終焉
魔法を科学的に解析する転生ファンタジーです。
研究棟の窓の外では、夕暮れの空が赤く染まり始めていた。
キャンパスを歩く学生たちの姿が見える。
講義を終えた者たちが友人と談笑しながら帰路につく時間だ。
だが、その光景を眺める余裕は男にはなかった。
大学理学部研究棟五階。
理論物理学研究室。
散乱した論文、書き込みだらけのホワイトボード、空になったコーヒーカップ。
研究者にとっては見慣れた光景の中で、男はパソコンの画面を睨み続けていた。
名前は神崎悠真。
三十二歳。
博士課程を修了し、博士号を取得。そのまま大学に残り、助教として研究に従事している。
世間一般から見れば十分に成功した人生だったかもしれない。
だが、本人はそう思ったことがなかった。
なぜなら、自分が追い求めているものはまだ遥か彼方にあったからだ。
「……違うな」
独り言を漏らしながら数式を書き換える。
画面には複雑な計算式が並んでいた。
量子重力理論。
ブラックホール情報問題。
宇宙誕生の初期状態。
人類が未だ解き明かせていない謎。
彼が人生を捧げてきたテーマだった。
細い指がキーボードを叩く。
だが、その動きはどこかぎこちなかった。
呼吸が浅い。
胸が重い。
身体が悲鳴を上げている。
それでも手を止める気にはなれなかった。
昔からそうだった。
生まれつき身体が弱く、幼少期から入退院を繰り返した。学校より病院にいる時間の方が長かった時期もある。
運動会にはほとんど参加できなかった。
体育の授業や部活動も経験していない。
友人たちが青春を謳歌している間、自分は病室で本を読んでいた。
最初は退屈しのぎだった。
だが、ある日読んだ科学雑誌が人生を変えた。
リンゴが落ちる理由。
星が輝く理由。
宇宙が膨張している理由。
世界にはまだ解明されていない謎が無数に存在する。
その事実に心を奪われた。
身体が自由にならないなら頭を使えばいい。
走れないなら考えればいい。
そうして彼は勉学に没頭した。
高校時代には大学レベルの物理学を独学で学び、難関大学へ進学した。
もちろん順風満帆ではない。
大学時代も何度も入院した。
講義を休み、研究を中断しなければならないこともあった。
それでも諦めなかった。
病室にノートパソコンを持ち込み、点滴を受けながら論文を読んだ。
医師には何度も無理をするなと言われた。
家族にも心配された。
それでも研究だけはやめられなかった。
博士課程へ進学した時には、周囲が口々に言った。
身体が持たない。
研究の道は厳しい。
もっと負荷のかからない仕事を選ぶべきだ。
そんな言葉を何度も聞いたが、彼は進んだ。
なぜなら知りたかったからだ。
世界の仕組みを。
宇宙の真理を。
人類がまだ知らない何かを。
そのためなら、どれだけ身体が悲鳴を上げても構わなかった。
そして努力は実を結んだ。
博士号を取得し、大学に残り研究職に就いた。
論文も発表した。
国際学会にも参加した。
海外の研究者とも議論を交わした。
幼い頃に憧れた世界へ、確かに辿り着いたのだ。
だが。
それでも足りなかった。
人類の知識の海はあまりにも広大だった。
知れば知るほど、自分が何も知らないことを思い知らされる。
アインシュタイン。
ホーキング博士。
ファインマン。
歴史に名を残した天才たち。
彼らが切り開いた先には、まだ無限の未知が広がっていた。
もっと知りたい。
もっと理解したい。
もっと先へ行きたい。
その欲求だけが彼を突き動かしていた。
コンコン。
研究室の扉がノックされた。
「神崎先生、まだ残ってたんですか?」
顔を上げると、大学院生の一人が立っていた。
「もう十九時ですよ」
「ん? ほんとだ」
苦笑いしながら答えた。
「ほんとだ、じゃないですよ。今日も顔色悪いですし」
学生は呆れたように言う。
だが、その目には心配の色があった。
「病院へ行った方がいいんじゃないですか?」
「大丈夫。それに来週、予約もちゃんと入れてるし」
「先月も同じこと言ってましたよね」
「そうだったか?」
「そうですよ」
苦笑が漏れる。
学生たちは皆知っている。
この助教が病弱であることを。
そして研究となると、自分の身体を顧みないことを。
「先生、倒れたら元も子もないですよ」
「分かってる。ありがとな」
