第一話 Take My Hand①
一応粗筋をば。
前章が大宮殿から逃げる途中で終わっているので、その続きからです。
非常事態でも告げる様に、けたたましい鐘の音が夜空に響き渡っていた。
そんな中、俺達は夜の街並みを走る、ひた走る。
ここは西界の東側に位置する東ラウィニウム帝国、その第二の都市である聖都ビュザンティオン。
星空に浮かぶ三日月の光量は僅かなもので、一寸先は闇とまでは行かないものの、遠方を見る上での目印は篝火程度しかない。
何処に何が潜んでいようと事前に察知するのは至難の業であり、だからこそ並走する者達の表情は殆どが厳しいものとなっていた。
先頭を走るタグウィオス・センプロニオス。
彼の後ろにラドルス・アグリッパやシグ、后羿と俺が続いて行く。
このような夜更けであれば、通常城門は閉め切られ、市民達もその多くが寝静まっている時間である。
しかし、だと言うのに自分達はこうして夜の街を駆けずり回る。これには言うまでもなく深い理由が存在していた。
具体的に言うと、皇太子も居る様な宮殿から脱獄し、その過程で暴れ回ったのである。要するにお偉いさんを激怒させてしまった訳だ。
もっとも、これについては勝手に怒ったとも言えるが。
「必ずだ! 必ず捕らえよ! ここで逃がす様なら貴様ら全員処罰してやるぞ!」
誰が寝ていようと関係ないと言わんばかりに、凛とした青年の声がする。
元々よく通る声なのだろうが、多くの者が寝静まった時間帯にあっては殊更よく響いていた。
そしてその声に押される様にして、迫って来る足音も煩くなり、ガチャガチャと鎧の擦れる金属音も大きくなっていく。
その様子を、背後を振り返って確認した后羿は、彼らを揶揄するように呟いた。
「尻に火が点けられたらしいな。連中、分かりやすく必死だぜ」
「この街を管轄する皇太子が直々にそう宣言したんだ、そりゃ慌てもするだろうよ」
それこそ督戦とも言える様な状況である。必死に背後から追って来る兵士達は、絶対に気が抜けないのだろう。
背後からは多くの荒い呼吸が聞こえ、彼らの本気度合いを伝えている様だった。
「城壁に追い込め! 幾ら何でも、そこまで追い込めば逃げられぬ筈だ!」
喝を入れられた兵士達に、その張りがある凛とした声は更なる指示を飛ばす。それに対し兵士達は一斉に腹から声を出し、了解の意を告げていた。
より一層勢いの増した背後の気配が気になって、ラドルスにその理由を訊ねる。
「城壁……何かあんの?」
「ビュザンティオン名物の“大城壁”だ。堅牢な三重の城壁で、当然だが門も三つある。建設以降、今まで破られた事は一度たりともない!」
「そう言えば俺とリュウがここに入る時も、衛兵が自慢してたな。あの城壁が完成してから一回も陥落した事が無いとか」
「……それ詰んでね?」
そんな事も聞いたなぁ、とまるで他人事の様に后羿が宣っているが、悠長な事を言って居られる余裕は無いのではなかろうか。
しかし、この不安を取り払うように、先頭を走るタグウィオスは答える。
「難攻不落を誇るのは外部からの攻撃だ! 内部からなら或いは……!」
「無駄だ! 帝国皇太子たる私から逃げ切れると思うな! 例え白儿の攻撃であろうと、大城壁を破る事は能わない!」
マルコス・ユリオス・アナスタシオス・ポルフュロゲネトス。
先程から彼のその凛とした声には、自信と確信が満ち溢れていた。
しかしそれに対し、タグウィオスは厳しい表情をしながらも何か策があるらしい。一瞬視線をこちらに向けたかと思うと、指示を飛ばしてくる。
「ラウレウス、后羿! 貴様らは後ろの足止めを! 姫様、魔法の準備を! 破るのではなく、一気に越えましょう!」
「「「……了解!」」」
「むざむざと脱出などさせるものか!」
「うるせえ邪魔すんじゃねえ!」
もう既にその大城壁とやらは目前に迫り、見上げんばかりのその全容が明らかなものとなっていた。
暗さ故にその細部までは分からないが、城壁の高さは建物の屋根よりもなお高い。恐らく十Mは越えている事だろう。
これを一体シグの魔法でどのように越えると言うのだろう――そう思いながら、迫って来る追手に向けて白弾を放っていた。
