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香食

 ガン・イシュへ向けて歩き出した日の昼だった。


 森の中の少し開けた場所に、焚火がいくつも点々と灯っている。

 昨夜は必死に煙を殺していた火が、今日は細く白い筋を空へ伸ばしていた。

 風にちぎられながらも、ここにいるぞ、と空に名乗りを上げていた。


 木の根元には、朝のうちに狩られた獲物が並んでいる。

 牙で仕留め、爪で裂き、骨ごと砕いた肉だ。

 街に戻ると決めた者たちが、別れの餞別として森に飛び込み、身体ひとつで狩ってきたもの。

 戻る側も、行く側も、最後に同じ鍋を囲むための獲物だった。


 リルはそのひとつの火の前で、ハピィの懐に腰を下ろしていた。


 ハピィのお腹は、脂肪と羽毛でふわふわしている。

 膝の下にふかふかの座布団をもう一枚敷いたような感触で、沈み込むたびに、羽毛の奥からぬるい体温が立ち上がる。

 背中には羽がふわりとかかっている。風よけなのか、抱きしめているつもりなのか、本人にも分かっていないような、そんな羽だった。


「煙、出していいんだね。」


 リルがそう言うと、ハピィは少しだけ首を傾げた。


「もう外壁からは見えないからね。……たぶん。」


 たぶん、と言いながら、その目は周囲の木々と空をよく見ていた。

 怒りを知らない代わりに、怖がり方もどこか静かだ。

 足元では、まだ年若い成体たちが、枝を折り、串を削り、手際の悪い手つきで肉を刺している。

 湯を張った鍋には、セバスチャンが何かの野草をちぎっては放り込み、味を確かめていた。

 立ち昇る香りに、骨の甘い焦げと野草の青さが絡み、つい身を乗り出してしまう。


「リル様、あまり火に寄りすぎませぬよう。」


 水かきの付いた手で、セバスチャンがそっと薪をずらす。

 育児嚢(ポケット)の中で、包み紙の擦れる音がかすかにした。飴玉がいくつか、そこに眠っているのだろう。


 その向こうでは、ロッテンマイヤーが、焚火の灰を払うように布を広げていた。

 白い顔に黒い手、丸い耳。表情はほとんど動かないまま、腰を下ろす位置や膝の角度だけで、座り方を整えていく。

 ルイーズがその真似をして、隣のアリスにくすりと笑われた。

 ヴィクトリアは娘ふたりの背を撫でながら、自分の体の鹿()の子模様を隠すでもなく、陽にさらしている。


 輪の少し外側では、白い影がひとつ、焚火から半歩離れて立っていた。

 額に一本の角、脚の先は蹄。白馬の獣人、ロンギヌス。

 この一団で一本きりの槍を、ぎこちなく抱えている。。

 蹄の先で柄を支え、肩と頬でそっと押さえながら、彼は座る場所を探していた。

 手では握れぬ男が、それでも槍を手放さずここまで歩いてきたのだと、リルはようやく気付いた。



「皆と別れる前に、紫露は紫露のことを、ここでお話ししんしたく存じんす。」


 焚火のひとつの向こうで、紫露が帯を軽く直しながら立ち上がった。

 いつの間にか、いくつかの視線がそこに集まっていた。

 紫露の周りには、リルの知る顔も、名前を知らぬ獣人たちの顔も並んでいる。


「紫露が何者で、何をしてしもうたか……」


 笑っているようにも、泣いているようにも見える目で、紫露は輪を見渡した。


「はるか昔、楽園を自ら作ろうとしたイシュの民がおりんした。」


 帯の端をそっとつまみ、紫露は話を紡ぎ始めた。


「黄金の穀倉地をぐるりと囲んで外壁を立て、水路を引き、水源の間に水結晶を浮かべんした。願いの魔法を、ちょいと増してやるために。あの街は、元々は楽園を造ろうとしたイシュの手で、生まれた場所でありんす。」


 外壁。

 リルは、白い道から見上げたすり鉢の壁を思い浮かべる。

 そこへ紫露の声が、別の景色を静かに重ねていく。


「紫露は、その楽園を造った一団の秘術を継ぐ者でありんす。水結晶の扱い方と、願いの魔法の行き先を撫でる術。そのどちらも、譲った側の末裔として教え込まれんした。」


 紫露は指先をすっと掲げた。

 焚火の煙が、その指先に絡み、すぐにほどける。


「紫露の知る秘術の中で、いけない方へ流れる水を止める手立てが、ひとつだけありんした。」


 輪のどこかで、薪がぱちりと鳴った。

 リルは息を呑んだ。


 いけない方へ流れる水。

 高い位置にある街道から、リルは眼下にあの光景を見ていた。

(なぜ獣人たちが集団で移動してるの?)

 と、疑問を抱いた直後のことであった。

「だめ!そっちには獣人たちが!」

 何もできないというのに馬車を止めさせ、降りて川を見下ろすのは必然だった。


「願いの魔法を打ち消す術でありんす。後天的に例外種を作る秘術。代償に、使った水結晶は粉になる。」


 どれくらい動けずにいたか。

 やがて水は、ぴたりと止まったのだった。


「水を止めるには、それしかのうなんだ。」

 昨夜、紫露が小さく告げた言葉が、今は皆の前で形を変えている。


「皆は知っておりんすな。怒れる兎。」


 紫露が、輪の中のどこか一点を見た。

 そこにラヴィの姿はもうない。あるのは尻尾だけだ。それでも、その名は輪の中の多くに届いていた。


「紫露も、もともとラヴィと同じく例外種でありんした。穏やかなだけではおられぬ、怒りを抱えたイシュ。」


 紫露は自分の胸を指先で軽く叩いた。


「つまりあたしたちは、ラヴィや紫露みたいになったってことかい。」


 戻る組の筆頭、メレナがそう聞いた。


「そうでござりんす。願いの魔法の抑えが消えて……怒りも憎しみも、ようやく自分のものとして噛みしめられる。」


 その言葉に、輪のあちこちで視線が揺れた。

 拳を握ったままの者。膝を抱えたままの者。

 怒りの行き先が見えずに、ただ胸に溜めている者たちの顔だった。

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