第一話 アンビリーバーズ②
◆◇◆
燦々と降り注ぐ太陽の光は、深い森の中では余り届かない。
木々の隙間から流れ込む木漏れ日が照る場所は少なくて、しかし一方でそれが見る者には風情を感じさせる事だろう。
豊かな緑、小さな獣が戯れる木の枝。静かに流れる小さな清流の石には、あちこちに苔が生していた。
「……」
五か月かそれくらい前の時にも、こんな光景を目にした覚えがある。
あの時は子爵の領主に追われてゆっくりする間もなかったけれど、今は違う。
誰かが追って来る気配もなくて、大きく息を吐くと最寄りの木に寄り掛かって、腰を下ろしていた。
「スヴェン……」
土煙の中を駆け抜けながら差し出したこの手を、彼は取ってくれなかった。
迷っている様な、困った様な表情で、腕を動かす事もせず、顔だけがこちらを見ているだけだった。
その内心がどうであれ、選ばなかったという事は、つまりそう言う事だ。
幾ら前世で友達であったとは言っても、転生してからを考えれば十三、四年ぶり。
信頼に黴か錆でもついていたのだろう。
それに、己が白儿であるという事を鑑みれば、信頼に不安がある相手と一緒にいると不安要素しか生まない。
『……そうか、お前もそうなんだな』
裏切るのか。その失望が、あの時の言葉を生んだ。
何と言う事は無い。
信頼出来ない、信頼されていないと判断して、絶交を突き付けたに過ぎないのだから。
なのに。
なのに何故、心はこんなにも疲弊しているのだろう。
正しい判断をした筈なのに、心のどこかで正しくないと子供のように喚く自分がいた。
「どうってこと無いだろ、こんなの」
何を今更、俺は悔いているのだろうか?
アロイシウスやその仲間達に裏切られ、サルティヌスを死なせてしまい、そしてグナエウス達に赦されなかった。
こんなもの散々経験し、苦しんで、その結果もう二度と人とは必要以上に関わらないと決めていたのに。
彼と“再会”したせいで、こんな虚しい気持ちになるとは。
擡げてしまった、殊更強く擡げてしまった親しい人に対する感情。
「……」
ポーチの中から取り出す、中級狩猟者としての認識票。
そこに刻まれている文字は、ケイジ・ナガサキ。
サルティヌスから教わったこの世界の文字で、まだまだ不慣れながらも自分で書いた文字だ。
現在は依頼を受けていないので都合二枚持っているが、それを両方とも手に取る。
サルティヌスが前世で日本人、つまり牛膓 寛之であったように、他にも前世を持つ人が居るかもしれないと思い、前世の名を刻んだ。
その結果としてスヴェン、つまり桜井 興佑と再会できた。
しかし、親友であった筈の彼でさえも信頼してついて来てくれる事は無かった。
彼なら大丈夫だと、思っていたのに。
手に持つ認識票をぼうっと見つめながら、考える。
前世を持つ人と会ってしまうから、こんな気持ちになってしまうのだと。
ならばもう会わなければ良いのではないかと。
気付いても指摘せず、指摘されても知らない振りをすればいい。
折角、中級狩猟者の認識票を手に入れたけれど、こんなものはもう持っている意味も価値もないのだ。
寧ろ要らない者を呼び寄せてしまうかも知れない。
邪魔なだけだ。
何の躊躇もなく、目の前の川へと二つの認識票を投げ込んだのだった。
「……」
思うところが全くないと言えば嘘である。
だがこうでもしなくては、自分のように甘い人間は願望を断ち切れない。
どこかで制限を設けないとまた勝手に失敗して傷付き、勝手に後悔する。
前世から合わせればこの自我を持ち続けて三十年以上も経つのだから、流石にこういう時どうすればいいかは知っていた。
それでも心も体も気怠くて、考えを切り替える為に地図を取り出す動作も投げ遣りで、ノロノロしたものになる。
