殲滅の落としたもの
あの日から、泥の色が変わって見える。
前はただの土だった。雨が降れば柔らかくなり、足跡を飲み込むだけの、よくある地面だったはずだ。
今は違う。踏みしめるたびに、音がする気がする。
俺たちが流したものの、響きだ。
◆
人間は残虐である。
子供のころ、爺様にそう教わった。
焚き火の前で、爺様は何度も同じ話をした。
獣は腹が減ったときだけ殺す。
人間は、腹が満ちていても殺せる。
だから、人間は獣より厄介で、残虐だ。
だからこそ、学ばなければならない、とも言われた。
殴り合いの途中で、相手の顔を見ろ。
血が出たとき、その色を目で見ておけ。
痛がる声を聞き逃すな。
そこで手を止められるようになれ。
それができて初めて、人間は、力を持っていていい。
そのとき爺様は、森の方角を顎で示した。
あいつらみたいにな、と。
森に住むイシュの民。
耳と尾を持ちながら、獣よりも穏やかな連中。
彼らが夜の間に供物を置いていくのを、村の誰もが知っていた。
明け方、決まった石の上に、食い物が載っている。
干した肉、木の実、時々は、まだ温かいパンのようなもの。
誰が置いたのか、見ている者もいた。
だが、朝になると皆、知らぬふりをした。
「ありがたい。」
そう口にしたこともあった。
だが、何度目かから、誰も言わなくなった。
言えば、自分たちが情けなくなるからだ。
自分の畑で採れたものではなく、森からの施しで生きている。
それを認めるのが、悔しかった。
感謝の言葉は、笑いに埋もれた。
「今日もお供え様のお通りだ。」と、誰かが冗談めかして言う。
それでおしまいになった。
爺様の教えをわざと捻じ曲げ、犬猫にぶつけていたころから、何も変わっていなかった。
そういうところが歪みを生む原因だというのに。
感謝は、言葉を失って、土の下に沈んでいった。
◆
法が増えた。
犬猫期だの、害獣期だの、家畜期だのと、後で誰かが勝手に名を付けた。
犬や猫を傷付ければ罰金。
害獣を追い払えば罰金。
殺すための家畜を飼えば規制。
守るという言葉は、いつも俺たちの外側から降ってきた。
「傷付けるな。」という声は、いつも壁の内側から聞こえてきた。
森の獣はそんなことを知らない。
腹が減れば畑に降りてきて、芽を喰う。
身ごもった雌の腹を裂き、子をさらっていく。
守りたいものが増えるたびに、守る手段は奪われた。
犬は縛られ、槍は叱られる。
そうして、守りたいものを守るためには、まとめて怒るしかなくなった。
壁の内側。法を書いた連中。
その名で法を飾られた聖女。
そして、森で供物をくれるはずのイシュの民まで。
どうしてそこまでねじれたのか。
今なら、少しは分かる。
いちばん近くにいたのが、森のイシュの民だったからだ。
いちばん弱く扱えたのが、奴隷にされたイシュの民だったからだ。
いちばん楽に憎める相手に、いちばん深い感謝を抱えていたからだ。
感謝を言えなくなった場所に、怒りが溜まる。
俺たちの不満は、最初から、感謝の隣にあった。
◆
俺たちは、怒れるほど冷静だった。
孤児院を流した水攻めを、誰かが芸術だと言った。
否定する者はいなかった。
地形を測り、石を数え、水量を計算した。
外壁に梯子を掛け、セリ矢を仕込み、護岸を分厚くした。
街道に馬車を並べ、退路を塞いだ。
怒鳴りながら殴りかかるような真似は、誰もしなかった。
手を震わせる者もいたが、するべき作業は、静かに果たした。
怒りは熱だと、かつて誰かが言った。
鍛えれば刃にも灯にもなる、と。
俺たちの怒りは、よく研がれた刃のように、冷たく光っていた。
柄を握る手は、乾いていた。
誰も、手の中の温度に気付かなかった。
水が流れ、孤児院が崩れたとき、確かに笑いがあった。
笑わなければ、自分たちのやったことを認めることになりそうで、怖かったからだ。
怒りに任せてやった、と思いたかった。
頭で考えてやったとは、認めたくなかった。
だが実際には、俺たちは、怒れるほど冷静に、殲滅を設計したのだ。
◆
逃亡旅団と呼ぶことにしたイシュの民の集団とぶつかったとき、それが初めてひっくり返った。
自らの意思で攻め入るイシュの民を、俺たちは初めて見た。
紫露の率いる近衛軍は例外である。
獣の耳を持ち、尾を振り、爪も牙もある連中が、列を組んで押し寄せてきた。
だが、彼らは斬らなかった。
槍を折り、瓦礫を払って道を拓き、——倒れた兵の胸に手を当てた。
仲間の胸を貫いた瓦礫を、自分の腕で運んだイシュの民がいた。
彼は自分の手を見て、血を見て、崩れ落ちた。
戦っている相手に背を向け、倒れた兵の傷を押さえようとした。
あれは、守るための力のはずだった。
それが、殺してしまった。
それを理解できるまでに、どれだけ時間が掛かったか覚えていない。
混戦の中で、息が荒くなり、視界がぼやけた。
俺たちは、その戸惑いの顔を見ることに耐えられなくなった。
怒鳴り声を上げていたのは、もう俺たちの方だった。
彼らは、力を誇らなかった。
俺たちは、怒りを盾に、冷静さを隠していた。
その違いに気付いたときには、もう間に合わなかった。




