新年
熱はその夜よりも上がることはなかったが下がることもなく、結局、リックはそれからの四日間をベッドの上で過ごした。
食事は天秤座のカサノが持ってきてくれた。
一日目は薬を飲むために一口二口、口をつけるのが精一杯でそれ以上は飲み込む力もなかったが、食事の回数を重ねるにつれて少しずつ食欲も戻ってきた。三日目の夜にはパンを煮てふやかし、消化しやすくしたスープを一皿食べきれるまでになった。
「本当に大丈夫かよ、今日俺が出かけても」
「大丈夫だよ。どうせ一日中寝ているんだし。せっかくだから楽しんで来るといいよ」
寝込んで四日目の朝、今日が今年最後の日。製鉄場の人たちは今日一日かけてこの一年の間に溜まった煤を払い、その後、新年を祝う集まりを朝まで催すらしい。
コーザは掃除が終わったら集まりには参加せずに帰って来ると言ってくれたが、リックはもう熱も下がったから大丈夫となかば追い出すようにコーザを送った。
工房も同じように炉の火を落として汚れを払い、会を開くことになっているが、
「炉は少しずつ、二日かけて落とすんだ。急激に温度を下げると炉に亀裂が入ってしまうからね。炉の掃除は最後の日にするけれど、その前の日に他のことは終わらせてしまう。だから掃除の時間は十分にあるし、起きられるようになってもゆっくり休んでいるといいよ」
そうヤンが言ったのをコーザを通して聞いていた。工房に行って掃除が出来るほどに体調は戻ってはいたけれど、まだ頭の芯は重く、他の人に風邪をうつしてしまわないようリックはこの日も休みをもらうことにした。
ベッドに入ってもこれまで三日間、昏々と眠れていたことが嘘のように今日は目が冴えて、眠れそうな気は全くしなかった。
横になり天井を見上げる。静かだとリックは思った。
一度、木に積もっていた雪が地面に滑り落ちただけで、小鳥のさえずりも、子供たちの声も、荷車が通る車輪の軋みも何も聴こえず、周りの音は全て雪に吸い込まれてしまったかのように音ひとつしなかった。
静寂の中、自分の音が強く響いた。息を吸って吐き、鼓動が規則正しく繰り返される。不思議だなとリックは思った。自分に一番近い音なのに寝ているときでさえ休むことなく繰り返している音なのに、こんなにも静かにならないと聴こえてこないなんて。
目を開けて天井を眺める。木目が波を打つように線を引くように天井を行き交う。夜空の星々を結んでいくと形が浮かんでくるように、流れていく雲が何かの形に見えてくるように、静かに眺めていると木で出来た天井の空にも小物や景色や生き物の姿が浮かんで見えた。
その姿は曖昧でおぼろげでほんの一瞬、瞬きをして目を離してしまうとそんなものは最初からなかったかのようにそっと消えてしまう。消えてしまうと目の前に広がるのはただの一枚の木板だ。しかし、息を潜めて眺めているとまた別の木目と木目が結びつき、ぼんやりとうっすらと新しい姿が見えてくる。眠れない目とまだ重たげな頭を枕にのせて、リックはこの小さな部屋の天井をどこまでも続く青空のように眺めていた。
下の扉が開く音がして、リックは天井の空からベッドに戻った。足音がリックを起こしてしまわないよう静かに階段を上ってくる。カサノが食事を持ってきてくれたのだろうと思い体を起こすと、階段を上ってナツが顔を出した。
「ごめんなさい。起こしてしまいましたね」
ナツが来るなんて想像もしていなかったリックは驚いて声も出ず、首を横に振ることさえ忘れて顔を出したナツを見ていた。 両手に持った鍋をかまどに置くと、彼女はローブとマフラーを脱いだ。
そのローブをふたつに折るとマフラーとともに椅子にかけ、ナツはもうひとつの椅子をベッドに寄せて腰を下ろした。
「気分はどうですか?」
「頭はまだ重いですけど、昨日までと比べるとずいぶん楽になりました」
少し早口にリックは答える。
「それは良かったです。 コーザさんから聞きました、熱が下がらなくてもう四日も寝込んでいるって」
昨日までの熱が戻ってきたかのようにリックは顔を赤らめる。赤みがさした顔をナツが心配そうにのぞき込み、リックはさらに顔を赤くした。
「ご飯は食べられそうですか? さっき下でチノさんに会って預かってきたんです」
