第一話 アンビリーバーズ③
◆◇◆
採光用に設けられた小さなアーチ状の小窓。
そこからは無数の陽光が差し込み、普通の建物ならば薄暗くなってしまう室内をより明るいものとしていた。
「……待たせたな」
こつ、と大広間に硬質の足音が響き渡る。
それらに気付いてか白い髭を蓄えた老人が振り返り、優しそうな笑みを浮かべた。
「これは殿下、数日振りに御座いますな。ご機嫌麗しゅう」
「ああ、時間を取らせてしまって悪い、総主教」
「いえいえ、こういった場は相互にとって大変重要な事に御座いますれば、手間などと思う事はありませんよ」
護衛らしい大柄な男を引き連れた青年に平身低頭する老人とは、大凡孫と祖父と言っても差し支えない程歳の差があった。
しかし、彼らの間には相当な身分差とでも言うものがあるのだろう。
老人の背後に仕える者達も皆一様に平身低頭し、殿下と呼ばれた青年に敬意を示していた。
「そちらの首尾は?」
「今のところ配下に命じて回収へ向かわせているところです。早馬も届いていませんで中間報告も叶いませんが……実績も信頼出来るものを雇いました。まず遂行してくれるものかと」
「そうか、ご苦労」
鷹揚に頷いた青年はそれだけを言うと、未だに姿勢が低いままである彼らへ楽にするよう伝える。
それを受けて姿勢を元に戻した老人は、漸くと言った様子で口を開いた。
「殿下、失礼ですがそちらの御首尾は?」
「上々だ。密偵の話だとアイツはここを目指しているらしい。仕込みは完璧だ、心配するな」
「このザカリアス、殿下の御言葉を聞いて安心致しました。重畳に御座います」
自信を持って頷く殿下――青年に、老人は安堵と共に喜びも露わにする。
だが、それよりも喜んでいたのは彼の後ろに控える壮年の男だった。
「……やっと、やっと、か。ふふ、遂に僕はあの娘を手にする事が出来る!」
「これ、プトレマイオス。殿下の御前で軽々しく口を開くでない。失礼であるぞ」
プトレマイオスと呼ばれた壮年の男は、老人に似た神官らしい身形であると言うのに、欲で塗れた顔を隠そうともしない。
弛んだ頬は口端が吊り上がっても弛んだままで、顎の肉は首と一体化して最早どこからどこまでが首なのかも分からない。
そんな彼は、蔑む様な青年や周囲の視線にも気付かず喜びを爆発させていた。
「ですが父上、僕は嬉しいのです。あの美しさを自分のモノに出来ると言う事が……」
「お前の為に手に入れようとしておる訳では無いぞ。それに、まだ手に入った訳でも無いと言うのに……申し訳御座いません、殿下。全ては私の教育が不行き届きであるが故の不徳……」
「気にするな。この程度で一々構いはしない。精々互いに最善を尽くそう。そうすることが、私にとっても貴殿らにとっても最高の結果となる筈だ」
「ええ、殿下の御心のままに」
笑顔で交わされる会話はそれっきり無く。
互いに無言のまま、青年が護衛と共に立ち去るのを、老人たちは鋭い眼で見送っていたのだった。
◆◇◆
ノストゥルム海。
北をアフリ大陸、南をオクキデンスの大地に、東をアナトリコン半島によって丁度コの字のように囲まれたこの海は、嵐や季節風などでも吹かない限りは穏やかなものだった。
当然そうなれば生物には棲みよく、人も海上交通を行う上で非常にやりやすい。
海上を介した交易は盛んとなり、多くの船と、人と、富が行き交う場所となる。
そしてそれだけ色々なものが集まれば、余計なものも集まる訳で。
「……なあ、何だアレ?」
「あ?」
「あそこだよ。見えるだろ、ほら」
ぼうっと海を眺めていたら、水平線に見える無数の影。
あれは一体何なのだろうと、作業中の船員を呼び止めれば、彼もまた怪訝そうな顔をして水平線を睨んでいた。
しかし、ここからでは見えるものも見えやしない。
船乗りに訊いても分からずじまいかと思いかけた丁度その時、頭上の見張り台から大声が降り注いだ。
「海賊だッ! 数は五隻、全て中型の櫂船!」
「……海賊?」
「おいおいマジかよ、こんな時に……」
心底嫌そうな顔をした船員は、尚も繰り返される報告に溜息を吐きながら船倉へ引っ込んで行った。
そんな背中を見送りながら、どうしたものかと思う。
この状況下では手伝えばいいのだろうか、それとも大人しく引っ込んでいればいいのだろうか。
いや、物見の男が言うには相手の数は五隻。
