第4話:慟哭の帰路
第4話:慟哭の帰路
1
松井浩亮が、その知らせを聞いたのは、日本への送還準備を整えていたソウルの下宿先だった。
古いラジオから流れるニュースの音声。そして、パク刑事からの最後の手紙。
「あの青年——イ・ジヌの死刑が今朝、執行された」
松井の指先から、航空券が静かに床へ落ちた。
自首という名の拷問。捏造された証拠。そして、地元の有力者チョ・テシンの身代わりとして差し出された、言葉も満足に発せられない純朴な青年の命。
法が人を守るのではなく、権力を守るための「処刑台」として機能した事実に、松井は激しい嘔吐感を覚えた。
「……正義なんて、どこにもなかった」
窓の外には、冬を迎えようとするソウルの灰色い空が広がっている。
松井が必死に追いかけた「赤いボタン」も、あの不思議な少年の証言も、すべては国家の安寧という名の大義名分の前に、塵のように掃き捨てられたのだ。
2
金浦空港へと向かう車中、パク刑事が運転する車内は重苦しい沈黙に支配されていた。
パクは一度も松井と目を合わせようとはしなかった。ただ、空港の出発ロビーに着いたとき、彼は松井のコートのポケットに、小さな包みを押し込んだ。
「……マツイ。お前は日本に帰れ。そして、この国のことは忘れろ。お前のような綺麗な目をした刑事には、ここは毒が強すぎる」
「パクさん。僕は忘れません。あの青年の震える声も、チョ・テシンのあの冷笑も。……あいつは、まだ生きている。今もどこかで、次の犠牲者を物色しているはずだ」
松井の言葉に、パクは悲しげな微笑を浮かべた。
「時効という言葉を知っているか? あと数年もすれば、あの男の罪は神様以外、誰も裁けなくなる。それがこの世のルールだ」
松井は何も答えず、ゲートへと向かった。
背後で、パクが小さく「すまなかった」と呟いた気がしたが、それは喧騒にかき消された。
3
搭乗した飛行機の窓から、遠ざかっていく朝鮮半島を見つめる。
松井はパクから渡された包みを開けた。中に入っていたのは、紛失したはずの、あの「赤いボタン」だった。
裏側には、パクの荒い筆跡でメモが添えられていた。
『これは、俺のせめてもの贖罪だ。いつか、お前がこれを使える日が来ることを、地獄で祈っている。』
松井はその小さなプラスチックの塊を、壊れるほど強く握りしめた。
チョ・テシン。そして、その背後で糸を引く「井戸」の闇。
1980年代の韓国で、一人の新人刑事が得たのは、輝かしい勲章ではなく、一生消えることのない「敗北」という名の刻印だった。
「……時効が来ようと、髪が白くなろうと。俺はお前を逃さない」
松井の頬を、一筋の涙が伝い、赤いボタンの上に落ちた。
4
成田空港に降り立った松井を待っていたのは、日本の秋の、穏やかで退屈な風景だった。
しかし、松井の耳の奥では、今もあの農村に流れていたラジオのバラード曲が鳴り止まない。
彼は警察庁への帰任報告を済ませると、その足で文房具店へ向かい、一冊の真っ黒な表紙のノートを買った。
その一ページ目に、彼は大きくこう記した。
『未解決事件捜査資料:チョ・テシン、および八つ足村連続殺人。』
松井浩亮、24歳。
彼の本当の「刑事」としての人生は、この絶望の帰国から始まった。




