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見落とした本物

 葬送は、それらをすべて、泥の上に並べ直した。


 紫露と橙の八人がやって来て、俺たちは初めて、自分たちの手を見ることになった。

 布に拭われた泥は、俺たちの血の形を消しただけではない。

 血の形に重ねてきた言い訳まで、一緒にぼかした。


 鐘は鳴らなかったのに、胸の中では何度も鳴った。

 糸は結ばれ、解かれ、何かが終わった。


 紫露が引いた一本の線。

 それは確かに数だった。

 だが、あれはただの数ではなかった。


 俺たちが「敵」と呼んで一括りにしたもの一つ一つに、顔があった。

 森で供物を置いていった者。

 孤児院へ送られる前、村で一緒に笑っていた奴隷。

 名前も知らないまま、水に流した相手。


 数えるという行為が、どれほど残酷で、どれほど浅かったか。

 あの線は、それを突きつけた。


 赦すとも、責めるとも言われなかった。

 ただ、「ここで終わる。」とだけ、静かに置かれた。


 終わりを突きつけられたからこそ、ようやく始めなければならないものができた。

 自分たちの過去と向き合うことだ。

 逃げるのは許さない。

 そう言われたようにも思えた。



 火は高くしなかった夜、俺たちは黙って湯を沸かした。


 誰も酒を求めなかった。

 湯気が立ち上るのを、ただ見ていた。


「なあ。」

 沈黙を破ったのは、誰だったか覚えていない。


「最初から、あいつらが憎かったのか?」


 焚き火の光に照らされて、膝しか見えなかった。

 誰も顔を上げなかった。


「違うな。」

 別の声が、土の方を向いたまま答えた。


「最初にあったのは、悔しさだ。助けてもらってるって、認めたくなかった。」


「森の供物か。」


「ああ。あれを口にするとき、みんな笑ってただろ。ありがたい、なんて言わなくなった。」


 誰かが乾いた笑いを漏らした。

「あのころからか。感謝を土の下に埋めて、上から怒りを盛ったのは。」


 鍋がことりと鳴った。

 ふたを押さえた手が、小さく震えていた。



「人間は残虐である。」


 誰かが、爺様の口癖を真似て言った。

 焚き火の火が、その言葉を揺らした。


「爺様は、続けて言ってた。」

 俺は、初めて顔を上げた。

「だから学べ、と。血の色を見ろ、痛がる声を聞け、そこで手を止めろって。」


「俺たちは、見なかったのか。」


「見ないふりを、したんだろうな。」

 自分の声だと思えないくらい、乾いた声だった。

「怒ってるふりをして、実は頭を使ってやった。頭を使ったことを、怒りに押しつけた。」


 紫露の描いた線が、泥の上によみがえる。

 あの線の向こう側にいた顔を、俺はどこまで思い出せるだろうか。


 名前も、手触りも、声も知らないまま、水に流した相手。

 供物を置いて行った背中だけは、かすかに覚えている。


「イシュの民みたいな穏やかさを、手に入れようとしたんじゃなかったのか。」

 誰かが、明らかにわざと爺様をなぞる調子で言った。


「手に入れたつもり、だったんだろう。」

 俺は泥に手を押し当てる。

「獣より賢いって意味でな。獣より残虐であることを忘れてた。」


 鍋がことりと鳴った。

 ふたを押さえた手が、小さく震えていた。


「聖女様に石を投げたときも、そうだったな。」

 誰かがぽつりと言った。

「私、悪くないもん!って叫んでた。」


 最初の石が飛んだとき、先に声を上げたのは、小柄な方の女だった。

 縄が肩に食い込み、身を竦めながらも、顔だけはこちらを見ていた。


 ——私、悪くないもん。


 あの場では、どう聞いても自分勝手な言い訳にしか聞こえなかった。

 だがその一言を吐いた女を、俺たちは聖女だとは見ていなかった。

 どちらが聖女かも分からないくせに、聖女の側にくっついて甘い汁を吸ってきた腰巾着が、真っ先に白状したのだと決めつけた。


 聖女が聖女として本物なら、側にいる者が庇うはずだ。


 庇わないどころか否定したのだから、あれは信じる価値もない。

 聖女の化けの皮が剥がれた、身内にすら信仰されていない、と、好き勝手に結論を並べてはせせら笑っていた。


「私はどうなってもいい!リオナだけは助けてあげて!」


 もう一人の女はそう叫んでいた。

 縄を引き切れんばかりに前へ出て、名前を呼んだ方を庇うように身を捩った。

 飛んでくる石の向きを、少しでもそちらへ行かせまいとするように。

 実に、聖女らしい言葉に聞こえた。

 俺たちはそこで、勝手に線を引いた。

 自分がどうなってもいいと言い切った女を「本物」に。

 悪くないと言い返した方を「偽物」に。


 その時点では、どちらが本当に聖女かなど、誰も知らなかった。

 知らないまま、都合よく決めた。

 どちらが聖女か分からないなら、今この場で気持ちよく叩ける方を聖女にしてしまえばいいと、心のどこかで思っていた。


 そのあとだ。

 逃亡旅団とぶつかり、街道で突破を許したとき。

 殿に残った兎の獣人と並んで、あの長い黒髪の女が、人間では考えられない動きで槍の間をすり抜けた。

 そして、俺たちのすぐ聞こえる距離で言ったのだ。


「水臭いわね。聖女リルとして、私も付き合うわ。」


 そこで初めて、はっきりした。

 聖女リルがどちらか。

 運動場で吊していた二人のうち、どちらが本当に法の名に使われた方だったか。

 そしてさっきまで腰巾着だと思い込んでいた女を、もう一人の女が命を賭して守ろうとしていたことを。


 あのとき嘲り半分で口にしたはずの理屈が、今になって逆さまに刺さってくる。

 聖女が本物なら側にいる者が庇うはずだと、あれほど言い張ったのは自分たちだ。

 その理屈どおりに、命を賭けて庇われていた方こそ、本物の聖女だった。

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