7.運命の番さん
和樹はあの日、貴斗の顔を見るのが怖くてそのまま家に帰った。
何度もスマホが鳴ったが、全て無視した。
貴斗からの着信も、メッセージも、怖くて開けなかった。
数日が経った。
和樹が学校を休んだその日、貴斗が家の前までやってきた。そして、インターホン越しに彼は静かに言った。
『和樹……』
「近所迷惑だ、帰ってくれ」
『出てくるまでここにいる。頼むから話をさせてほしい』
貴斗は頑固な人間だ。言ったことはやり遂げる。
きっと、本当に玄関の前に居座るつもりだ。
和樹は、涙でぐしゃぐしゃになった顔を手のひらで拭った。
本当は会いたくなんかなかった。泣き腫らした顔を絶対に見せたくなんかなかった。
けれど、ずっと玄関の前に立ち続ける貴斗の姿も近所の目線も無視できず、和樹は渋々玄関の扉を開けた。
「和樹……!」
外に出た瞬間、貴斗に腕を引き寄せられる。
「……っ、和樹、ごめん。不安にさせて。ちゃんと話すから聞いてくれ」
「……謝ること意味わかんねーよ。別に恋人でもないのに……」
「和樹は恋人じゃなくても、こんな顔になるくらい俺のことを想ってくれるの?」
「……うるさい」
貴斗は和樹の頬を両手で包み込み、泣き腫らした目元に何度も唇を落とした。
「や、やめろ……」
「なんで?」
「もういいだろ、部屋に戻る……」
「あの日のことさ、俺に聞かないの?」
「……っ!」
その言葉を聞いた瞬間、和樹の動きが止まった。
あの日──貴斗が運命の番の少年と出会った時だ。
「……運命の番さんによろしく。俺のことは別に気にしなくていいから」
「なんでそんなこと言うんだ?」
「は?運命の番なんだろ?こんな所にいたら、番さんに嫌われるぞ」
そう言いつつも、まともに貴斗の顔を見ることは出来なかった。
貴斗は和樹の両手を包み込むと、口を開いた。
「和樹……一緒に、ある場所に来て欲しいんだ」
◇
向かった先は、街の喫茶店だった。
店内の奥に座っていたのは、可愛らしい容姿をした少年と落ち着いた雰囲気の同年代の男子。
二人の姿を見た瞬間、和樹の体は反射的に強ばった。
(あいつ……貴斗の“運命の番”!?)
“運命の番”はオメガらしい可愛い容姿をしており、まさに貴斗にお似合いの相手である。
(なんでここにいるんだ……貴斗と連絡を取り合ってるということか?)
和樹の頭の中はぐちゃぐちゃになっていた。
少年がこちらに気づき、優しく微笑んだ。しかし、隣の男子はやや呆れたように言った。
「まだ説明してないのかよ、貴斗。最低だな、お前」
(……説明?)
和樹が混乱していると、少年が和樹に向かって丁寧に頭を下げた。
「こんにちは、僕は橘奏汰って言います。あの、僕は貴斗さんと番になるつもりはないんです」
「え……?二人は……その、運命の番で──」
「僕には直紘くんっていう恋人がいるんです。まだ番ではないけど、将来を約束しているんです」
(運命の番、なのに?……二人は結ばれるべきなのに?)
和樹の頭は、奏汰の言葉を上手く処理できなかった。
「僕、まだ十六歳で……両親が厳しくて、十八歳までは番契約は控えろって言われてて」
「……あと二年だな」と横の男が捕捉する。
和樹は、奏汰の隣に座る男に視線を向けた。
「この方が、そのアルファ……ですか?」
「俺は、奏汰の幼なじみの直紘。高二でお前たちと同い年だ。貴斗、お前マジでこいつに何も言わずに連れてきたのかよ?」
直紘は貴斗を睨むようにして言った。
「俺が説明するより、直接会って話す方が早いと思っただけだ」
「お前の脳ミソ、ほんとどうなってるんだよ……」
「うるせぇよ」
険悪な雰囲気になる貴斗と直紘に、奏汰が慌てて止めに入る。
「直紘くん、もう……喧嘩しないでよ!和樹さん、ごめんなさい」
「い、いえ……」
貴斗が和樹の隣に座り、まっすぐと見つめる。
「和樹。俺は運命の番がいたとしても、お前を選ぶ。……それは奏汰さんも同じだ」
「……僕も、直紘くんを選びます。だから誤解しないで欲しいんです。僕、隣の県に住んでて今後会うことも多分ないですし……」
(……二人は、運命の番なのに?)