「で、何処だここ」
地図を見遣ってたっぷり十秒。
空を見上げてそんな呟きが漏れる。
気を紛らわす為に地図を開いたが、新たに立ち塞がる問題のせいで頭を悩ませる事になった。
方角は分かる。だが、正確な場所が分からない。
森に囲まれていて、青空と太陽以外見えないのだ。
タルクイニ市からそう遠くない場所に居るのだろうが、GPSもないこの世界では自分の位置を割り出すのは容易でなかった。
仕方がないので大体この辺とアタリを付け、北へ向かう。
位置関係としては、ラティウム半島の先端方向へ向かう形となる。
その後港町に出、船でアナトリコン半島を目指す。
最終的な目的地はラバルナ朝ハッティ王国の王都・ハットゥシャ。
生まれ故郷からは遥か遠い剛儿の国であり、また金属加工が盛んで鉱山からの採掘も行われている。
廃坑が迷宮と化す場合も多く、狩猟者の出番も多いとか。
仕事も多いので各地から多くの人と人種が訪れる為、白儿である自分も大人しく生活していれば、安心して暮らせる事だろう。
色々あったが、そこで慎ましく穏やかに暮らせればそれで良い。
力を蓄えて、あのティンとか言う精霊に復讐するのも良い。
安寧の日々は、もうすぐそこなのだ。
◆◇◆
ラティウム半島の先端部、アプリア。
その東沿岸部に位置する港湾都市バリウムの港で、海を望んでいた。
海も風も凪ぎ、穏やかな世界を海鳥が舞っている。
潮風の匂いを胸いっぱいに吸い込みながら、期待で心が浮ついていた。
あと少し、本当にあと少しでハットゥシャは目前だ。
この後は海路でビュザンティオンに赴き、陸路で目的地を目指す。
途中で経由も入るのでスムーズにとはいかないが、一か月とせずに着く見立てである。
何かと邪魔が入り続けたこの半年、そのせいで今は物事が上手く行きすぎた様な気がしなくもないが、そもそもこれまでが異常だったのだ。
あそこまで物事が思うように運ばないのも珍しいだろう。
これが普通なのだ――と雲の浮かぶ空を眺めていたら、気のせいか聞き覚えのある声が聞こえた気がした。
一人は少女、一人は男の声。
眉を顰め、もしやと思いながらその声に耳を欹てていると、二つの足音が背後からこちらに近付いて来ている様だった。
「お嬢、考え直してください! 苦労してここまで来たのに、何で戻らなくちゃいけないんですか!? 危険です!」
「そう思うなら声も抑えたら? 誰に聞かれてるかも分からないんだから」
「ですからっ、だからと言ってここで戻っては今までに払った犠牲の全てが……」
「ゴチャゴチャうるさいなぁ。黙りなさい、ラドルス」
元々港町である事もあって騒がしい。なのでその口論が取り分け目立っていた訳では無いのだが、その会話が聞こえた瞬間に、口端を引き攣らせた。
まさか、まさか、まさか。
真逆の方向に行くと言っていたではないか、何故あの二人がここに居る。
何より、何故俺もこれから乗り込む船の方を見ている? ヒスパニアの方へ行くならば真逆の便であるというのに。
「……」
目を向けたくない、見たくもない方向へ、確認の為にも首を巡らせれば、そこには。
「ビュザンティオン行きの船ってこれで合ってますよね? 二人、乗っても良いですか?」
「ああ、まだ開きはあるけど……雑魚寝だぞ? 嬢ちゃん、大丈夫か?」
「ええ、見ての通り慣れてます」
「お嬢、ホントに戻るんですかい……ああ、金も払っちゃってるし」
船員の男と話をする、一組の男女。
凛とした顔立ちの少女が運賃を支払っており、その横に立つ男は疲れ切った目で渡される硬貨を見送っていた。
そんな光景を白けた目をして、無言で見ていると男の方が視線に気付いた。
「げっ、お前!」
「……」
こちらを指差して声をあげるが、無言で目を逸らす。
