皆には皆がおる
「ちらりと見たラヴィの隣にはリオナがおりんした。紫露と違うてな。」
紫露は、少しだけ笑った。
「紫露はずっと一人。怒りを抱えても、それを聞いてくれる者が、おらなんだ。」
言葉は淡々としていた。
けれど、その淡々さの中に、長い時間ひとりで考え続けてきた者の重さがあった。
ハピィの羽が、リルの腕をぎゅっと抱くように縮まった。
怒ることを知らない鳥の胸が、小さく震えたのをリルは感じた。
「おばば様がな、紫露に術を授けんした。術で尻尾を粉にし、分け身ができんした。紫露は一人じゃのうなりんした。紫露が名を付け、役目を与えんした。」
紫露は腰のあたりに手をやり、そこにもうないはずの尾の感触を探すような仕草をした。
紫露と同じ場所を見てきた者たち。
その名前を、今はあえて口に出さないまま、紫露は話を続ける。
「皆には皆がおる、ゆめゆめそれを忘れなさんな。」
紫露の視線が、今度は輪の全員を掃いた。
母と子、古参と若者、戻る者と行く者。
誰かの隣に、必ず誰かがいる。
「ちと、ドーラ様を助けとうなりんしてな。」
そこで紫露は、肩をすくめるように笑った。
「いろいろあって、水源の間にみんなでお参りに、初詣に行ったんでござんす。九人で水源の間に並んで、こう願いんした。――今年もイシュの民のみんなが、幸せでありますように。そんなささやかな願いを祈るんが初詣でござりんす。」
初詣。
その言葉を、使った記憶かあった。
それを思い起こしたリルの唇が、小さく鳴った。
「その時、何かが起きたんでありんす。」
紫露の声が、少しだけ低くなった。
「どこか知らぬ場所と繋がってしもうた。紫露の頭の中に、よう知らぬ言葉と景色がどっと流れ込んできんした。」
焚火の炎が揺れ、紫露の影が長く伸びた。
「ここにはない歌。ここにはない祭。名前の多すぎる国。誰のものとも言えぬ記憶ざんした。祖先の記憶とも違う。仲間の記憶とも違う。」
リルの指先が、無意識に胸元のコインを探した。
尻尾の毛が、そこに確かに結ばれている。
「その時初めて、シロは『紫露』と名乗ることにしんした。」
紫露は自分の名を、ゆっくりと口の中で転がした。
「雅ぶって帯なんぞ締めておるんも、そのせいでありんしょう。よう分からぬ記憶の中から、ひとつ借りてきただけの、見よう見まねでありんす。」
帯の結び目を指で弾いてみせると、輪のどこかから、小さく笑いが漏れた。
重い話の中で、ようやく生まれた笑いだった。
「ただ、その時に出来たんは、イシュの民に古くから流れる願いの魔法とは、成り立ちも効果も違う別物でござりんした。」
紫露は焚火の火を見下ろした。
「水結晶が拾ってしもうた、紫露の願い。紫露はそれを、どう扱えばよろしいもんか、今もよう分かっておりんせん。」
紫露は、そう言って肩をすくめた。
完成した賢者のように語っているわけではなかった。
自分の失敗も、迷いも、含めて差し出している話し方だった。
火の粉がひとつ弾け、煙の中に消えた。
「それでも、ひとつだけ確かなことがありんす。」
紫露は顔を上げた。
「願いの魔法を打ち消したせいで、皆はもう、穏やかではおれん。怒りも憎しみも、これから先、何度でも湧き上がる。」
輪のどこかで、誰かが喉を鳴らした。
「けれど、それを殺して生きよとは、紫露はよう言えん。怒りを知らぬまま殺されていった者が、——あまりに多すぎる……」
紫露の声が、ほんの少し震えた。
「だから皆、自分の怒りを、どう抱えていくか、これから探しておくんなまし。紫露が尻尾を粉にしてまで欲しかったんは、その時間でありんす。」
ハピィが、リルの下で小さく身じろぎした。
ふわふわした腹越しに、鼓動がひとつ伝わってくる。
「怒るって、まだよく分からないけどね。」
ハピィがぽつりと言った。
その声は、いつもの明るさのままだった。
「みんなが痛いのは分かるよ。だからぼくは、飛べるとこまでは一緒に行くの。」
それだけ告げて、彼女はまた口を閉ざした。
怒れないことを恥じるでもなく、ただ事実として告げた声だった。
ロンギヌスが、蹄の先で槍の柄を押し直した。
槍は焚火の光を鈍く受け、地面の中へとまっすぐ沈んでいた。
◆
「……紫露さん。」
ロンギヌスが、槍を見つめたまま、口を開いた。
「西の水結晶を砕いた時、我らの穏やかさは戻らなくなってしまったんですね。」
紫露はゆっくり頷いた。
「主さんの目には、紫露やラヴィ、リオナがどう映りんしたか。よう思い返しておくんなまし。」
そしてそのまま小さく首を振った。
ロンギヌスは、そんな紫露をじっと見た。
リルはゆっくりと息を吸った。
怒りは消えない。悲しみも消えない。
それでも今、目の前には火と肉と湯気がある。
誰かと一緒に座って、これから口に入れるものがある。
「……食べましょう。」
リルはそう言った。
自分でも驚くほど、その声は静かだった。
「戻る人も、行く人も。みんなで。」
セバスチャンが、深く頷いた。
「そうでございますな。生きると決めた者は、まず食べませぬと。子供たちには、ほら。ちゃあんと食べたら、このセバスがまほうの飴玉をあげよう。」
ロッテンマイヤーが静かに立ち上がり、鍋の蓋を取った。
湯気が立ちのぼり、骨の甘みと野草の匂いが輪の中に広がる。
誰かが串を取る。
誰かが器を回す。
煙が空へ流れていく。
食事は、生きることの象徴だった。
戻る者も、彼の地へ向かう者も、今は同じ肉を噛みしめる。
そのたびに、怒りと悲しみは消えないまま、小さく形を変えていく。
紫露は帯の端を指でいじりながら、焚火の向こうでそっと目を閉じた。
——皆が今年も、幸せでありますように。
初詣で願ったのと同じ言葉を、もう一度、胸の内で唱える紫露。
その願いがどんな形で叶うのかは、やはり今も分からない。
けれど、煙はまっすぐ空へと昇っていった。
それだけは、確かだった。




