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私の英雄

 最初にあの馬を見た時、私は、どうしても笑ってしまいそうになるのをこらえていた。


 アスリケファルスやホプロケファルスとは違い、軍用馬はアスピソプスというらしい。

 鋭利な縁を持つ盾のような顔をした、ずんぐりしたトカゲだ。

 鼻先から首にかけて、岩を削ったような襟飾りがせり出している。背に鞍を置くと、乗り手の足が簡単に刻まれてしまうから、一人乗りの二輪車を牽かせるのがこの国の戦い方だと、軍務家の当主ルイスに聞いたことがある。


 小さな盾が、自分の頭ごと突っ込んでくる。

 私は、その言葉の意味を、その日初めて目で知った。



「ちっ、見てらんねーな!行け!このラヴィ様が殿を務めてやる!」

「水臭いわね。聖女リルとして、私も付き合うわ。」


 私が隣に立つと決めた時、自然と役割が決まった。

 ラヴィは、片耳だけこちらに向けて、目はずっと前を見ていた。


「聖女様を逃がすんだろ。だったら、いちばん速いやつが前だ。」


 そう言って笑った時、もう私は何も言わなかった。

 私はわざとらしく逃げ惑い、素人丸出しの悪目立ちするような逃走劇を演じた。


 今、私は遠巻きの丘の影から、その背中を見ている。

 メレナがリルを担ぎ上げ、土の上を滑るように走って森に消えた。

 アスピソプスの前脚が土を掘り、短い尾が地面を打つたびに、乾いた音が響く。


 逃亡旅団は、もう別の道へと逸れている。

 ここに残っているのは、多種多様な足跡だけだ。


 ラヴィは、自ら馬を興奮させた。


 二輪車の上で、彼女は立っていた。

 手綱を握る位置をわざと少し高く取り、馬の頭の向きが変わるたび、体重を前へ後ろへと預ける。

 アスピソプスは首を振り回し、鋭い襟飾りで空気を裂いた。

 前脚を持ち上げ、そのまま身体を捻って二輪車ごと跳ね上げる。


 砂が舞う。金属の手綱が高い音を鳴らす。

 車輪が片方だけ地を離れ、ラヴィの体が宙に浮く。


 それでも彼女は落ちなかった。


 両足の爪先だけで板を掴み、尻尾のように垂らした髪を風になびかせたまま、狼狽える兵士たちに背を向ける。

 次の瞬間、アスピソプスの前脚が地を打ち、その勢いを利用して、二輪車はくるりと半周回った。


 私は思わず息を止めていた。


 馬が跳ねる。

 車輪が跳ねる。

 そのどちらより高く、ラヴィの影が跳ねる。


 逃亡旅団が過ぎ去った後、反乱軍の兵たちは、足が止まっていた。

 前へ出ようとする者もいたはずなのに、誰も一歩を踏み出せない。

 砂煙の向こうで暴れるのは、アスピソプスと、その上で笑う兎だけだった。

 あんなことができる私でさえ興奮するのだ。

 敵として立ち塞がれたら戦意など残るはずもない。

 あれを敵に回してなお前に出られる者がいたら、私はその者を称える。


 二輪車が突然横滑りをして、前にいた馬の鼻先をかすめる。

 アスピソプスは本能で首を引き、盾のような顔を横に振った。

 つられて繋がれた他の馬たちも方向を乱す。

 列が崩れ、戦慄(わなな)きと悲鳴が混ざり合った。


 ラヴィは、その一瞬の乱れを見逃さない。


 二輪車を砂利に乗り上げさせ、わざと車体を大きく揺らして、追手の注意をすべて自分に集める。

 すでに別の道を走っている逃亡旅団に、意識を向けさせないために。


 私は、拳を握り締めていた。

 祈るというより、興奮を握り締める形だ。


 ラヴィは、戦っているようには見えなかった。

 ただ、踊っているように見えた。


 暴れる馬の上で華麗に踊る、軽鎧に身を包んだ兎。

 

 武器といえば、耳と足と、しなやかな背中だけ。


 けれど、盾の顔をした馬は、彼女ひとりに完全に目を奪われていた。

 前脚を高く上げ、地を踏み鳴らし、牙のないくちばしのような口を開けて、息を荒げる。

 大きな車輪が、そのたびに悲鳴のような音を立てた。


 反乱軍の人間が戦意を失っているのが、丘の上からでも分かった。

 誰も、前へ進まない。

 暴れるアスピソプスと、その上で笑う兎の影が、異質なほど浮かび上がっていた。


 私だけが、熱狂的な観客だった。


 ただ、風に煽られて変形する砂煙の向こうに、ラヴィの耳だけを見つけていた。



 どれほど時間が経ったのか分からない。


 太陽はそれほど動いていないのに、馬の肩は白く泡立ち、脚取りは明らかに重くなっていた。

 それでもラヴィは手綱を離さない。

 自分の体の軽さで、馬の重さを操り続けていた。


 やがて、馬の群れは、完全に止まった。


 私は、ラヴィの名を、大声で叫んでいた。


 その時、アスピソプスが大きく息を吐いた。

 背中の筋肉がふっと緩んだのが、遠目にも分かる。


 二輪車の揺れが収まり、ラヴィがゆっくりと腰を落とした。

 最後に一度だけ、こちらを振り返る。


 丘の影からいつの間にか岩の上ではしゃいでいた私に気付いたのだろう。

 耳が、少しだけこちらに傾いた気がした。


 あれが、私にとっての英雄譚の始まりだった。


 ひとりの兎が、ひと匹の馬を踊らせ、ひとつの軍を足止めした。

 その間に逃亡旅団は、静かに外壁の影を抜けていったのだ。

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