「絶対分かってないです」
学生はため息をついた。
「じゃあ先に帰ります」
「ああ、お疲れ。気を付けて帰れよ」
「先生もちゃんと帰ってくださいね」
「おう」
学生はそう言い残して、研究室を後にした。
扉が閉まり、再び静寂が訪れた。
神崎は椅子にもたれかかった。
身体が重い。
ここ数年で病状は確実に悪化していた。
医師からも警告を受けている。
無理を続ければ命に関わる。
だが、研究をやめるという選択肢はなかった。
人生そのものだったからだ。
もし健康な身体だったなら……。
もっと研究できただろう。
もっと成果を残せただろう。
もっと遠くまで行けただろう。
そんな考えが頭をよぎる。
だが、同時に思う。
それでも自分は恵まれていた。
病弱な身体でありながら大学へ進学できた。
博士号も取れた。
研究者にもなれた。
夢は叶ったのだ。
それでも。
それでもまだ足りない。
知りたいことが多すぎる。
宇宙は広すぎる。
人生は短すぎる。
彼は再び画面へ向き直った。
書きかけの論文。
まだ結論には届いていない。
だが、何かが見えそうだった。
あと少し。
あと少しだけ考えたい。
その時だった。
視界がゆがみ、平衡感覚がなくなる。
「っ……!」
息が吸えない。
胸に激しい圧迫感を感じる。
呼吸ができない。
肺が空気を受け付けない。
椅子から立ち上がろうとして失敗する。
身体が言うことを聞かない。
床へ崩れ落ちた。
「はっ……はぁ……!」
苦しい。
酸素が足りない。
視界の端が暗く染まっていく。
助けを呼ぼうとしても声が出ない。
遠くで何かが倒れる音がした。
パソコンだった。
画面には論文が映ったままになっている。
まだ終わっていない。
まだ書きたいことがある。
まだ研究したいことがある。
まだ知りたいことがある。
死。
その言葉が脳裏をよぎった。
不思議と恐怖はなかった。
あるのは未練だけだった。
もっと知りたかった。
もっと学びたかった。
もっと生きたかった。
世界はまだ謎に満ちている。
人類はまだ何も知らない。
宇宙の始まりも。
生命の本質も。
存在の意味も。
何一つ。
こんなところで終わりたくない。
終わりたく――
視界が白く染まった。
音が消える。
痛みが消える。
身体の感覚すらなくなった。
気づけば、そこは真っ白な空間だった。
上下も左右も分からない。
果てのない白。
永遠の静寂。
神崎は周囲を見回した。
死後の世界だろうか。
そんな考えが浮かんだ瞬間。
『君は人生を全うできたかい?』
どこからともなく声が響いた。
男は周囲を見渡す。
姿は見えない。
だが、確かにそこに存在していた。
「え?? 何?? だれ??」
神崎は眉をひそめる。
幻聴か?
死の間際に見る夢か。
だが、声は続いた。
『僕は創造主。君の生きた世界とは違う世界のね』
幻聴じゃない?
『幻聴じゃないよ。君に問いかけている』
「創造主?? どういう事?? 訳が分からないんだけど……」
『そうだよね。説明するよ』
その声は、こちらの動揺など気にするそぶりも見せず、淡々と話し続けた。
『君は人生を終えてここにいる。言わば君の思念体とでも言えば理解しやすいかな』
他人事のように死を告げた。
「……じゃあ俺は本当に死んだんだ……」
『そうだよ。君はあの世界では死んだことになる』
「……で、この状況は皆経験する通過儀礼??」
三途の川ってこんな軽い感じなのか、と訝しがって聞くと、声はまたも軽く答えた。
『いや、皆は経験しないかな』
「??……どういう事?」
『君の強い後悔の念が僕の興味を引いたんだ』
「興味?? じゃあイレギュラーに俺はここに連れてこられた?」
『そういう事になるね』
「なんで連れてこられた??」
『君に提案があってね』
「提案??」
何とも訳の分からない状況に困惑するが、声はお構いなしに続ける。
『僕の世界で君の人生の続きを生きてみないか?』
「俺を生き返らせるってこと??」
『ちょっと違うな』
『僕の世界に転生してもらう』
「転生??」
『そう。子供から人生をやり直すんだ』
「子供からやり直す? それじゃあ続きもくそもない。振り出しじゃないか」
『そこは便宜を図らせてもらうよ』
「どういう事?」
全くもって意味が理解できなかった。
転生?