和樹は二人の言葉を信じることが出来なかった。
“運命の番である二人は結ばれるべきである”
そう、互いの本能は告げているはずだ。
和樹は、運命の番と結ばれた兄を知っている。
『俺はあいつと出会って、人生が変わった。オメガに生まれてよかったって初めて思えたんだ』
そう言って笑う兄が脳裏に浮かぶ。
貴斗も運命の番もそうあるべきなのに。
しかし、和樹の心の奥には別の気持ちも住み着いていた。
「……奏汰さん。ひとつ、聞いてもいいですか?」
和樹の声は震えていた。けれど、目だけはまっすぐ奏汰を見ている。
「はい、なんでも」
「その……本能って抗えるんですか?」
和樹の質問に、その場の空気が張り詰めた。
運命の番という強烈なフェロモンの結びつき。
本来なら、理屈の通じない圧倒的な引力に従うことが自然とされている。
それに、抗えるのか──?
奏汰は目を丸くし、それからふっと微笑んだ。
「抗う……というより“選ぶ”だと思います」
「選ぶ……?」
「はい。確かに番の相手といると落ち着くし、惹かれる部分もあります。でも、僕はそれだけで人生を決めたくないんです。……僕は、自分の気持ちを大切にしたいから」
和樹は小さく息を呑んだ。
「……じゃあ、貴斗って、いい匂い……しますか?」
「え?」
「おい、こいつ奏汰に何言ってんだ?」
奏汰の隣に座る直紘から鋭い視線を向けられ、貴斗には困惑した顔を向けられた。
けれども和樹は、奏汰の顔をまっすぐ見つめたままだった。
「俺はベータだし、貴斗の匂いが分かりません。……汗かいたら普通に臭いし」
「和樹……」
「……でも、奏汰さんは……違いますよね?」
沈黙の時間が少し続いた後、奏汰は口を開いた。
「はい。正直言うと、します。安心するような、落ち着く匂いです。……でも、それだけです」
和樹はわずかに眉をひそめた。
「それだけ……?」
「いい匂いがするだけ、です。でも、僕が一緒に居たいと思ったのは直紘くんだけ。匂いよりも気持ちの方がずっと大事ですから」
「……」
和樹は膝の上にある手をぎゅっと握った。
“運命の番”──本能に抗えるなんて、思ってもみなかった。
けれど、目の前にいるのは──実際に抗い、自分の想いを選んだオメガだ。
そしてその隣には、彼の手を握るアルファがいる。
誰でもない。
“運命の番”でもない。
ただ、“好きな人”を選んだ彼らの姿が眩しかった。
「……俺は、貴斗をいい匂いだって言える奏汰さんが羨ましいです。貴斗に相応しいのは、きっとあなたのような人だと思います。でも……」
和樹の声がわずかに震える。
「それでも俺は、貴斗の隣に居たいって思う。貴斗に相応しくなくても、そう思うんです」
奏汰はゆっくりと優しい微笑みを浮かべた。
「その気持ち、分かります。僕だって直紘くんの隣に居たいって思っていますから」
「奏汰さん……」
貴斗も同じように優しい微笑みを和樹に向けた。
「和樹。俺は運命の番がいようが、お前を選ぶ。それだけは変わらない」
「貴斗……」
黙って見ていた直紘が口を開いた。
「……もう、いいか?俺は、こんなアルファと奏汰が一緒にいる空間に居たくない。奏汰、行くぞ」
直紘が立ち上がる。奏汰もすぐに席を立ち、和樹と貴斗に頭を下げた。
「今日は来て下さりありがとうございました。こんなタイミングだったけど……僕、会えてよかったです」
そうして奏汰と直紘は店から立ち去った。