしていた。

 離れていた間に、ずいぶんと頼もしくなったラヴィ。

 それでいて、可愛らしいところは昔のまんま。

 私は英雄劇の続きが見られるようで、これから起こることに胸を膨らませていた。

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