異世界?
あまりにも荒唐無稽な話だった。
ライトノベルや漫画なら笑って読める。
だが、自分は今、その渦中にいる。
『君の今までの人生の記憶、経験は持ち越して、さらに君の希望を出来る限りかなえた状態での転生だよ』
「そもそもどんな世界に転生するんだ? 今の俺の知識が活かせる世界なのか?」
『僕の作った世界は……君に分かりやすく伝えると……』
創造主を名乗るその声は少し考え、説明を始めた。
『中世ヨーロッパのような世界だよ。科学文明は未発達だけど、魔力や魔法がその代わりを果たしている。そして、この世界には君のような人族の他にも、獣人族やエルフ族、ドワーフ族、魚人族など様々な種族が暮らしている』
いよいよおかしな話になってきた。
魔力?
魔法?
種族?
もうSF映画やゲームみたいな話で笑いが込み上げてきた。
「魔法の世界で俺の知識や経験は役に立つのか??」
詐欺電話にでも付き合っているかのような感覚で聞き返した。
『そこなんだよ』
『自分で作っておいてなんだけど、魔法が発達したせいで文明が停滞してしまっているんだ』
『そこで君の知識と経験をこの世界に浸透させてもらって、停滞した世界に刺激を与えてほしいんだ』
SF映画の内容の次は世界に刺激を与えろと?
現実離れした話に、とうとうイラつきが芽生えた。
「たった一人の人間が世界に影響を与えられる訳ないじゃないか」
少し語気を強め、詐欺師を論破するように問いただす。
『まあまあ』
『ちゃんと説明するよ』
諭すように言って、細かな説明を始めた。
この創造主は、自身の作った世界の停滞が面白くないらしい。
そこで俺を、この世界に化学や物理など新たな価値観を生み出すアクセントにしたいという。
そのために与えられるアドバンテージは惜しまないらしい。
「なるほど……」
『与えた能力を好きに使って、好きに生きてくれればいいよ』
『アレをやってくれとか、コレをしてくれとお願いするわけじゃない』
『君は根っからの探究者だろう? この世界でも、その探究心を好きなように突き詰めてくれたらそれでいい』
『その先にある変化が見られれば、僕はそれで満足なんだ』
探究心――。
その言葉に胸が揺れた。
志半ばで終わった研究。
あと一歩で届きそうだった成果。
解き明かしたかった宇宙の謎。
もし健康な身体だったなら。
結婚し、家族を持つ人生もあったのだろうか。
考え出せばキリがない。
「本当に俺の好きに生きればいいんだな? 後から難癖を付けて干渉したりすることは?」
『それは絶対に無いと約束しよう』
『僕はただの傍観者で居たいだけだからね』
しばらくの沈黙の後、神崎は答えた。
「いいだろう。その話、乗った」
どうせ一度終わった命だ。
ならば今度こそ、知りたいものを最後まで追い続けよう。
そう心に決めた。
静寂が訪れる。
やがて声は笑った。
初めて感情を含んだ笑いだった。
『ほんとに!? 良かった!! ありがとう』
白い世界に柔らかな空気が満ちた。
その瞬間、不思議と神崎の胸の中にあった後悔や焦燥が少しだけ軽くなった気がした。
これから先に待つのが希望なのか絶望なのかは分からない。
それでも――。
終わったはずの人生に、もう一度「続き」があるのなら。
その可能性を拒む理由など、彼にはなかった。
そして神崎悠真は、自らの運命を変える存在との対話を終え、新たな世界への一歩を踏み出す。
飽くなき探究心を抱えたまま終わった人生。
その続きを歩むために。
彼は新たな世界へ旅立つ覚悟を決めた。
それが、新たな人生の始まりだった。
お読みいただきありがとうございます。
魔法を科学する転生研究者の物語です。
次回もよろしくお願いします。