遅かれ速かれ気付かれてしまうとは思っていたので、気付かれても知らぬ振りをすれば良いだけだと割り切ったのだ。
なのに、足音がコツコツと迫って来る。
「おい、無視すんじゃねえ。ケイジ・ナガサキ」
「……どちら様かな? 俺はケイジ・ナガサキなんて名前じゃないんだが?」
「嘘吐け。その紅い髪と紅い眼、しかも短槍まで持ってんだ。どこに間違える要素がある?」
素知らぬ顔をするのだが、流石にそれは厳しかった。
ここに来るまでに染め直した頭髪もまた、人物特定の判断材料とされてしまったようだ。
だが、それでも知らぬ顔をする。
「でも俺がケイジ・ナガサキだっていう証拠はないぞ」
「嘘吐けや! お前狩猟者やってたんだ、認識票があるだろ!?」
「じゃ、これで良いか?」
言いながら差し出すのは、“ラウレウス”と刻まれた下級狩猟者を表す認識票。
全く別物のそれを見て面喰らった顔を見せる男は、しかし尚も食い下がる。
「複数の認識票を持ってたのか、お前? ……じゃあこれも偽名って訳かよ」
「さぁ、どうだか」
窺う様な視線を向けられて韜晦すれば、苛立ちを隠さず舌打ちをされた。
恐らくケイジ・ナガサキの認識票も隠し持っていると思っているのだろうが、残念ながらそれはもう手元にない。
既にそれは二枚ともどこかの川で投げ捨てて来たのだから。
「あんまり関わろうとすんなよ。連れも居るんだろ?」
「関わりたくなくても、お前は警戒対象なんだ。幾ら一緒に戦ったと言っても信用できる訳無いだろ。釘刺してんだよ」
「……奇遇だな、そりゃ俺も一緒だ。疑ってんなら俺に近寄るんじゃねえ」
当たり前の事だが、彼に着いた嘘は確信をもって見破られている。
これ以上茶番を演じる意味もないと思って、肩を竦めてそう返していると、男の背後から少女も近付いて来る。
「久し振りね。ナガサキだったかしら?」
「お嬢、今のこいつはケイジ・ナガサキじゃなくて、下級狩猟者のラウレウスですよ」
天色の髪を潮風に靡かせる少女に、男は補足を加え、同時に手に持っていた俺の認識票を投げ返してくる。
それを受け取りながら改めて二人をまじまじと観察した。
少女の名はシグ。男の名はラドルス・アグリッパ。
つい一か月以上前に何者かから追撃を受けていた彼らと遭遇し、暫く行動を共にした。
タルクイニ市で別れた際に、真逆の方向に行くと言っていたのにも関わらず、今こうして目の前にいた。
その身形も、あの時からは幾分か草臥れていて、ここに来るまでの苦労を思わせる。
「で、アンタらは東の方へ何の用で? この前言ってた話と全然違うじゃねえか。もう二度と会わないと思ってたんだけどな」
「そりゃこっちも同じだ。けど、俺らにものっぴきならねえ事情ってのがあるんだよ」
「因みにその事情ってのは教えてくれんの?」
「んな訳あるか。誰が何処の馬の骨とも分からないお前なんぞに……」
唾でも吐き捨てる様に、ラドルスが睨んで来る。
その言い草はやはりシグに一定の身分を感じさせ、ここに至るまでの事情の深さを滲ませていた。
「俺が何処の馬の骨とも知れないんなら、船内じゃ俺に関わるなよ。お前らの面倒事に巻き込まれるのは御免だ。ああ、今から乗る船でも変えようかなぁ」
「……言わせておけば!」
蟀谷を痙攣させるラドルスに背を向け、その場を立ち去る。
無論、手間が掛かるので搭乗キャンセルをする訳ではない。ただ、出航まではあともう少し時間があるのだ。
折角今世で初めて目にする海なのだから、一人でこの港町をもう少し鑑賞していたい。
その為にも、今は煩い奴から少しでも距離を置きたかったのである。
「船長、行けます!」
「おし、んじゃあ出発だ! 帆を上げろ! 錨も上げろ! 係留外せ!」
一気に慌ただしくなる船内。
そのドタバタとした物音を聞きながら、俺は船の縁から海を見る。
