彼女は二段ベッドなら下に寝る派のようだ
次の週末、ボクは少し勇気を出して彼女にこう切り出した。
「ねえ…… ソファーでちゃんと眠れてる? もしよかったら…… 奈々のベッド買いに行こうか?」
彼女との間で成り立っている、なんというか、いい関係? が、こんな言葉でガタガタと崩れたんじゃ堪んないが、かといっていつまでもリビングの狭いソファーの上で寝させるわけにもいかない。なにより、そんな目に遭わせている自分に罪悪感を感じてきたのだ。だから、ボクはこのままの関係を維持したままでいいからね、という気持ちを込めて、できるだけさり気なくベッドの話題を切り出した。
「ありがとう。私なら全然かまわないよ。でももし、ペキちゃんがどうしてもそうしなきゃイヤだというなら、言う事を聞くけど」
言う事を聞く…… イヤな響きの言葉だ。もし彼女に、ボクの言う事は聞かなければならないと思わせているなら、それだけで気分が塞がる。
「そんなふうに思ってるの?」
「なにが?」
「ボクの言う事は聞かなきゃいけないとか……」
「う〜ん、どうかなぁ…… 少しはあるかも」
「なんかイヤだな」
「なんで?」
「なんでって…… 監禁してるみたいじゃん」
「出た! またペキちゃんの大袈裟話」
そう言って彼女は笑い出す。
「でもさあ、実際エコノミー症候群になっちゃって、それで病院に搬送されて、どんな生活してたんですか? ええ実は監禁されてて…… なんて訴えたりしない?」
といってお縄になる格好をしてみせる。
「監禁なんて言わないよ。軟禁とは言うかもしれないけど」
彼女はアハハと笑い出した。笑えない冗談だが、それでもボクの気持ちを忖度してくれたようで、結局、午後から家具屋さんを覗くだけは覗いてみよう、ということになった。
ニトリでもイケアでもいいとは思ったが、国道を走っているうちに思い立ち、昔、何度か家族で出かけたことのある大きな家具屋さんに車を向けた。
都心の超大型展示場とは比べ物にならないが、その家具屋さんもフロアは四つあって、かつては来店客で結構賑わっていた。ところが今は人気がまるでなく、ほぼボクらふたりの貸し切り状態。これでよく事業が成り立ってるなぁと心配になるほどだった。
ベッド売り場は三階のフロア。家具屋さんらしい無駄に広い踊り場のある階段を上がると、闇雲に並べられたベッドが見えてきた。無秩序に並んでいてどれを選べばいいか見当がつかない。結局、彼女が一番手前のワインレッドのベッドに腰をかけたから、ボクもその横に座ってマットレスの沈み具合を確かめるように、手で押してみたりした。
「おばあちゃんちのベッドは建てつけの二段ベッドなんだよ」
店のベッドにはまるで関心を示さず、彼女はいきなりそんなことを言い出した。
「えっ! あの山小屋とかで見かけるあれ?」
「そう。動かせないベッド」
「うわぁ~、なんで言ってくれないんだよぉ~ ああいうベッドに寝るの、好きでしょうがないんですけど」
ボクもそこらに並んだベッドにはすっかり興味をなくし、建てつけのベッドに空想が飛んでしまった。昔、蓼科の山荘も父さんが言っていた通り建てつけの大きな二段ベッドで、ボクと妹は、部屋に着くなり食事の時間まで、ずっと二段ベッドを上がったり下りたりして遊んだんだった。
「ああいうベッドって妙にワクワクするよね。がっしりしてて守られてる、って感じがするし、遊びながら寝転がっても良いわけだし。大きな梯子段が垂直に取り付けられてると、ちょっとジャングルジムっぽくて上ったり下りたりしたくなるしね」
彼女は優しい笑みを湛えながらボクの昔話を聞いてくれていた。
「二段ベッドは上派? 下派?」
「当然上派! 奈々は?」
彼女は口ごもって下に寝てると答えた。それなら今度はボクが上で奈々が下でいいじゃないかと言いかけて、ボクはハッと気がついた。二段ベッドを喜ぶなんて子供の頃の話で、大人になった今、彼女に寝室を想起させる話をするなんて、バカにも程がある。だけど、ついポロッと余計なひと言が口をついて出てしまった。
「もし、そのベッドのある部屋から庭のブランコや小川のせせらぎが眺められたら、きっとデジャヴュだろうな…… 」
だが、彼女はそれにはまるで反応せず、かと言って、ズラリと並べられたベッドにも興味がなさそうだった。ボクは立ち上がろうか、このまま座っていようか決断ができなくなった。
しばらくそのまま並んで座っていたが店員さんは来ない。ただの冷やかし客にしか見えていないのだろう。
「蓼科って距離的には大したことないよね。二百キロちょっとでしょ? 全然楽勝だよね」
頭の中にずっと蓼科のあの屋敷の光景が浮かんだままだったボクは、思わずこんなことを口にした。
「また行く? 夏休みにでも。ペキちゃん、夏休みはいつもどうしてるの?」
彼女がそんなふうに同意してくれたのは意外だった。
「夏休み? うちの会社は夏休みって決まってないからな。好きな時に五連休を取っていいんだけど…… あっ!」
そうだ。つい先日、甥っ子のタクトと遊ぶ約束をしたんだった。そのことを彼女にはまだ伝えてなかった。彼女はどうするだろう? どこか行く当てはあるのだろうか? それともあのお屋敷にひとりで帰るのだろうか?
「この間、甥っ子に夏休みはうちに連れてくる、って約束しちゃったんだった…… 余計なこと言ったなぁ」
「そう。じゃあ、私がいると変だね。蓼科に帰ろうかな」
「別に奈々がいても全然おかしくはないんだけどね…… 」
それは本心だ。むしろ、この際、甥っ子にはグローブでも買い与えてお茶を濁そう、なんてことも考えた。
「私さ、多分子供には怖がられると思うんだよね。怖いおねえさん、ってよく言われるし」
「そんなことはないだろ? キレイなおねえさんだから近寄りがたいって事じゃないの?」
「アハハハハ、解りやすい慰めありがとう。でも遠慮しとこうかな」
「ちょっとそれじゃ悪いよ…… とりあえず、うちのタクトくんに会ってから決めない? ふたりの相性が悪そうなら、その時はボクがいい方法を考えるから」
話しているうちにボクはやっぱり彼女と夏休みを過ごしたいと思い始めた。彼女と過ごす休暇のことを想像するだけで気分が華やぐのだ。それはちょうど色彩感のなかった部屋に小さな花を飾った時に似て、別になきゃなくてもいいのだが、あれば生活の質感をぐっと上げるもののように思われたのだ。
甥っ子はまだ小学三年生。どうにでも言いくるめられるさ、そんな気分が勝り始めた。そのことを考えているうちに、部屋のベッドをどうするかなんてことは、あっという間に意識の中から消えてなくなった。




