鎮魂の祈り
集団はどこまでも逃げた。
街道を外れ、森を抜け、川を渡り、丘を越え——
やがて国境に近い暗い稜線を越えたころ、追手の気配はとうに消えていた。
風は乾き、月は痩せ、木々は夜露を纏っていた。
安堵はなかった。歩調だけが惰性で続き、呼吸だけが皆をつないだ。
肩と肩が触れるたび、擦れた布が小さく鳴った。誰も声を出さない。
声にしてしまえば、どこかが崩れると分かっていたからだ。
林の切れ目に、低い草地が口を開いた。
倒木を円にし、荷を降ろし、まだ年若い子らを中央に寄せる。
火は上げない。火は目印になる。誰からともなく決まった手順だった。
水袋が回り、乾いた硬パンが指先で割られる。
割る音がやけに大きい。
そのとき、頭上で細い枝がしなった。
「ごめん、これしか無かった……」
月明かりを背に降り立ったのは白い影。
鳥の獣人ハピィ。
孤児院や穀倉地で会ったことのある、底抜けに明るいあの声の持ち主だ。
だけど今は、その声に力がなかった。
ハピィは趾でふわりと大きな毛玉のようなものを掴んでいた。
項垂れる様子が、彼女を一回り小さく見せていた。
見覚えがあった。ないはずがなかった。
背を向け、最期まで笑っていた彼女——ラヴィが誇らしげに揺らしていたもの。
尻尾だ。
合わせのコインが、リルの胸元で微かに鳴った。
ハピィからそっと受け取ると、さらり、と毛が指を撫でた。
冷たくはない。まだ生きているような手触りだった。
首飾りの紐を外し、尻尾の根元をコインに重ねて結ぶ。
誰かが息を呑んだ。別の誰かが膝をついた。
沈黙の中で、何かが胸の底からせり上がる。熱い。刺す。ぶつけたい。戻りたい。壊したい。
言葉にならない塊が、喉の奥で軋む。
そのとき、リルの唇が動いた。
「イシュ」それは原初の魔物
愛を育み願いを唱える
「イシュの民」よ「人であれ」
彼の地に向けて夜明けを祈ろう
声は小さかった。けれど、夜の輪郭をなぞるように遠くまで届いた。
草地の上で眠れずにいた子どもが目を上げる。
見知った年寄りが指を止め、若者が拳をほどく。
歌は、焚かれない火のかわりに、輪の中心に灯った。
ハピィは翼の先で、歌うリルの胸元で揺れる尻尾の房をそっと撫でた。
誰にも見せないように、目元を翼で押さえていた。
輪の外で見張りについていた男が、蹄の先で槍を地に立てかける。
柄が土に沈み、音を立てた。
その音に合わせるように、別の場所で腰紐が結び直される。
小さな仕草が、ひとつ、またひとつ、硬さを失っていく。
リルは首に下げた絆の首飾りを握りしめた。汗と涙と血で滑る。
息を整え、もう一度、そしてもう一度、同じ旋律を辿る。
憎しみは、歌に消えるわけではない。消えはしないが、向きが変わる。
輪郭が緩む。固く凍ったものが、音に触れて滲みを帯びはじめる。
誰の胸の中でも、同じことが起きていた。
子どもが小さな声で追いかける。母親がそれを支える。
しばらくして、年寄りが低く和する。
男たちは歌わない。ただ、肩が下がる。嚙み締めた顎がほどける。
夜風が通る。
草の先で露が揺れて、月がその粒を数える。
歌は祈りで、祈りは約束だった。
——夜明けになったら、進もう。
誰が言い出したのでもない。けれど輪の全員が、そう思った。
彼の地へ。
背を押したのは怒りではない。悔恨でもない。
もっと小さく、長く続くもの。誰かの手の温度のようなものだった。
「イシュ」それは原初の魔物
愛を育み願いを唱える
「イシュの民」よ「人であれ」
彼の地に向けて夜明けを祈ろう
やがて、歌は止んだ。
止んだあともしばらく、耳の奥で響きだけが残った。
見張りの人数が静かに増える。子どもに上着が掛けられる。年寄りの背に布が重ねられる。
遠くで梢が鳴った。鹿か、風か、何かの小さな気配。
誰も慌てない。慌てないことを、皆が思い出したからだ。
火の代わりに、湯だけを沸かすことに決まった。
煙が上がらぬよう、濡れ葉で覆い、音を立てぬよう、鍋の縁に布を噛ませる。
やがて、ことり、と小さく鳴った。蓋がわずかに震えた。
誰かが微笑んだ。誰かが泣いた。
リルは尻尾とコインを胸に当てた。
触れた場所が温かい。温かいのは、体の熱のせいだけではない。
彼女は目を閉じ、夜の匂いを吸い込んだ。
湿った土、刈れた草、遠い水の気配。息を吐く。
——夜明けになったら、進もう。彼の地へ。
コインが月を受けた。光が少し揺れた。
風のせいか、手の震えのせいか、分からない。
月が雲に入り、輪の影がひとつに溶けた。
誰も語らぬまま、鎮魂の祈りは終わった。
祈りが終わり、夜が、わずかにほどけはじめた。