直下の水面まではだいたい二Mほどだろうか。
漂流して来た木材の破片などを見ながら、青い海原を眺めていた。
前世でも船に乗る機会は中々無かったのだ、しかも木造の帆船ともなれば尚更経験がない初めての事である。
少し、ほんの少しだけわくわくしていたのは間違いない。
「すげえなぁ……」
ここは地図を見ればコの字の陸地に囲まれた海の上。
丁度ここは地中海のような場所だった。
しかし地図上は向こうに在る筈のアフリ大陸の岸は欠片も見えず、水平線が広がるだけ。
今し方出航したアプリアの港もぐんぐんと遠くなり、気付けば泳いで戻るのも億劫になるほどの距離が生じていた。
前の世界ではタンカーの輸送などは足が遅いと言われていたが、あれは飛行機があった世界の基準。
こうして見ると、帆船でも十分に速いように思えて来る。
「おい坊主、海を眺めるのは勝手だけど気い付けろ。海にゃ妖魎がうじゃうじゃ居るんだぜ。呑気に覗いてるといきなり飛び出して来て引き摺り込まれるぞ」
「……妖魎? ここでも出るんですか」
「出るさ。お前さん、船旅は初めてかい? 良いか、この水域だと海賊も出る。ま、地上で起こり得る事は水上でも起こるって事だ」
下手に落ちると助けて貰えねえぞ、と船員の男は忠告すると荷物を抱えて船室へと消えていく。
船員は航行中も仕事が終わらず、その仕事量は素直に凄いと思える。
純粋に筋力や慣れの問題もあろうが、今の己の力では大して役に立たない事は容易に想像できた。
船が揺れるので積み荷のほぼ全ては完全に固定されているものの、舵取りや帆の管理、監視台からの周囲の警戒。
商船に乗せて貰ったので客員は少ないが、その分船員が多く、その仕事ぶりが際立つ。
「……」
ずっとここに居ても邪魔だろうか。
齷齪と働く船員を見てそう思い、重い足取りで割り当てられた船室へ向かう。
正直、船室に行くのは気が引ける。
木造の室内には特に時間を潰せるものは何も無くて、それどころか虱や鼠が居るのだ。
ノックする事もなく船室の扉を開けば、そこには薄暗い室内で五人の同乗者の姿があった。
当然その中にはシグとラドルスの姿もある訳で。
そんな彼らの視線を一身に受けながら、空いているスペースに腰を下ろす。
だがそれは例の二人の隣であり、彼らからの視線が突き刺さった。
「おい、お嬢に近付くんじゃねえ」
「何言ってんだお前。俺もお前も金払って船に乗ってる対等な客じゃねえか。それを命令できんのは船主だけだぞ」
「黙れ。本来ならお前のような奴がお嬢と一緒にいる事だって許されねえんだ」
「そんなの、口だけなら幾らでも言えるだろ。誰もが納得する証拠を出せっての」
「……」
この会話のくだりを、以前にもやった様な気がする。
舌打ちをして黙り込むラドルスを見遣りながら、更に言葉を続けた。
「だからお前の周りだけやけに隙間が空いてたのかよ。事情なんて知らねえけど、勝手な事情を周りに押し付けんじゃねえ」
「……全く小僧の言う通りだ。おい若造、俺らだって寛いでも良いだろうに?」
唐突に男の声が割って入り、それに対して不機嫌そうな顔をしたラドルスが睨み付ける。
「うるさい。その薄汚い恰好でお嬢に近付くな」
「アンタ、護衛か? その様子を見るに良いところの娘らしいけど……上玉じゃねえの」
同室の者の内、旅人らしい男三人が笑うが、室内唯一の小さな照明のせいで、やや不気味だった。
ただ、実際薄暗い室内でもシグの容姿が整っているのは分かる。だから三人の男からの視線も、彼女一人に集中していた。
「女が旅するなんて珍しい事もあるモンだ。なぁ路銀も必要だろ。どうだ今晩、俺らを相手にして金を稼がねえか?」
「そりゃいい! 何ならアンタの夜を二、三日纏めて買い取るぜ?」