しかし、横で並走している后羿は何もする事は無かった。
「お前、牽制だけも撃たねえの?」
「俺の武器は弓だぞ? 闇雲に撃ったって矢の無駄じゃねえか。だからラウレウス、お前に託す!」
「……ただのサボりの口実だろ」
とは言え、彼の言う事にも一理ある。弓では倒せても一人だけ。牽制として使うには射手の数も足りず、白弾を撃つ事に比べたら雀の涙ほどの効果しか上げられないだろう。
「まだ足掻くか……投降しろ、白儿! 貴様が私に歯向かう事は相応しくない! シグルティア、お前もだ! 大人しく我が覇道の礎となれ!」
「覇道とか痛々しい事言いやがって! そんな発言して恥ずかしくねえのか!? それとも皇太子ってのは痛々しくなるのがお仕事だとでも!?」
「減らず口を!」
彼の天色の瞳に、険が乗る。
明確な怒りを以って、俺を睨んでいるらしかった。
そんなマルコスに対し、挑発するように笑って返してやった直後。
「出来たッ! 皆、乗って!」
聞こえて来たシグの声に、弾かれる様にして反応していた。
一瞬で踵を返すと、シグが造り出した氷の台に乗り込む。
「……っと!?」
「おい、気を付けろ。氷の上なんだから、滑るに決まってるだろ」
勢い余って滑り降りてしまいそうになるけれど、シグもそれを予想してガードレールの様なものを設置してくれていたらしい。
后羿が呆れた様に呟く中、俺はそれに掴まって事無きを得るのだった。
何にせよ、これで五人全員が彼女の造り出した氷の台に乗り終わった訳である。皆、何かしらの突起を掴み、そう簡単に振り落とされる気配もない。
それを見たマルコスは、憎々し気に俺達を見据えていた。
「シグ、お前……!」
「さようなら、兄上。もう二度と会わない事を祈ってるぞ」
したり顔でシグが笑い返したその瞬間、氷の台座が動き出す。まるでエレベーターの様に持ち上がり始め、見る見るうちに城壁の高さを越えたのである。
しかし、それをいつまでも黙って兵士達が見ている訳は無かった。弓を持つ者は矢を番え始め、城壁で警備に当たっていた兵も警戒態勢にあったのか集結しつつあったのである。
「射て! 射て! もはや生死も問わん! 何としてもここで!」
「は、はいっ!」
形振りも構わぬマルコスの命令に、呆けた顔でシグの魔法を見ていた兵士達もまた、足元の石を拾うなどして動き出す。
だがそんな彼らの努力を嘲笑うかの様に、氷の橋が城壁の上を渡されていく。
「やらせるか――ッ!?」
「邪魔はさせねえよ」
魔法が扱えるらしい兵士が魔力を行使しようとした素振りを見せるけれど、それを遮る様に額を矢が直撃する。
はっとして横を見れば、そこにはまた新たな矢を番える后羿の姿があった。
「こういう時こそ、俺の出番だな」
これだけの暗さだと言うのに、彼は恐るべき正確さを以って一人、また一人と魔導士を射抜いて行く。
その光景に、タグウィオスやラドルスもまた驚いたように目を剥いていた。
「只者ではないと思っていたが……意外な特技もあったものだな?」
「俺みたいな優男は見かけによらないもんでね」
そんな遣り取りが為されている間にも、氷の橋は三つの城壁と水堀を越えて、向こうの岸へと辿りつく。形としてはもはや、橋では無く滑り台の様なものであった。
「急いで、足場を崩される前に!」
「ああ……!」
既に、この氷の塔はその根元に多くの兵士が集い、武器を突き立てている。中には魔導士も居る以上、そう遠くない内に大木を切り倒すみたく破壊されてしまう事だろう。
おまけに、それだけではない。
「白儿! シグルティア! 私に利用されるべき分際で……!」
魔法の能力なのだろう。体の一部を水に変え、憤怒の表情を浮かべたマルコスが高低差をものともせず塔の最上階に到達していた。
しかしそんな彼を嘲笑う様に阻んだのは、唐突に造り出された氷の壁だった。
「シ、シグルティアぁぁぁぁぁあッ!」
「残念、兄上の属性じゃ私の魔法を破る事は出来ないでしょ?」
彼本人には最早聞こえていないだろうが、その呟きを残して彼女は俺達と共に渡し橋を滑り降りて行く。
全員が城壁の外へと脱出したのとほぼ同時に、氷の塔と滑り台は崩落した。
