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勝利の美酒か

 泥の匂いが、まだ冷たかった。

 濁流が引いたあと、俺たちは無言で長靴の底を確かめながら、壊れた荷車や折れた槍を脇へ寄せた。

 水に浮いた布切れが足にまとわりつくたび、誰かが小さく舌打ちした。

 言葉は続かない。続けば、誰が最初に泣き出すか、分からなかったからだ。


 ◆


 俺たちは勝った。

 正確に言えば、勝利を設計したのだ。


 水をただ流したわけではない。

 地図を描き、地形を測り、相手の動きを計算した。

 水源を分流させず、力の奔流として襲い掛かるように。

 水は、俺たちの命令に従って動いた。

 まるで、統制の取れた我が軍の一員であるかのように。


 街道を傷つけず、集落を避け、小川を目掛けて。

 ——孤児院と、その外へ逃げるイシュの民だけを押し流した。


「完璧だ。」と上官は言った。

 確かに完璧だった。

 街には一滴の濁りも届かず、兵たちは喝采を送った。

 見よ、我らが力を。と。

 俺たちは笑った。

 戦術が正義に追いついたと思った。

 秩序を作るのは、俺たちだと。


 孤児院の者たちは愚かではなかった。

 異変を察知し、いち早く小川沿いの小径を逃げていた。

 俺たちはそれを読んでいた。

 だからこそ、水攻めを選んだ。

 間違っても街道を通ろうとなど思わせないように、街道には軍用馬車を走らせた。

 安全な退路のはずが、俺たちの手で死路に変わった。


「芸術だ。」と誰かが言った。

 それが合図のように、笑いが広がった。


 確かに、あれは芸術的だったと言えるかもしれない。

 精密で、冷徹で、誰一人無駄死にさせないという意味で、戦術であり芸術だった。

 だがそれは、生命(いのち)を削るためのものだった。

 俺たちはその意味を知らなかった。

 ——知らなかったからこそ、笑ったのだ。


 水を放ったとき、皆、大いに笑ったのだ。

 ざまあみろ、と溜飲を下げたのだ。

 孤児院に保護されたイシュの民たちが、自分たちより豊かに暮らしている。

 畑も、家畜も、仕事も、奪われていった俺たちは、貧困に喘いでいた。

 だからこそ、笑った。

 水が流れ、屋根が崩れるのを見て、勝利だと信じた。


 あのときの自分たちの顔が、まだ頭から離れない。


 軍は統制がとれていた。

 上官が叫び、伝令が走り、号令が響く。

「敵を流せ。」と。

 その言葉がどこから来たのか、誰も問わなかった。


 外壁の内部に存在する三つの水結晶のうち、孤児院側の副結晶を利用する。

 街道へ逃げられないよう、軍用馬車を走らせよ。

 外壁を部分的に破壊し、水源の間に侵入せよ。

 進入路がそのまま放水路となるよう、角度を計算せよ。


 命令というのは便利なものだ。思考を、免除してくれる。

 その言葉が誰の口から発せられたのか、今では誰も覚えていない。

 最後の号令が届いた瞬間、俺たちは一斉に笑った。

 笑わなければ、人間の誇りを、尊厳を失うような気がした。


 俺たちは、人であることの意味を、取り違えた。


 ◆


 俺たちは勝った。

 俺たちは勝ったはずだった。


 だが、勝利はどこにもなかった。

 笑う者も、命令を出す者も、もういなかった。

 俺たちは濁流の残滓の上に立ち尽くして、沈黙した。


 あの時の笑い声が、勝利の美酒になることはなかった。

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