「おい小僧、お前もどうだ? 溜まってるだろ?」
「……いや、止めとく」
こう言った手合いは何処にでも湧いて来るのだろう。
タルクイニ市に滞在した際も碌でもない連中と遭遇して、ラドルスがブチ切れたのがまだ記憶に新しい。
そのせいで色々と大変だったのだが、今も丁度、彼が暴走する寸前である。
「なぁ、おい」
「何?」
ここでも揉め事を起こすのかと、呆れの気持ちを込めながら少女――シグに声を掛けた。
彼女も話の内容を察しているのか、少しうんざりした顔をしていたが、だからと言って言うべきことは言っておく。
「俺が外で海見てる間にどうしてこんな険悪な空気になってんだよ? お前コイツの主人だろ? 自重させろっての」
「無理よ。散々言ってこれなんだもの。私の為~とか言ってずっと目を光らせてるのよ?」
「そりゃまぁ何とも、お疲れ様」
どこか諦めた様な目をするシグに、返せる言葉はそれだけだった。
「その様子じゃ、行く先々で問題起こしてる?」
「……やっぱり分かる? 流石にタルクイニの時ほどのは無いけど、結構面倒事は多いわね」
頭痛でもするのか、頭を抱えながら彼女は溜息を吐いた。
それだけでも苦労が滲んでいる気がして、少しばかり同情を覚えなくもなかったけれど、そこでラドルスが首を巡らせて反論した。
「それはお嬢が顔を隠してくれないからでしょ!?」
「……だ、そうだけど?」
「仕方ないでしょ、顔隠すと暑苦しいし」
「いやお前も大概じゃねえか」
相互に馬鹿で、相互に苦労しているらしい。
と言うか、ラドルスが母熊のように獰猛である原因はシグ自身である様にしか思えない。
今まで散々追われていたらしいが、このような調子で良くも無事に逃げ果せたものである。
呆れ半分、感心半分にそんな事を思っている間にも、ラドルスと男たちの会話は険悪になっていく。
「何だよ、少しくらいは良いだろ? そんな別嬪なんだ、若い内に色々やっといた方が良いんじゃねえの? 年取ったら見向きもされなくなるぞ?」
「下がれ下郎。身の程を弁えろっての。叩きのめすぞ?」
「へぇ、そりゃ大きく出たな。言っとくけど俺らは三人とも狩猟者だぜ? 傭兵として働いた事もある、それをお前一人で相手にするってか?」
数の利を恃んでか、三人の男達は一様に自信のある、かつ下卑た笑いを浮かべ、ラドルスとシグを見ていた。
その態度のせいで傍から見ていても分かるほど、ラドルスの表情が険しくなっていく。
「実力ってのはある程度振舞いに出るモンだ。で、お前らを見る限り実力は大した事もないだろ? 大方、下級狩猟者で何年も燻ぶってると見た」
「なっ……!」
小馬鹿にしたような喋り方で、彼は顎を撫でながら指摘すれば、男たちは一気に色めき立った。
恐らく図星だったのだろう。殺気を漲らせながら、彼らはラドルスを睨みつけていた。
「言っとくけど、お前らの実力じゃそこに居るガキにも勝てやしねえと思うぜ。三人がかりでもな。無論、尚更俺になんて勝てる訳もねえ」
「……言ってくれんじゃねえか」
小さな照明があるだけの薄暗い室内で、鈍色の光が煌めく。
挑発に耐え兼ねた男たちが武器をチラつかせ、本格的に圧力を掛けて来たのである。
一方、それを認めたラドルスは不敵に笑い、腰を低く落としていた。
以前も見たが、彼の臨戦態勢である。
武力衝突秒読みと言ったところだろうか。
「……派手に壊すのは止めてくれよ。俺らの寝床でもあるんだからな」
もはや止めどが無い。そう判断して、無駄だろうけれど忠告しながら退出する。
もう一度外に出て海でも眺めよう。現実逃避だ。巻き込まれたりしても堪ったものでは無い。
そう思って外から扉を閉めようとしたら、それを色白く細い手が止めに入っていた。
「……私も行く」
