第二次異種の民殲滅戦
号令の音が変わった。
先に動いたのは、帝国ではなく、別の国の軍だ。
角笛。
太鼓。
怒りを煽るための音。
人間兵の列がざわりと揺れる。
武器を握る手に力が入っているのが、遠目にも分かる。
そのときだった。
低い唸り声。
獣の喉の奥から漏れるような、押し殺した声。
前列の、狼の耳を持つイシュの民が、わずかに首を垂れたまま唸っている。
怒号でも号令でもない。
だが、隣に並ぶイシュの民の肩が、ぴくりと震えた。
唸り声は伝染した。
波紋のように、前列から横へ、列の奥へと広がっていく。
――気づいたときには、列全体の空気が変わっていた。
「……教官?」
若い兵の声が、かすかに震えた。
イシュの民たちの肩が、ゆっくりと上下する。
深く息を吸い込むような動き。
その中の一人が、崖の方を見上げた。
目が見開かれる。
怒りの命令は、まだ出ていない。
少なくとも、帝国の列では。
なのに、その顔に——怒りの色が浮かんだ。
押し殺してきた何かが、いきなり表に出てきたみたいに。
目の奥で何かがきしむ音が、こちらにまで伝わってくる気がした。
「な、何だよ、あれ……」
隣で兵が呟いた。
イシュの民たちは、人間兵の列を振り返らない。
命令を待とうともしない。
ただ、台地を見ている。
崖の上——その向こう側を。
次の瞬間、誰かが吠えた。
何語かも分からない声。
それでも、「怒り」としか言いようのない声だった。
それを合図にしたように、前列が一斉に動き出す。
「お、おい、まだ——!」
制止の声が飛ぶより速く、イシュの民たちは隊列を飛び出した。
槍も盾も持たず、崖へ向かって走り出す。
帝国だけではない。
隣の国の陣でも、その隣でも、同じことが起きていた。
各国の怒号と号令が混ざり合う。
だが、イシュの民たちは振り返らない。
天空の台地の方を向いて、怒りに駆られたように圧倒的な速度で走る。
「魔王に……惹かれてんのか?」
「あの地にはイシュの怒りを増幅する力があるって……」
「イシュの民を狂わせる薬が使われてたんだ!」
「こんな使い方があるかよ!」
そこかしこで訳の分からない理屈が広がって行く。
俺は、口を閉じたまま、それを聞いていた。
——怒りの使い方、ちゃんと選べる兎になってくるからさ!
あの兎の声が、また耳の奥で響く。
軍は、怒りという言葉を、命令の一つとして使ってきた。
やる気を出させる号令。
隊列を前に進めるための掛け声。
その怒りが、今、手からこぼれ落ちている。
道具として握っていたつもりのものが、勝手に動き出した。
兵站も指揮系統も関係なく本陣から千切れ、ただ、崖に向かって。
「止めないんですか!」
若い兵が叫ぶ。
俺は、答えなかった。
止められると思えなかったからだ。
怒りを知らない者が、怒りの物語を信じる。
怒りを語る資格のない者が、怒りを命令にする。
そういう連中の下で、俺はずっと訓練をしてきた。
自分もその一部であることを、分かっていながら。
その結果が、今、目の前にある。
イシュの民たちは、崖に取り付き始めていた。
足掛かりも乏しい岩肌に、指と爪と足を食い込ませて登って行く。
身体が武器であり防具である連中だ。
人間なら恐怖で足がすくむ高さを、振り返りもせず進んでいく。
怒りに任せた突撃は脆い——訓練では、そう教えてきた。
だからこそ、怒りは上から調整してやるものだと。
その持論が、崩れていく音がした。
道具のように使ってきたイシュの民の怒りは、道具にならない。
俺たちの手の届かないところへ、勝手に歩いて行ってしまった。
崖の上から、何かの声が返ってくる。
遠吠えにも似た声。
山頂のイシュの民が待ち構えていたのだろうか。
崖の上に群れていた鳥たちが、ばらばらに空へ飛び散る。
大きな塊は、台地に着地しない。
見えない上で、何かが始まったのだ。
争いではないと言い張るには、あまりにも乱暴な飛び方だった。
あそこには、戦を避けて立っていられる場所なんて、一つも残っていないのだろう――ふと、そんな考えが頭をよぎる。
若い兵が、わなわなと肩を震わせた。
「教官……これ、本当に、戦なんですか。」
俺は、答えられなかった。
視線を崖の下に戻すと、さっきまでイシュの民が整列していた場所には、綱やはしご、足場を組むための道具が、そのまま置き去りになっていた。
縄も杭も、きれいに束ねられたまま動いていない。
命令のために用意した道具だけが、静かに残っている。
持っていかれたのは、命令を待っていたはずの者たちの方だった。
彼らは、どれだけ待っても戻ることはなかった。
◆
鳥影が西側の海へと向かって帯のように飛び去った。
ぽつりと外れて浮かぶ不気味な戦艦を、ゆうに飛び越えて行った。
山頂に、東から飛んで来たドラゴンが降り立った。
ドラゴンは数日間居座った後に飛び去った。
下から見上げる情報は、とるに足らないものから、見逃せないものまで幅広く集まった。
ドラゴンに関しては俺の真上を横切った。
ラヴィの英雄譚に登場する個体だろうか。
あんなものに居座られたら、山岳同盟は協力しない。
山を舐めるな。
そう言って安全を最優先させる盟主、山岳国が許すはずもない。
後日、山岳同盟の傭兵たちによる確認で、イシュの民は亡骸ひとつ残っていなかったと報告された。
人間がむやみに立ち入っていい場所ではない。
山岳同盟の傭兵たちは、誰しもがそう口にした。
聖地、天空の台地などと、制圧する価値を最大限にうたわれていた土地は、死の花が咲き乱れるような場所だったという。
◆
教官を始め、この戦に参加した者たちは、帰国後に報告書を書く。
後の人は、イシュの民同士で殺し合わせた虐殺だったと読む。
王国の辺境伯領で起こった、人間による周到な作戦により虐殺されたイシュの民。
これ以上残酷な虐殺があるかと読んだ人々。
しかし、戦う意志のない同族同士での殺し合い、そう読まれたこの戦は、より惨酷な虐殺として、歴史に刻まれることとなった。
人々はこの戦を、第二次異種の民殲滅戦と名付けた。




