「血啜りの記憶」―黒喰の記憶
―新暦五七五年・春初め 連合王国 王都ハインネル―
朝は、静かだった。
王都の空は、よく晴れている。
あまりにも。
何もなかったかのように。
アルクスは一人、部屋にいた。
椅子に座り。
机の上に置かれたものを見ている。
黒い刀、黒喰。
鞘に収まったまま。
光を吸うような色。
触れなくても分かる。
そこにあるだけで違う。
手に取る。
重さは、変わらない。
いつもと同じ。
ゆっくりと抜く。
刃が現れる。
黒い、血を吸い続けても尚、濁らない色。
欠けていない。
歪みもない。
どれだけ振るっても。
どれだけ斬っても。
変わらない。
(……変わらない)
思考が落ちる。
自分は変わった。
身体も。
仲間も。
何もかも。
だが、この刀だけは変わらない。
指で、刃に触れる。
冷たい感触は確かだ。
(……いつからだ)
ふと、思う。
(……どこで手に入れた)
記憶を辿る。
だが出てこない。
曖昧だ。
戦いの記憶はある。
振るった感覚もある。
しかし“最初”がない。
(……覚えていない)
小さく息を吐く。
不思議とは思わない。
今はそれよりも。
重要なことがある。
黒喰を鞘に戻す。
音が、小さく鳴る。
それだけで、決まる。
(……終わらせる)
二か月、その時間で。
すべてを。
◇
扉が叩かれる。
「……アル」
短い、ダガードの声。
「入るぞ」
返事を待たずに入ってくる。
視線が、すぐに刀へ向く。
「……それか」
低く言う。
アルクスは答えない。
ダガードは近づく。
少しだけ、距離を取って立つ。
「変な刀だな」
正直な感想。
「前から思ってたが」
腕を組む。
「欠けねぇし、錆びねぇ」
じっと見る。
「気味が悪い」
アルクスは、わずかに視線を落とす。
「……ああ」
それだけ。
ダガードは少しだけ鼻で笑う。
「まあいい」
「準備は進んでる」
現実に戻す声。
「場所も決まった」
「アーレがやる」
短く、必要なことだけ。
「……そうか」
アルクスは立ち上がる。
迷いはない。
ダガードはその顔を見る。
一瞬だけ。
何か言いかけて。
やめる。
代わりに。
「……死ぬなよ」
ぶっきらぼうに言う。
それだけ。
アルクスは答えない。
ただ、わずかに頷く。
◇
昼。
王都はいつも通りだった。
人が行き交い。
声があり、笑いがある。
何も変わらない。
その中で、アルクスは歩く。
ジュナの姿が見える。
遠く、仲間と話している。
笑っている。
少しだけ、無理をしている。
分かるが、近づかない。
足を止めない。
(……戻れない)
その距離を。
埋めることはしない。
◇
夕方。
空が赤く染まる。
長い影が伸びる。
その中で。
準備は進む。
術式。
配置。
すべてが整っていく。
誰も、多くは語らない。
その必要がない。
分かっている。
これが何を意味するか。
◇
夜。
黒喰が、そこにある。
静かに。
ただ、そこに。
変わらず。
(……終われない)