「あ、おい待て小娘!」
「行かせる訳ねえだろが!?」
「――なっ、テメエこのッ!!」
シグが室外に出ようとしたことで、どうやらその瞬間には張り詰めていた糸が切れたらしい。
彼女が出ると同時に慌てて扉を強く締めると、中で行われているであろう乱闘の音が壁越しに聞こえて来る。
恐らく、喧嘩とも呼べない、一方的なラドルスのリンチに様変わりしていると思われるが、そんなスプラッタな光景を見たいとは思わなかった。
そうしてくぐもった悲鳴を置き去りにしてスタスタと甲板上に出れば、その後ろをシグが付いて来る。
「……何だよ?」
「何だっていいでしょ。私も海を眺めたいの」
怪訝そうな顔をして訊ねれば、彼女はバツの悪そうな表情で答えるとそのまま歩き出した。
俺を置き去りにして数歩進み、そこで脚を止めると振り返って言う。
「アンタも海、見るんでしょ? 行かないの?」
「うん? あ、ああ」
どのような意図があるのか。
一体どうしたのだろうと思いながら、彼女の背を追う。
「……」
「……」
無言が気まずい。
それを気にしない為にも、ひたすらに顔を船の外へ向けていた。
縁に手を掛け、寄り掛かりながら海を眺める。
少し船室に引っ込んだ間に出発した港は更に遠退き、親指ほどの大きさしかない。
それ以外の方向を見渡せば、波立つ青色しかなかった。
途中で一つの港に寄るらしいが、それもまだ先だと聞く。
暫くはこの青い世界が広がっている事だろう。
「……」
「……」
それにしてもこの少女、いつまで俺の隣に立って海を眺めているのだろう。
気にしていると思われるのも癪だし、目が合ったら気まずいので敢えて視線を向けておらず、何をやろうとして居るのかは分からない。
何も無いのならば早く立ち退いて欲しいものだが、余り話さない彼女が理由もなくここに居るとは考え辛かった。
だとすれば、目的は一体何だと言うのか。
気付かれないようにチラチラと、顔の向きはそのままに限界まで目を眇めていた。
「……さっきから何こっちを見てるの?」
「はぁ? いや何の事?」
「しらばっくれないで。そのくらいの視線なら気付くよ。そうじゃなきゃ今まで生き延びられないもの」
そう言われては白を切るにも限界を感じ、首を巡らせてシグを見遣る。
彼女はこちらが顔を向けるのを待っていたのか、既に向き直って居り、その天色の瞳に俺の姿が映っていた。
当然至近距離で彼女の姿を見る事になるのだが、明るい日中であるお陰でその容貌は細部まで良く分かる。
やはりその顔立ちは綺麗で気品を感じさせ、生まれが地位のある事を感じさせるものだった。
一方で俺が少しだけ見惚れている事を知りもしないであろう彼女は、真剣な表情で出し抜けに告げる。
「今までの事、詫びさせて貰うね。ごめんなさい」
「……詫び? 何の?」
「察しが悪いわね。タルクイニ市での出来事や、その前の出来事も含めて、私達の事情に巻き込んじゃったでしょ? 私だって全く負い目を感じなかった訳じゃ無いのよ」
躊躇いがちに伏せられた彼女の眼は、何を視ているのだろう。
それも気になるが、何よりいつも澄ました顔をしているシグが珍しくて、思わず呟く。
「……雪が降りそうならそう言ってくれれば良いのに」
「そうじゃない! 本心から謝ってるんだ!」
捻くれた物の見方しか出来ないのか、と声を荒げた彼女に睨まれる。
それを聞いていた船員が「痴話喧嘩か?」と冷やかし混じりに視線を向けて来るものの、シグからの無言の圧力を感じて退散して行った。
「お前も律儀だな。別に俺は気にしちゃいない。人を利用するのは悪い手じゃないからな。全く思うところが無いってんじゃないけど、理解してるし割り切ってる」
