お嬢様
「ではお嬢様、こちらでございます。」
背の高い女性――結局ここまでの道中では名前を聞けず、私は見知らぬ大きな屋敷の門をくぐろうとしていた。
夕暮れの残光を反射して、鉄の門は柔らかな赤銅色に光っている。
その奥には、左右対称に並ぶ街灯の列。
そして、石畳を敷き詰めた広い中庭の先に、堂々とした建物がそびえていた。
「え、ええと……ここは……」
「こちらはお嬢様のご自宅です。」
軽く会釈しながら、彼女は門番に合図する。
私が何か言うより早く、門は静かに開かれた。
通り過ぎざま、門番は二本の指を立て、ウインクを添えて敬礼、もとい軽礼していた。
「いえ、あの、私ほんとにここ知らな――」
「はいはい、お戯れの腕を上げましたね。」
「お戯れとかじゃなくて本当に!」
「お嬢様、声が大きゅうございます。」
「……」
もう勝てる気がしなかった。
◆
屋敷の中は、まるで歴史書から抜け出したような雰囲気だった。
艶やかな床に、壁を彩る花模様のレリーフ。
高い天井にはシャンデリアがきらめき、忙しそうなメイドたちは皆、通り過ぎずに立ち止まり、慣れた調子で頭を下げてくる。
(やばい、なんか完全にお嬢様扱いされてる……)
周囲の視線に押されて流されるまま歩く。彼女――どうやら名は「リオナ」というらしい――が横で涼しい顔をして案内していた。
「お嬢様、夕餉のお席をお整えいたしますが?」
「えっ、いや、その……食べ……ないかな?」
「まぁ!お嬢様、またご無理を。あれほどお食事を抜かれると体に障ると――」
(やばいよ、ホントにどこかでちゃんと断らないと!)
屋敷の迫力に圧倒され、安心感は吹き飛び、この後の展開に恐怖さえする。
結局、お腹の音が盛大にやらかし、着席。
目の前に並べられた料理は、どれも香り高く、形も美しい。
ナイフとフォークを前にして、私は思う。
(……いや、食べるけども。うん、食べるけども。)
一口食べた瞬間、理性が飛んだ。
美味い。
まるで「食べて正解」と言われた気がして、ますます逆らえなくなっていく。
◆
「お風呂のご用意が整いました、お嬢様。」
「……風呂まで……あるんだ?いや、あるんだろうけど。」
案内された浴室は、すでに湯気が立ち込めていた。
壁面に描かれた青いタイルの模様が水面に揺れ、どこか懐かしい。
「お嬢様、お好きな香草の湯でございます。」
「へぇ……(って誰の趣味!?)」
しかし湯を見た瞬間、疲れがどっと押し寄せた。
今日は一日中歩き回って、砂だらけだ。
背筋が悲鳴を上げている。
リオナが部屋を出ると、私は観念して服を脱いだ。
そして、湯に身を沈める。
「……あぁ~……生き返る~……」
天井の模様をぼんやりと眺めながら、思考は溶けていった。
異世界?お嬢様?首飾り?……明日の私、後は任せた!
湯気の中に包まれて、ほんのりと笑いが漏れる。
「いやもう、何なのこれ……」
誰も答えない。
お湯の波紋だけが、静かに広がっていく。
◆
風呂上がり。
用意された寝巻きは、柔らかな布地で、ほんのり香水の匂いがした。
ベッドの上に腰を下ろすと、リオナが扉の向こうから声をかける。
「お嬢様、明朝はどのようなご予定で?」
「えっと……たぶん……寝てる。」
「かしこまりました。それでは朝食は遅めにいたしますね。」
「え、ほんとにそれで通っちゃうの?」
「お嬢様のご意向は絶対ですもの。」
その言葉に、なぜかゾッとする。
だがもう思考はふわふわしていて、ベッドの柔らかさに抗えなかった。
「……まあいっか。」
小さく笑い、目を閉じた。
異世界の天井を見上げることもなく、静かな寝息が広がっていった。