リックはかまどの鍋に急いで目を向け、のぞき込むようなナツの視線を外す。急かされているわけでもないのにナツの視線にひとり慌てて、リックは考えるともなく答えた。
「いただきます」
「すぐに準備しますね」
ナツはほっと安心した笑みを浮かべて椅子から立ち上がると、棚からスプーンと木皿をふたり分ずつ取り出した。
「チノさんが一緒にどうぞって、私の分もくれたんです」
リックは横にずれてベッドの端に場所を作り、そこに木板を置いて机の代わりにした。並んだふたつの皿が仲良く寄り添っているように見える。
ナツが差し出した皿をリックは受け取った。湯気のたつスープをふたり、黙々と口に運ぶ。
「おいし」
ひとり言のように呟いたナツの言葉が煖炉の燃える音と木皿にあたるスプーンの音だけの静かな部屋に響いた。
「そういえば昨日」
半分ほどスープを食べ終えた頃、ナツが思い出したように昨日あったことを話しはじめた。その話しは面白くて普段真面目なナツが話すとさらにおかしくて、煖炉で燃える火の音が霞んでしまうほど、ふたりは声を出して笑った。
寝込んでからのこの数日間、時折、昼間に目を覚ましても部屋にひとりきりで、いつもはこじんまりと居心地のいい部屋が眠っている間に空っぽに広がってしまったようにリックには思えた。
食事の時はカサノがいてくれることも多かったが食べるのはいつもリックひとりで、何を口にしても美味しいと思えず、ただ体を治すために口に詰め込んでいるだけだった
けれどこの日は違った。誰かと向き合い、一緒に食べる。笑みが自然とこぼれてくる。たったそれだけの違いなのに同じ食事とは思えないほど、不思議と美味しくて鮮やかで、くだらない冗談も吹き出しそうになるほどにおかしくて、そんな時間がスープよりも暖炉よりもリックを芯から温めた。
陽が暮れはじめナツが帰ってしまうと、タンスに置いてある小さなランプに明かりを灯しリックは横になった。ランプの灯りが部屋を照らすも天井までは届かず、昼間に眺めていた木目の空は遠く見えなかった。
工房のみんなは今頃何をしているのだろう。リックはふと思った。一年の汚れを落とし、工房のみんなやそれぞれの家族や友人と集まり、新しい年の始まりを祝っているところだろうなと想像した。暖炉は暖かく燃え、笑い声が朝まで響きわたる。そんな様子を思い浮かべていると、リックは秋の終わりにひとり取り残されているような、そんな寂しさを感じた。ナツが来てから部屋を満たしていた温もりは幻のように消え去り、部屋がまたどうしようもなく空っぽになったように思えた。ただ風邪をひいて寝込んでいるだけだ。そう自分に言い聞かせても広く暗い部屋で横になっていると、ひとりなんだという思いが強く迫ってきた。一度そんな考えが浮かんでしまうとまとわりついて離れず、リックの頭の中をこだまのように何度も響いた。胸につかえる苦しさも詰まっている鼻のせいにした。
風が吹きはじめ、窓が小刻みに震える。ずいぶんと長い時間が過ぎてしまった気もするし、夜はまだ始まったばかりだという気もする。暗闇の中で横になっていると時間の感覚が薄らいでいく。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
眠れずに何時間もベッドの中に潜っていると、遠く鐘の音が聞こえた。新年だ。深く重みのある鐘の音。町場からここまで近くはない距離があり、窓も扉も閉めきっているため、その音は決して大きく聞こえはしない。しかし暗く空っぽの部屋で横になり、ひとりその音を耳にすると、その鐘の音の小ささがかえって自分と町との距離を語っているようにリックには聞こえた。ひとりなんだ。そう言っているように響いた。
煖炉の薪が燃え尽き灰となり、少しずつ部屋の温度が下がっていく。部屋の温もりが冷気に溶けて、外と部屋との温度差が縮まっていく。毛布を首元まで引っ張り上げる。肌寒く感じながらも、リックは薪を足そうとはしなかった。冷えていく部屋でひとり横になっていると、その寒さすらリックには心地よかった。鐘がその音を止めるのをリックは目を閉じて待とうと思った。目を閉じても音は小さくなりはしないのに、それでもリックは鐘の音を消すかのように堅く目を閉じた。リックが目を閉じて少しして、下の扉が開いた。そのことをリックは知らずにいた。