攻撃を受け続けていた事もそうだが、用が無くなりシグが維持に使っていた魔力の供給を断ったのである。
瓦礫の様な音を立てて崩落して行くそれに、攻撃を加えていた兵士達は少なからず巻き込まれたのだろう。幾人かの悲鳴が城壁の向こうから聞こえていた。
だがそれらに注意を向けるのも程々に、皆城壁から背を向けて駆け出していた。
「逃がすなッ! 有りっ丈の矢を放て!」
「城門開け! 騎馬隊の準備を急がせろ!」
聖都ビュザンティオンを護り続ける堅牢な城壁を越えたからと言って、まだ一息吐ける状況にある訳ではない。
この夜の暗さに乗じて、一刻も早く己の身を隠さなければならないのだから――。
◆◇◆
「オ……ヲ、ヲヲヲ? ア、ドゥオコ、ニ……イル?」
それは首を九十度に曲げながら、くぐもった声で何事かを呟いていた。
果たしてその呟きは、意図してのものかは分からない。訊ねる者すらもう殆どいないのだから。そもそも、近付こうとする者など碌に居る筈が無かった。
肩や首、胸、腕などと言った筋肉は異常な程に肥大化し、そもそも骨格自体が本来の人にあるまじき形態を成している。
上半身に比して下肢は極端に短く、しかし太くがっしりしていた。非常に不均衡な見た目であるが、重心が下に向きやすい分、それなりに安定しているらしい。
拳一つとっても、それだけで他人の頭など簡単に握り潰せてしまいそうで、現にそれの足元に転がる無数の骸には顎から上の無いものが多数あった。
それらの骸は神に仕える者の服装――つまり神官の装いをしていて、息絶えるその直前まで必死にいの利でも捧げていたのだろう。握り締められたまま急速に体温を失っていく手には、天神教の象徴たる車輪十字が握られていた。
それだけでも、この場で一体どれ程に無慈悲で残酷な出来事が発生したのか、想像するに難くはない筈だ。
しかし、それを成したであろう不均衡な怪物は、掌にべっとりと付着した脳漿や鮮血を舐めるだけ。特に何かを思う事は無いらしい。
「そ、総主教様……? 何故、このようなっ……お、お止め下さい」
その様子を見ながら、情けなく腰を抜かし、震える声で訴え掛ける一人の神官が居た。
恐る恐る、本来それが持っていたであろう役職で呼びかけて見るが、男自身も本当にその呼びかけで正解なのか確信は無かった。
上肢については、本来の人にあるべき体つきが異なる為に、気色悪いほどに発達した筋肉が露出している。ただ、下肢についてはある程度発達が抑制されていたらしい。
その為、元々身に着けていた筈の衣服の残骸がまだ残っていて、身分の判別が辛うじて可能だったのである。
高貴な、高位な者でなければ切る事が許されぬ服、色がある。この場合は、服にある赤紫色が決定的であった。
それは天神教において最高位の聖職者だけが身に着ける事を許される、貴重な色だから。
「総主教様! 総主教様! お、お許しを! お止め下さい! 何故このような事をその御姿になって……私共が一体何をし」
必死に神官の男はその役職を連呼するのだが、それは一切関心も躊躇も見せず手を伸ばし、彼の頭を握り潰した。
それで、辺りは完全に沈黙した。
「ドゥヲクヲ、ィクヲ……」
まるで手持ち無沙汰になって退屈だとでも言うように、それは周囲を見渡す。
しかし、そこには派手に破壊された門や人の骸が転がっているだけで、やはり何の動きも無かった。
それが詰まらないのか、大きな音がする二ヶ所へ順々に目を向けた。
一方は比較的近く。何かが派手に爆発し、雷のような音も聞こえて来る。何となく、本能的に恐怖を覚えて、もう一方へと視線を移した。
その驚異的な視力は三日月夜で光量が少ない中でも発揮されるらしい。
常人であれば絶対に映らないであろう距離で、その瞳は橋の様なものを滑り降りる少女の影を映していた。
「ア……ア!」
瞬間、体が反応した。
それにとっては、何故かは分からない。理由もない。けれど心の底からどうしようもなく熱くなって、仕方がなかった。
考えられるとすれば、それがかつて人であった時の残滓なのだろうが――。
「……オ、オォ、みヅゲだ、ジぐ……」
それにとってはもう、どうでも良い話だった。
◆◇◆