対してこちらは一隻の商船となれば、嫌がおうにも戦わざるを得ない筈だ。
やる事もないので、グングンと近付いて来る五隻を眺めながら、手に持つ槍の柄に力を込めた。
「アンタ、全然慌てないわね」
「そりゃお前も同じだろ。……アグリッパはどうした?」
不意に声を掛けられ、足音のする方へ目を向ければ、そこには落ち着き払ったシグの姿があった。
しかし、いつも一緒に居る筈のラドルス・アグリッパの姿は無い。
「ラドルスなら今、船長に抗議しに行ったわ。私に何かあったら殺すとか何とか呟いてたけど」
「船長可哀想に……止めてやれよ。ここの乗組員責めるのはお門違いだろ」
余った部屋に同乗させて貰う際に、船員からも予め説明を受けていた筈なのだ。今回の航海では護衛船を付けられず、万が一何かに攻撃されても納得して欲しい、と。
そのお陰で運賃は格安だった。その分危険が隣り合わせなのに、それを了承して乗った筈なのに、何を今更文句など言っているのだろう。
「ま、私が勝手に乗る船決めちゃったから、ラドルスが怒るのも無理はないっていうか」
「だったらお前が怒られろよ」
もっとも、それが無理だからラドルスは船員に怒っているのだろうが。
と、不毛な会話をしている間にも船は進路を変更し、迫って来る海賊船から逃げようと懸命に藻掻いていた。
しかしながら、この船は帆船。対して海賊の五隻は全て櫂船となれば、その速度は歴然としたものだった。
何より、今は風もそんなに吹いていない。
船員の幾らかが長いオールを出して漕いでいるものの、海賊船はそのオールの数も段違いとくれば、距離が縮まるのもあっという間だった。
「……船長、駄目です! 振り切れません!」
「ええい、出資者だか何だか知らんが、護衛の金をケチるからこんな事に……仕方ねえ、投降する!」
苦虫を噛み潰したような顔でそう声を上げると、先程までは動いていた無数のオールが、一気にその動きを止めた。
伴って船の動きも緩くなり、船上には諦めきった様な、重苦しくて弛緩した空気が漂う。
だが、それを掻き回す様に乱暴な足音がしたかと思えば、一人の青年が激怒した。
「何だと!? ふざけんな、お嬢が乗ってんだぞ! 今すぐ撤回しろ!」
「うるさい乗客だなッ! お前らの為に何で俺らが死ななきゃいけないんだよ! それにここで大人しくしとけば、奴隷に売られる事はあっても今すぐ死ぬ事はねえ! 運が悪かったって諦めるんだな」
「馬鹿言ってんじゃねえ! 抵抗だ! こんな所で無駄な時間食ってる場合じゃねえんだよ!」
ラドルスと船長が激しい口論を繰り広げている間にも、最初は水平線上に見えていた船が目前にまで迫り、同時にその装いも詳らかなものとなる。
彫りの深い顔立ちは西界の人々と変わらないものの、いずれも日焼けした肌の屈強な男達。
彼らはオールを持つか武器を持っており、粗末な服装もあって如何にもならず者と言った風体をしていた。
船はやはり商船より小さく、しかし乗っている人の数は明らかに多い。
荷物などを余り積まない分、人が多く積めるのだろう。しかも多くの者がオールを手に持っているので、安定した速度も出る。
それら五隻の船はあっという間に止まった商船の五方向を取り囲むと、そこで停船した。
「よぉ、諦めたか? 良い判断じゃねえか。従順な奴は嫌いじゃねえ、殺さねえで置いてやるよ」
「……そうかい。そりゃありがとな」
「どういたしまして。それじゃ、とっとと俺らが乗り込むための縄を垂らして貰おうか?」
「……」
海賊の頭目と思わしき男と、船長が言葉を交わす。
ここからではラドルスの姿が見えないが、流石に話し合いの邪魔を出来るほど自分勝手では無かったのだろう。
一方船首の方では位置関係的には船長が男を見下ろしている形のようだが、心理的にはその真逆らしかった。
何せ海賊は数が多い。皆武装し、己の優位を確信したかのように笑みを浮かべていた。
船長自身、全く何も感じない訳では無いのか、無言のまま俯き両の手を握り締めていた。
だが、それが海賊を苛つかせたのか。
「おい! 黙ってねえで早く縄を下ろせってんだ。さもなけりゃ、俺達が勝手に上がらせて貰うぜ。その際に手が滑って何人殺す事になるか分かんねえけどな」
「分かった……縄を下ろせ」
