旅するうさぎ
泣いてる子を笑わせたい。
それが、リオナと別れた日のあたしの言葉だった。
怒りを知りたいなんて、思ってもいなかった。
ただ、悲しんでる子を見たくなかっただけ。
けど、外の世界はガン・イシュみたいに穏やかじゃなかった。
笑いも涙も、怒りも憎しみも、みんな一緒くたに混ざってて、あたしはどれが正しいのか分からなくなっていった。
◆
最初に辿り着いたのは、砂漠の国だった。
地平線まで続く砂の真ん中に、井戸があって、毎朝そこに長い列ができていた。
小さな子が、喉が渇いているくせに自分の番を譲って笑っているのを見て、黙っていられなくなった。
思わず列に割り込み、その子に先に水を飲ませたあとで、今度は水の回らなかった誰かの背中を見送ることになった。
胸の中で、怒りと後悔がぐちゃぐちゃに混ざり合っていく。
井戸端でうなだれていたあたしに、砂の熱を吸った手を差し出して言った。
「怒りは悪くない。ただし、飲み込むな。燃やして立て。」
その手は、熱かった。
あの時初めて、怒りって、生きるための火なんだと思った。
悪いもんじゃないと、少しだけ分かった。
◆
次は、氷の国。
そこじゃみんな、笑顔のまま怒らなかった。
怒る人は外に出されて、残った人たちは氷みたいに静かだった。
最初は、なんだかガン・イシュに似てると思った。
穏やかで、優しくて、声を荒げる人がいない。
でも、すぐに違うと分かった。
ガン・イシュのみんなは、怒らないんじゃなくて、怒りを持っていなかった。
あの穏やかさは、生まれつきの呼吸みたいなものだった。
自然で、痛くない静けさだった。
けど、この氷の国の穏やかさは違った。
ここでは、みんなが怒りを閉じ込めて生きてた。
怒りが出そうになるたび、深呼吸して飲み込み、やがて本当に、何も感じなくなっていく。
笑ってるけど、目は笑っていない。
息をしているけど、心は動かない。
あたしには、それが死ぬ寸前の穏やかさに見えた。
夜、宿の窓から白い吐息を見た。
あたしの息も、すぐに凍って消えた。
「怒りを凍らせると、悲しみも凍る。……これ、平和って言えるのかな。」
氷の国の人たちは、怒りを抑えて幸せを守っていた。
ガン・イシュの人たちは、怒りを知らずに幸せを分け合っていた。
似ているようで、まったく違う。
あたしは、あの優しい静けさが恋しくなった。
怒りをなくすんじゃなくて、怒りを知らなくても笑える、あの場所が。
だから、ここを出るとき、あたしは決めたんだ。
怒りを凍らせるんじゃなくて、溶かして生きるって。
◆
そのあとに行った火山の国では、空気が違った。
怒りを怖がるどころか、みんなそれを芸術にしてたんだ。
鍛冶場で鉄を打つ音が、まるで怒鳴り声みたいで、でもそれが、なんだか優しかった。
「怒りは熱だ。鍛えれば刃にも灯にもなる。」
鍛冶師の言葉が火花みたいに胸に刺さった。
あたしは鉄を打ちながら思った。
怒りはぶつけるもんじゃない。
叩いて、打ち直して、形にすればいいんだ。
手のひらに残る熱が、いつの間にかむんむんじゃなくて、息になってた。
◆
東の島国では、怒りが海みたいに静かだった。
老人が海辺で言った。
「波は怒っていない。ただ寄せて、返しているだけだ。」
あたしはその言葉の意味が、すぐには分からなかった。
でも波を見ているうちに、胸の奥がゆっくりと温かくなるのを感じた。
むんむんって、怒りでも憎しみでもなかった。
動かそうとする力だったんだ。
誰かを笑わせたいとか、守りたいとか、そういう気持ちの奥で、静かに燃えてる流れ。
「怒りは止められない。でも、向きを変えることはできる。」
老人がそう言った時、あたしは波と同じ呼吸をしてた。




