後天的例外種
目の前には天空の台地、教国の聖地がそびえていた。
酒場のカウンターのように、頂上が平らな台地。
近くに陣取ると、見上げる視界の端から端まで、逃げ場のないほど巨大な壁が迫りくるようだった。
痩せた土地にそびえる壁は、遥か上空では空と台地の境界線になっている。
断崖の足元の半開放的な地には、各国の陣が散らばっていた。
台地の麓を領土とする教国と公国とが、断崖沿いの地への他国の侵入を許可したのだ。
各国は、海側からいずれかの国へと上陸した。
旗の間隔は、友軍というには遠く、敵というには近い。
睨み合いだな。
そう思いながら、俺は自分の横の列に目を落とした。
槍を持った人間兵の列。
崖に最も近い位置には、イシュの民たちが整列させられている。
運搬部隊、登攀部隊——そう呼ばれている連中だ。
真っ先に崖を登り、後続が登る道を作るという名目だ。
怒りの命令は、基本的には人間兵向けのものだ。
イシュの民には、ほとんど意味がない。
あの穏やかな目に、怒号を浴びせても反応は薄い。
少なくとも、昔はそうだった。
耳を澄ませば、別の陣からも号令が聞こえる。
「魔王はあの台地の上だ!」
「イシュの民は、人類の敵だ!」
「怒りを忘れるな!」
どこも似たようなことを叫んでいる。
イシュの民を前面に押し出しながら。
俺は、前列のイシュの民たちの横顔を眺めた。
皮膚の色も、耳の形も、尻尾の有無も、まちまちだ。
共通しているのは、その目だ。
よく訓練された兵士の目ではない。
それでも、ただの奴隷の目でもない。
——怒りを道具にする怖さ、やっと分かったよ。
あいつの声が、耳の奥で蘇る。
訓練場で、俺を転がした兎。
従軍奴隷のくせに、退役願いを持ってきた兎。
胸に包帯を巻いたまま、まっすぐ俺を見ていた。
あれからそう時間は経っていない。
なのに、今ここには、世界中の軍が「怒り」を連れて集まっている。
「教官。」
傍らで、若い兵が声を掛けた。
「イシュの奴ら、……あんまり緊張してねえように見えるんですけど。」
「緊張してない方が、手はよく動く。」
「でも、号令、意味あんのかって、あいつら相手に。」
兵は、前列のイシュの民たちを顎でしゃくった。
「帝都で聞きましたよ。怒りの命令はイシュの民には意味がなかったって。」
「そうだな。」
昔なら、胸を張ってそう答えたはずだ。
今は、言い切る前に、どこかで言葉が引っかかる。
——怒りを使うのが、怖くなった。
あの兎が、そう言った。
自分の怒りではなく、軍の怒りの使い方を、怖いと言った。
俺はそのとき、笑えなかった。
「教官?」
若い兵が俺の顔を覗き込む。
「怒りの命令は、人間用だ。」
「ですよね。」
「イシュの民には届かない。……届かない、はずだ。」
自分で言って、引っ掛かりを感じる。
怒れなかったイシュの民を怒れるようにした。
王国の奴隷供給地、そこから流れる情報だ。
「後天的例外種」という銘柄で流しているあたり、何かしらの意図を感じたものだ。
王国の辺境――外壁の街に、「穏やかな軍」があるらしい。
狐姿のイシュの民率いる橙の近衛軍。
「穏やかなのに、怒れる兎」イシュの民の例外種。
それを実験的に造り出したという噂。
ややもすると諸刃の剣ともなり得る例外種で構成されているというのに、暴れもせず、狂わず、まるで呼吸するように秩序を保っているという。
そんな噂も、「帝国の怒れる兎」という英雄譚を作る傍らで、ささやかれていた。
そして、俺が逃がしたその怒れる兎が、羽の生えた獣人二人を引き連れて、各国で後天的例外種を売りさばいていたのだ。
それぞれの国の財力を見極め、法外な値段で売られるイシュの民。
兎は、売りたくなかったのだ。
ところが、各陣営の中に数多く紛れ込んでいるというのが現実だ。
皮肉なことに、今回の混成軍の集結を、格段に早めてしまったと言ってもいい。
それだけ、この天空の台地の制圧は、価値があるということなのだろう。
天文国では、唯一買い取ったイシュの民の手により、従軍奴隷全員が怒れるようになった、などという噂まで流れている。
魔王の怒りに直接触れた国。
しかしあの怒りは、そこに住むイシュの民をも巻き込んだのだ。
勝手に流れ着いた同胞を売る国と、同胞を無差別に殺した魔王。
怒りの矛先がどちらに向けられるかなど、明らかだ。
ましてや魔王は、『鳥獣憐みの令』という同胞が流れた根源を唱えた者でもある。
少なくともそいつらに怒りの命令を使えば、効果は抜群だ。
そんな風に思うのだ。




