英雄は空を飛ぶ
「……お疲れさま。」
木立の影で手綱を放したラヴィは、肩で息をしていた。
けれど顔だけは、ひどく晴れやかだった。
「見た?今の!あたし、けっこううまくやったよね?」
耳をぴんと立てて、子どもみたいに笑う。
私はその笑顔に、返事を少しだけ遅らせた。
「……ええ。十分すぎるほど。」
本当は「やりすぎ。」と言いたかった。
けれど、あの跳ね回る馬の上で笑っていられた彼女に、水を差したくはなかった。
◆
「調査部隊の宿営地、覚えてる?」
森の縁へ歩き出しながら、私は訊いた。
「ん?ああ、国境の丘のとこ。大丈夫、大丈夫。あたしの足ならあっという間だって。」
ラヴィは胸を反らしてみせる。
息はまだ少し荒い。なのに、歩幅だけはいつもより大きかった。
「……あっという間は、せめて一度座ってからにしてはどうかしら。」
「平気平気。ほら、こうして歩いてるだけで、体が軽くてさ。」
それは、どう見ても軽さではなく、興奮だった。
私はラヴィの横顔をちらりと見て、話題を変える。
「単独調査の方は、どうだったの。」
「んー……どこから話そっか。」
ラヴィは耳をくるりと回し、少しだけ真面目な顔になった。
「まず、孤児院。あれ、もう形がない。そのくせ水路はきれいなもんさ。思えば準備の形跡だらけだったんだよね。」
短く区切られた言葉が、森の中に落ちていく。
「水が全部、あの場所を選んでいるみたいだった。建物も、柵も、ぜんぶ潰れてて……みんな、流されてた。」
私は無意識に拳を握っていた。
「遺体は?」
「ほとんど、なかった。」
ラヴィは視線を落とし、少し歩調を緩める。
「ただ、冷たくて、静かで。……あたしさ、あそこで初めて、怒るって感情に追いつかれた気がしたよ。」
そう言ってから、かすかに苦笑した。
「でも、全部覚えてられるわけじゃないからさ。調査の分は、宿営地でちゃんと報告する。」
考えないようにしていたけれど、リルと吊るされた場所、やはりあそこは孤児院の跡地だったのだ。
◆
森を抜けかけたころ、木々の間から、開けた土地がのぞいた。
街道だった。
踏み固められた土の上を、アスリケファルスやホプロケファルスが牽く荷車が、一定の間隔で往来している。
あんなことの後だからか、ずいぶんと数が少ない。
外壁の内側から見るのとは違う、細く長い道。
「ここは、向こうに渡るの?」
私がそう言うと、ラヴィの耳がぴん、と立った。
「ねえリオナ。あたしさ、あそこの木から街道、飛び越えられると思う?」
嫌な予感がした。
「やめておきなさい。」
「いやいや、さっきの殿、見てたでしょ?あの馬の上で踊れたあたしがだよ?このくらい朝飯前だって。来るときもそうやって跨いだんだから!」
ラヴィは聞いていなかった。
いや、聞いていたのだろうが、興奮が上書きしていた。
街道脇に伸びる、根の張った一本の木。
彼女は、その幹に手を当てた。
「向こう側の枝まで駆け上がって、そのままひと跳び。ね、見たいでしょ?」
「ラヴィ。」
呼び止めた声は、自分でも驚くほど冷静だった。
「馬をからかうのと、地面を飛び越えるのは違うわ。」
「だいじょーぶだって。ほら、見てて。」
ラヴィは笑い、幹を蹴った。
一歩、二歩。
いつもの跳躍の前の、助走。
三歩目を踏み込んだ瞬間だった。
膝から、力が抜けたように見えた。
幹が、弓のようにしなり、その弾力がそのままラヴィの体を弾き返す。
空気が一瞬、固まったように思えた。
「ラヴィ!」
私の声が届くより早く、彼女の体が、街道の上へと投げ出された。
ちょうどその時、アスリケファルスの牽く荷車が通りかかる。
逃げる暇も、体勢を立て直す余裕もなかった。
極太の脚と車輪が、落ちてくる影に目を見開く。
ラヴィの体は、進行方向と同じ向きに飛んでいた。
だからこそ、ぶつかった瞬間、全部が砕けずに済んだのだろう。
鈍い音がして、ラヴィの体が前方へ弾き飛ばされた。
きれいに踏み固められた白い土の上を転がっていく。
「止まって!」
私は叫びながら街道へ飛び出し、荷車の御者に手を振った。
アスリケファルスが前脚を踏ん張り、荷車がぎし、と音を立てて止まる。
土埃の中で、ラヴィが仰向けに倒れていた。
耳も、足も、折れてはいない。
けれど、胸がひきつれて満足に呼吸ができず、毛がない部分の皮膚がじわじわ赤黒くなっていくのが分かった。
「ひっ、ひっ、ひっ、ひっ……。やっちゃった。」
それでも、しゃっくりのように彼女は笑った。
こっちの気も知らずに、何がおかしいのか。
涙混じりの顔に、怒りがこみ上げる。
「万能感って、長くは持たないんだね。」
「喋るのはあとにしなさい。」
私は地面に膝をつき、手早く状態を確かめる。
少なくとも骨は折れていない。
けれど全身に、打撲の色が浮かび上がるのは明らかだった。
「宿営地までは……歩ける?」
「……歩く。歩かないと、あたし、さっきの殿が格好つかない。」
そう言って起き上がろうとするラヴィの肩を、私は押さえた。
「格好はもう十分ついているわ。あとは、生きて報告するだけ。」
アスリケファルスの御者が、おそるおそるこちらを見ている。
私は軽く頭を下げ、荷車の後ろを少しだけ借りた。
「国境の宿営地までこの子を運んでもらえますか。……報酬は、向こうで。」
御者は報酬を固辞した。




