見落とした本物
葬送は、それらをすべて、泥の上に並べ直した。
紫露と橙の八人がやって来て、俺たちは初めて、自分たちの手を見ることになった。
布に拭われた泥は、俺たちの血の形を消しただけではない。
血の形に重ねてきた言い訳まで、一緒にぼかした。
鐘は鳴らなかったのに、胸の中では何度も鳴った。
糸は結ばれ、解かれ、何かが終わった。
紫露が引いた一本の線。
それは確かに数だった。
だが、あれはただの数ではなかった。
俺たちが「敵」と呼んで一括りにしたもの一つ一つに、顔があった。
森で供物を置いていった者。
孤児院へ送られる前、村で一緒に笑っていた奴隷。
名前も知らないまま、水に流した相手。
数えるという行為が、どれほど残酷で、どれほど浅かったか。
あの線は、それを突きつけた。
赦すとも、責めるとも言われなかった。
ただ、「ここで終わる。」とだけ、静かに置かれた。
終わりを突きつけられたからこそ、ようやく始めなければならないものができた。
自分たちの過去と向き合うことだ。
逃げるのは許さない。
そう言われたようにも思えた。
◆
火は高くしなかった夜、俺たちは黙って湯を沸かした。
誰も酒を求めなかった。
湯気が立ち上るのを、ただ見ていた。
「なあ。」
沈黙を破ったのは、誰だったか覚えていない。
「最初から、あいつらが憎かったのか?」
焚き火の光に照らされて、膝しか見えなかった。
誰も顔を上げなかった。
「違うな。」
別の声が、土の方を向いたまま答えた。
「最初にあったのは、悔しさだ。助けてもらってるって、認めたくなかった。」
「森の供物か。」
「ああ。あれを口にするとき、みんな笑ってただろ。ありがたい、なんて言わなくなった。」
誰かが乾いた笑いを漏らした。
「あのころからか。感謝を土の下に埋めて、上から怒りを盛ったのは。」
鍋がことりと鳴った。
ふたを押さえた手が、小さく震えていた。
◆
「人間は残虐である。」
誰かが、爺様の口癖を真似て言った。
焚き火の火が、その言葉を揺らした。
「爺様は、続けて言ってた。」
俺は、初めて顔を上げた。
「だから学べ、と。血の色を見ろ、痛がる声を聞け、そこで手を止めろって。」
「俺たちは、見なかったのか。」
「見ないふりを、したんだろうな。」
自分の声だと思えないくらい、乾いた声だった。
「怒ってるふりをして、実は頭を使ってやった。頭を使ったことを、怒りに押しつけた。」
紫露の描いた線が、泥の上によみがえる。
あの線の向こう側にいた顔を、俺はどこまで思い出せるだろうか。
名前も、手触りも、声も知らないまま、水に流した相手。
供物を置いて行った背中だけは、かすかに覚えている。
「イシュの民みたいな穏やかさを、手に入れようとしたんじゃなかったのか。」
誰かが、明らかにわざと爺様をなぞる調子で言った。
「手に入れたつもり、だったんだろう。」
俺は泥に手を押し当てる。
「獣より賢いって意味でな。獣より残虐であることを忘れてた。」
鍋がことりと鳴った。
ふたを押さえた手が、小さく震えていた。
「聖女様に石を投げたときも、そうだったな。」
誰かがぽつりと言った。
「私、悪くないもん!って叫んでた。」
最初の石が飛んだとき、先に声を上げたのは、小柄な方の女だった。
縄が肩に食い込み、身を竦めながらも、顔だけはこちらを見ていた。
——私、悪くないもん。
あの場では、どう聞いても自分勝手な言い訳にしか聞こえなかった。
だがその一言を吐いた女を、俺たちは聖女だとは見ていなかった。
どちらが聖女かも分からないくせに、聖女の側にくっついて甘い汁を吸ってきた腰巾着が、真っ先に白状したのだと決めつけた。
聖女が聖女として本物なら、側にいる者が庇うはずだ。
庇わないどころか否定したのだから、あれは信じる価値もない。
聖女の化けの皮が剥がれた、身内にすら信仰されていない、と、好き勝手に結論を並べてはせせら笑っていた。
「私はどうなってもいい!リオナだけは助けてあげて!」
もう一人の女はそう叫んでいた。
縄を引き切れんばかりに前へ出て、名前を呼んだ方を庇うように身を捩った。
飛んでくる石の向きを、少しでもそちらへ行かせまいとするように。
実に、聖女らしい言葉に聞こえた。
俺たちはそこで、勝手に線を引いた。
自分がどうなってもいいと言い切った女を「本物」に。
悪くないと言い返した方を「偽物」に。
その時点では、どちらが本当に聖女かなど、誰も知らなかった。
知らないまま、都合よく決めた。
どちらが聖女か分からないなら、今この場で気持ちよく叩ける方を聖女にしてしまえばいいと、心のどこかで思っていた。
そのあとだ。
逃亡旅団とぶつかり、街道で突破を許したとき。
殿に残った兎の獣人と並んで、あの長い黒髪の女が、人間では考えられない動きで槍の間をすり抜けた。
そして、俺たちのすぐ聞こえる距離で言ったのだ。
「水臭いわね。聖女リルとして、私も付き合うわ。」
そこで初めて、はっきりした。
聖女リルがどちらか。
運動場で吊していた二人のうち、どちらが本当に法の名に使われた方だったか。
そしてさっきまで腰巾着だと思い込んでいた女を、もう一人の女が命を賭して守ろうとしていたことを。
あのとき嘲り半分で口にしたはずの理屈が、今になって逆さまに刺さってくる。
聖女が本物なら側にいる者が庇うはずだと、あれほど言い張ったのは自分たちだ。
その理屈どおりに、命を賭けて庇われていた方こそ、本物の聖女だった。




