ガン・イシュへ
東の空が、白くほどけはじめた。
森はまだ眠っていたが、逃亡旅団の輪の中央だけが、静かに息づいていた。
リルは座り、胸元の首飾りを握っていた。
夜が明けても涙は乾かず、唇だけが微かに震えている。
——歌っていた。
昨夜と同じ旋律。だが、今は独りで。
「イシュ」それは原初の魔物
愛を育み願いを唱える
「イシュの民」よ「人であれ」
彼の地に向けて夜明けを祈ろう
薄明の中、リルの声は森を渡り、風を撫でた。
鳥の羽音が響く。ハピィだった。
彼女は枝に止まり、目を閉じて聞いていた。
(あの歌……リオナに教えたの、ぼくだったのに……)
胸の奥がきゅうと痛んだ。
リルの声は、あの二人と同じ調べを奏でている。
歌は受け継がれ、また誰かを立たせようとしていた。
◆
日輪がのぼりはじめたその時——
「ええ歌でありんす。聖女リルは、紫露らイシュに愛の民であれとおっせえす。」
その声に皆が振り返る。
朝陽の中、しなやかな肢体を揺らしながら、一人の狐の獣人が現れた。白銀の髪が光を弾き、妖艶な光を放っている。
紫露は微笑んだ。
「間の悪いことでありんすなぁ。もうちぃと早う着けば、夜明けの一節くらいは一緒に唱えられんしたに。」
低く、艶やかに。
風の向こうから、朝の光が差し、白銀の髪がそれをやわらかに弾いた。
「あなたは?」リルが問う。
「紫露は紫露でござりんす。ドーラ様のお命にて、主さんの元へ参じたでありんす。以後、お見知りおきくだんせ。」
花魁めいた響き、息継ぎは静かに森にやわらかく溶ける。
その声音には、底知れぬ知恵と、少しの悲しみが滲んでいた。
「シロらイシュに……って、どういうこと?」
「主さんが獣人やもふもふ、ケモミミと呼んで愛してくださる紫露らは、もとよりイシュの民でありんすえ。それをよう伝えよと、ネロ様からお言づけがござりんした。」
「シロ……?」ハピィが目を見開く。
「おやおや。ハピィの嬢は、ずいぶん先に飛んで行かはった。紫露は置き去りでござんしたよ。まこと、薄情な案内鳥でござりんすなぁ。」
口調は冗談めいていたが、尾の先だけが少し震えていた。
怒っているわけでも、責めているわけでもない。
けれど、その奥に間に合わなかった者のかすかな悔いが滲んでいた。
「イシュの民は、願いの魔法によって、怒りと悲しみを抑えられた種でありんす。けれど、それを失うたとき、どう生きるかを、まだ知らぬままでおりんすえ。」
朝陽に照らされた紫露の瞳は、まるで銀の底に炎を宿していた。
リルは息を呑んだ。
イシュという言葉の響きが、皆の胸の奥で遠い記憶のように優しく震える。
紫露は続けた。
「西の副結晶、紫露は砕きんした。粉になりんした。水を止めるには、それしかのうなんだ。」
逆説的に、副結晶が悪用されたことが知らされる。
「……あの街は紫露らイシュの民が造りんした。——願いの魔法を強めるために。」
次に続く情報のための、前提。
ただそれだけのつもりで発せられる、情報。
「砕いた影響で、内側におったイシュの民は……願いの魔法が打ち消されんした。」
沈黙。
意味を測りかねるように、旅団の誰もが目を伏せた。
両端が角張った腹板をそっと地に沿わせ、メレナが胸に手を当て低く呟いた。
「それが……怒りだ。ラヴィは教会で、あたしたちにそう言ったんだよ。初めて握った刃物みたいなもんさ、どう扱うか、それが大事ってことさね。」
紫露は目を細めて頷いた。
「そうざんす。怒りは毒やおへん。よう扱えば、優しさに変わる。けれど長う閉じ込めりゃ、痛みに変わってまう。」
ハピィが首を傾げた。
「……怒りとか、恨みとか、あたしにはよく分かんないや。」
紫露はその言葉に、うっすら笑んだ。
「……おや、ハピィはまだ願いの魔法をもっておりんすかえ。分からぬほうが、ええときもありんす。恨みを知ると、人はよう笑わんくなるもの。……それでええんでござりんす。分からんままの心ほど、……よう歌を覚えるもんじゃ。」
風がそっと木々を撫でた。
陽が昇りきり、森の影が薄れる。
「……シロ、これからどうすればいいの?」リルが問う。
「進むことざんす。願いが叶わなんだ場所から、まだ見ぬ彼の地へ。それがきっと、残された者の鎮魂の道でありんす。」
紫露は遠い目をして答える。するとメレナが思い出したように顔を上げる。
「ガン・イシュへ向かおうって、ラヴィが言ってた。」
紫露が首をかしげた。
「あいにくでござりんす。紫露も皆も、街の辺りまでしか知らぬでありんす。」
ハピィがぱっと羽を広げる。
「そうだった!あたし、知ってるんじゃん!……あたし、飛べる。森を越えるルート、だいたい分かるよ。風の流れを見れば、きっとガン・イシュまで案内できる!」
メレナは、静かに首を振った。
「ごめん。あたしは戻るよ。あの街に。逃げたままじゃ、きっと何も変わんないのさ。残った連中に、リオナとラヴィのこと、伝えんのがあたしの役割さ。」
リルは唇を噛み、うなずいた。
「また、会える?」
「さあね。でも生きてりゃ、怒る理由も、笑う理由もあるさね。泣いたっていい、でも前へ進みな。あんたにゃ仲間もいる。なぁに、うさぎのしっぽは縁起もんだ。ラヴィがきっと、見守っててくれるさ。」
紫露の尾が朝光を弾き、ゆるやかに揺れた。
「人はそうして祈りを覚えるざんす。怒りも祈りも、人の証でござりんす。」
風が、夜と涙の匂いをさらっていった。
旅団の列が動き出す。
風に押されるように、森を越えて。
ガン・イシュへ向かう長い道のりが、ここから始まった。




