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殲滅の落としたもの

 あの日から、泥の色が変わって見える。


 前はただの土だった。雨が降れば柔らかくなり、足跡を飲み込むだけの、よくある地面だったはずだ。

 今は違う。踏みしめるたびに、音がする気がする。

 俺たちが流したものの、響きだ。



 人間は残虐である。


 子供のころ、爺様にそう教わった。

 焚き火の前で、爺様は何度も同じ話をした。

 獣は腹が減ったときだけ殺す。

 人間は、腹が満ちていても殺せる。

 だから、人間は獣より厄介で、残虐だ。


 だからこそ、学ばなければならない、とも言われた。

 殴り合いの途中で、相手の顔を見ろ。

 血が出たとき、その色を目で見ておけ。

 痛がる声を聞き逃すな。

 そこで手を止められるようになれ。

 それができて初めて、人間は、力を持っていていい。


 そのとき爺様は、森の方角を顎で示した。

 あいつらみたいにな、と。


 森に住むイシュの民。

 耳と尾を持ちながら、獣よりも穏やかな連中。

 彼らが夜の間に供物を置いていくのを、村の誰もが知っていた。


 明け方、決まった石の上に、食い物が載っている。

 干した肉、木の実、時々は、まだ温かいパンのようなもの。

 誰が置いたのか、見ている者もいた。

 だが、朝になると皆、知らぬふりをした。


「ありがたい。」

 そう口にしたこともあった。

 だが、何度目かから、誰も言わなくなった。


 言えば、自分たちが情けなくなるからだ。

 自分の畑で採れたものではなく、森からの施しで生きている。

 それを認めるのが、悔しかった。


 感謝の言葉は、笑いに埋もれた。

「今日もお供え様のお通りだ。」と、誰かが冗談めかして言う。

 それでおしまいになった。


 爺様の教えをわざと捻じ曲げ、犬猫にぶつけていたころから、何も変わっていなかった。

 そういうところが歪みを生む原因だというのに。


 感謝は、言葉を失って、土の下に沈んでいった。



 法が増えた。

 犬猫期だの、害獣期だの、家畜期だのと、後で誰かが勝手に名を付けた。


 犬や猫を傷付ければ罰金。

 害獣を追い払えば罰金。

 殺すための家畜を飼えば規制。


 守るという言葉は、いつも俺たちの外側から降ってきた。

「傷付けるな。」という声は、いつも壁の内側から聞こえてきた。


 森の獣はそんなことを知らない。

 腹が減れば畑に降りてきて、芽を喰う。

 身ごもった雌の腹を裂き、子をさらっていく。


 守りたいものが増えるたびに、守る手段は奪われた。

 犬は縛られ、槍は叱られる。


 そうして、守りたいものを守るためには、まとめて怒るしかなくなった。


 壁の内側。法を書いた連中。

 その名で法を飾られた聖女。

 そして、森で供物をくれるはずのイシュの民まで。


 どうしてそこまでねじれたのか。

 今なら、少しは分かる。


 いちばん近くにいたのが、森のイシュの民だったからだ。

 いちばん弱く扱えたのが、奴隷にされたイシュの民だったからだ。

 いちばん楽に憎める相手に、いちばん深い感謝を抱えていたからだ。


 感謝を言えなくなった場所に、怒りが溜まる。


 俺たちの不満は、最初から、感謝の隣にあった。



 俺たちは、怒れるほど冷静だった。


 孤児院を流した水攻めを、誰かが芸術だと言った。

 否定する者はいなかった。


 地形を測り、石を数え、水量を計算した。

 外壁に梯子を掛け、セリ矢を仕込み、護岸を分厚くした。

 街道に馬車を並べ、退路を塞いだ。


 怒鳴りながら殴りかかるような真似は、誰もしなかった。

 手を震わせる者もいたが、するべき作業は、静かに果たした。


 怒りは熱だと、かつて誰かが言った。

 鍛えれば刃にも灯にもなる、と。


 俺たちの怒りは、よく研がれた刃のように、冷たく光っていた。

 柄を握る手は、乾いていた。

 誰も、手の中の温度に気付かなかった。


 水が流れ、孤児院が崩れたとき、確かに笑いがあった。

 笑わなければ、自分たちのやったことを認めることになりそうで、怖かったからだ。


 怒りに任せてやった、と思いたかった。

 頭で考えてやったとは、認めたくなかった。


 だが実際には、俺たちは、怒れるほど冷静に、殲滅を設計したのだ。



 逃亡旅団と呼ぶことにしたイシュの民の集団とぶつかったとき、それが初めてひっくり返った。


 自らの意思で攻め入るイシュの民を、俺たちは初めて見た。

 紫露の率いる近衛軍は例外である。

 獣の耳を持ち、尾を振り、爪も牙もある連中が、列を組んで押し寄せてきた。


 だが、彼らは斬らなかった。

 槍を折り、瓦礫を払って道を拓き、——倒れた兵の胸に手を当てた。


 仲間の胸を貫いた瓦礫を、自分の腕で運んだイシュの民がいた。

 彼は自分の手を見て、血を見て、崩れ落ちた。

 戦っている相手に背を向け、倒れた兵の傷を押さえようとした。


 あれは、守るための力のはずだった。

 それが、殺してしまった。


 それを理解できるまでに、どれだけ時間が掛かったか覚えていない。

 混戦の中で、息が荒くなり、視界がぼやけた。


 俺たちは、その戸惑いの顔を見ることに耐えられなくなった。

 怒鳴り声を上げていたのは、もう俺たちの方だった。


 彼らは、力を誇らなかった。

 俺たちは、怒りを盾に、冷静さを隠していた。


 その違いに気付いたときには、もう間に合わなかった。

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