力のない言葉でそう指示が出され、海面近くまで無数の縄が垂らされる。
そこへ海賊の船が漕ぎ寄せて、一人一人上って来るのだろう。
暗い表情をした船員たちは、諦めきった様子で乗船してくるであろう海賊たちを待っていた。
その姿がどうにももどかしくて、近くに居た船員に訊ねる。
「……本当に抵抗しなくて良いんですか?」
「馬鹿、滅多な事を言うな。連中はリュビア海賊だぞ。この辺じゃ知らねえ奴はいないくらいの荒くれ者だ。下手を打てば皆殺しになる」
「そうですか……」
正直聞いた事もない。が、これだけ重苦しい空気なのだ、船乗りたちの間では有名な事らしい。
試しにシグへ目を向け無言で問うてみれば、彼女も覚えがないのか首を振っていた。
そんな遣り取りをしている間にも、海賊たちは縄を伝って続々と乗船し、商船の乗組員を睨み付けている。
「へへ、変な動きをすんじゃねえぞ? 殺されたく無きゃな」
「……分かってるよ」
「従順なガキだな。見てくれも悪くない。愛玩用の奴隷としてそれなりに売れそうだな?」
「……」
奴隷、と言う言葉に眉が反応してしまう。
その結果として今の表情は、心底嫌悪感を示している事だろう。
だが海賊の構成員はそんなものに慣れっこなのか、舌打ちだけすると今度はシグに視線を向けていた。
「こりゃ結構な上玉だな? まさに掘り出し物って奴か」
強烈な体臭を発する男が、その汚れた手で彼女の頬を撫でた。
俺がやられたなら悪態の一つでもついてしまうだろうに、彼女は軽蔑したような視線を向けるだけで、特に声を上げる事もしなかった。
というか、こんな光景を見られたらラドルスが黙っていないだろうに。
小さな溜息を吐きながらそんな事を思っていると、不意に頭上で木の握り潰される音がした。
何だろうと思って視線を上部の甲板に向ければ――そこで背筋が凍った。
「……おいおいマジかよ」
落下防止用の手摺を握り潰したラドルスの姿が、そこに在ったのだから。
その姿たるや禍々しく、太陽を背負って黒く見える影は、怪しく揺らめいていた。
「――――」
この距離からでは聞こえないが、口も動かして何か呟いている。
このままにしておけば、もうあと数十秒としないで激高したラドルスが動き出してしまうだろう。
そうなれば、逆上した海賊によって無抵抗の船員にまで被害が及びかねないのだ。
流石にそれは看過できないと、留まるように身振り手振り伝えるものの、多分俺の事が認識されていない。
「あ、悪魔だ……!」
「ひぃいい……っ」
同じようにラドルスの異変に気付いた船員が恐怖に顔を引きつらせているが、余程怖いのか制止を掛けると言う事はしてくれなかった。
もはや自分にはどうする事も出来なくて、今度は先程海賊によって軽く冷やかされた少女の方へ、目を向ける。
周りの海賊に聞こえないよう囁くような声で強く、請願する。
「おいシグ、アレを止めろ! 冗談抜きで止めてくれ!」
「無理ね。ああなったらもう止めようがないわ」
「匙を投げるな匙を! お前が指示出す立場なんだろ!? このままだとアグリッパの暴走で無関係の船員が海賊から……!」
「残念だけど、私はラドルスを止める気も無いの」
「そんな事言ってないで……」
つん、として要求を突っ撥ねられ、それでも尚食い下がろうとしたら、彼女が左手を出して制してくる。
これ以上は言うな、と言外に告げているのだろう。
その意を汲んで押し黙れば、シグは酷薄な笑みを浮かべながら告げた。
「もうラドルスは止まらない、これは決定事項よ。じゃあもう開き直って、一斉に暴れれば余計な被害者も出ないんじゃないかしら?」
「え、ちょっと……シグ、さん?」
思わず“さん”づけで呼んでしまった。
だがそうせざるを得ない程、彼女の眼は据わっていて、声は冷たかった。
「私、流石に怒ってるんだ。あそこまで薄汚い男に、頬まで触られて……ああ、どうやって叩きのめそうかな?」
「……」
止められないのはラドルスだけで無かった。シグもだったのである。
しかし船の片隅でこんな事が起こっているとは毛ほどにも思っていない海賊たちは、今日の収獲を呑気に喜んでいる。
収獲物の中にとんでもない劇物が紛れ込んでいると気付かずに、だ。
特に、今も俺達のすぐ近くで手にした硬貨を数え、喜んでいる海賊の男は不憫でならない。
何故ならその位置だと――。