「それは関係ない。私の気が済まないのよ。ま、アンタが良いって言うなら、この船旅で何かあったらまた盾にでもさせて貰うわ」
「ふざけんな。今度は俺がお前らを盾にする番だっての」
思わず口端を緩めながらそう切り返すと、シグもまた相好を崩していた。
それを見て、この不器用さを感じさせる少女の姿が誰かと重なった様な気が、一瞬だけした。
だが、一瞬だけだ。
誰と似ているのかも、その一瞬の内で霧散してしまい、はっきりと形になる前に分からなくなってしまった。
咄嗟に出てこないのだ、恐らく大した事でも無いのだろう。
この懐かしさも――。
「お嬢! 何処ですかお嬢!? ……っと、ここに居ましたか」
「ラドルス、もう部屋の方は良いの?」
「当然です! 全部片づけ終わりました! 船員に頼んであの三人は運んでもらったんで、かなりスッキリしましたよ!」
満足そうに、充実した笑みを浮かべるラドルスに、シグは微かに頷いて返事とした。
彼は主人のその首肯一つで満足したのか、さっぱりした笑みと共に提案する。
「それじゃ部屋に戻りましょう、余り潮風に当たっていてお体に障ってもいけません。何より、そんなのと一緒ではどんな目に遭うか分かったものでも無いですし」
「……お前みたいな過保護な従者を持つシグが可哀想だな」
「あ? んだとクソガキが!? それともお前もあの三人みたいになりてえのか?」
一気に声のトーンを下げた彼の親指が、その背後を指差す。
それに従って視線を向ければ、見すぼらしいまでにボコボコにされた三人の男が、船のマストに吊るされていた。
「色々やり過ぎじゃない、ラドルス?」
「お嬢を愚弄したんです、当然の報いって奴ですよ。寧ろこれでも温いくらいですからね」
鼻息も荒く、まだ不完全燃焼である事を示す様に憎々しそうな目を男たちに向けていた。
それを見た船員の何人かが引き攣った顔をして船室に引っ込んでいるが、殺気を向けられている三人組は気絶しているのかピクリとも動く気配はない。
そっちの方が連中にとっては幸せなのだろうなと思いながら海へと再び視線を向ければ、ふとシグから視線を感じる。
「ナガサキ……いやラウレウスだっけ? アンタは船室に戻らないの? 折角ラドルスが広くしてくれたのに」
「ああ、船室に居てもやる事が無いんでね。もう少し海を見てる」
「……そう」
短く返事をした彼女はそのままラドルスを伴って船室へ向かう――と思ったのだが。
立ち去らずに船の縁へ寄り掛かり、頬杖を突いて同じように海を眺めていたのだった。
「お、お嬢? 何してるんですか、戻りますよ?」
「ラドルス、煩い。私だって退屈なのよ、薄暗くて何も無い船室でじっとしてるのが。だから外の景色を見たって問題無いでしょ?」
「し、しかし……」
色々と言いたい事があるのだろう。少し慌てた様子で反論を続けようとした彼に対し、辟易とした顔のシグが一言。
「私の命令が聞けないの?」
「……分かりましたよ」
たったそれだけで、ラドルスは不承不承ながらも大人しく引き下がったのである。
ただ、船室に引き返したのかと言うとそうではなく、腕を組んで船の壁に寄り掛かり、こちらに視線を向けていた。
「……おいラウレウス、お嬢に余計な事をするんじゃねえぞ」
「しねえよ。俺は暇だから海を眺めてるだけだ。寧ろお前こそ俺の邪魔すんなよ」
「何をぅ!? このガキが、冗談抜きで一回叩き潰すぞ!?」
「……うるせえ。邪魔すんなって言ったろ。俺は静かに海を眺めてたいんだっての」
中々見られない、大海原だ。それも穏やかなものともなれば、今まで目まぐるしかった生活と対極的で、自分の心まで穏やかになっていくようだった。
時間の流れがゆっくりに感じられる海上では、まるで己が抱える憂い全てが些事である様に思えて、心地が良かった――。
◆◇◆