「へへっ、金、金、金、こんなにあんのかよっ? こりゃ良い船を捕まえ――」
投擲された短剣が、男の喉を貫いた。
何が起きたのかも分からなかったのだろう、間抜けな顔で一瞬だけ静止した彼は、その場に崩れ落ちた。
「なっ!?」
「おい、どうした!? 大丈夫……」
近くにいた仲間が慌てふためきながら声を上げるものの、その声は唐突に巻き起こった悲鳴と轟音によって掻き消されるのだった。
「どわぁぁぁっ!?」
「ぎゃぁぁぁあっ!!」
木々の軋む音。
大きな物が一瞬で海面に叩き付けられ、沈む音。
空に打ち上がる水柱は、やがて飛沫となって辺り一帯に降り注いだ。
「――何事だッ!?」
頭目の男が慌てて音のした方へ首を巡らせるが、その途中で視界に入った物体を見て、動きを止めた。
それは、空に浮かぶ氷の塊。
そしてその物体は、丁度海賊船の一隻の頭上にあって――今まさに、落下していた。
「お、お頭ぁ……」
その船に乗っていた男の一人が縋る様な声を上げた直後、氷塊は一撃で船を押し潰していた。
一拍遅れて大きな水柱が立ち、再び辺りに塩辛い雨を降らせる。
その余りにもな光景に、海賊たちは勿論、商船の乗組員も呆然とその場に突っ立っていた。
既に、商船を取り囲んでいた五隻の内、二隻が沈められている。
ゆっくりと船上を歩きながらその光景を見ていたが、シグの手腕には驚嘆を禁じ得ない。
そしてそれは、今も俺に背を向けている男二人も同じであった。
「一気に二隻も!?」
「な、何がどうなって――!?」
「うるせえ」
俺は狼狽える二人の海賊の内、一人の胸を背後から刺し貫く。
それだけで即死だ。
一瞬で抜け殻と化した物体から槍を引き抜くと、続けざまにもう一人の振り向いた男を狙う。
「――!」
「トロいんだよ」
短く持ちながら穂先近くに片手を添え、槍の刃でその喉を切り裂く。
喉の動脈を切ったせいか一気に血が噴き出し、その返り血が僅かに服を汚す。
だがやはり、人の命を奪う事への忌避感は、もう微塵もなかった。
人殺しに慣れたのだろうな――。
以前、人を殺す事を戒めていたガイウス・ミヌキウスの顔を思い出しながら、尚も傷口から血を吹き出す男を蹴飛ばしていた。
思っていたよりも回し蹴りの威力が高かったのか、蹴り飛ばされた半生半死の男は、そのまま船外へ飛び出し落水して行った。
その間にも凄まじい勢いでラドルスが船上の海賊たちを殺して周り、シグが大氷塊で周囲の船を沈めていく。
一方の俺は船員の比較的近くに居る、船員に危害を加えそうな連中から優先的に駆除をしていた。
「船員の中に抵抗する奴が居ますぜ!」
「何? チッ……殺せ! 見せしめに二、三人殺しちまえ!」
「ひっ!?」
わざわざ縁も所縁もない船員を助けるのはお人好しが過ぎると、自分で思わなくもない。
自分には直接関係も無いのだ、彼らが死のうと生きようと自分には何の影響もないのだと、分かっても居る。
でも、死にたくないと言っている人を見捨てる事がどうしても出来ない。
「死――ねっ!?」
「あ、兄貴!? テメエ……ぐぁっ!?」
「何だよこのガキ!? 恐ろしく強えぞ!?」
前世の最期に見た世界では多くの人と己自身が、生きたいと思いながら殺されていったから。
自己本位的であろうとすればする程、あの時の事が頭を過る。
「……」
この世界ではもう、自分の為にも相手の為にも、親友とか信頼と言ったものは捨て置こうと思えたし、事実今の俺はたった一人だ。
「船上で暴れ回ってるのはガキと後もう一人だ!何としても抑えろ!」
「そんな事を言われてもっ!?」
「駄目です、ガキ一人にもう十人近くやられました!」
「馬鹿な!?」
なのに、自己本位であろうとしても心のどこかが反抗して、実行になんて移せそうになくて。
無視するどころか、手の届く範囲であればどうしても手を差し伸べてしまう。
例えば今、こうして海賊を殺し回る事で船員を救っている様に。
「ひぃいっ!? 待て、待て! 謝る、お前らを襲った事は謝るから! だから見逃し……」
「金か!? 金だろ! ほら、有り金全部出すから……」
「嫌だッ! 嫌だ! し、死にたくねぇ……」
勝手に、理不尽に命を奪われる理不尽さを理解出来てしまうから。
どうしても船員を見捨てられる程、冷徹になり切れる事は無かった――。
◆◇◆




