第3話:見えない壁と泥の迷宮
1. 拒絶の咆哮
松井浩亮の確信は、確固たる殺意に近いものへと変わっていた。あの黒瓦の屋敷に住むチョ・テシン。彼のカーディガンの綻びと、現場に残された赤いボタン。それらはパズルの最後のピースとして、完璧に合致していた。
しかし、捜査本部に駆け込んだ松井を待っていたのは、賞賛の声ではなく、灰皿が机に叩きつけられる凄まじい破壊音と、冷徹な沈黙だった。
「貴様、自分が誰に泥を塗ろうとしているのか分かっているのか!」
捜査本部長のキムが、吸い殻の詰まった重厚な灰皿を机に叩きつけた。火の粉が舞い、松井の頬をかすめる。
「チョ氏は、この京畿道で知らぬ者のない慈善家だ。ソウルの上層部や安企部とも太いパイプを持っている。そんな名士を、出処不明のボタン一つで疑うなど、国家に対する利敵行為に等しいぞ!」
「ですが、ボタンの欠落と、あの少年の証言が一致しています。物理的な証拠が――」
「少年の証言だと? あの駄菓子屋の孫は、脳を患っていると村じゅうの笑い草だ。そんな、現世と夢の区別もつかん子供の戯言を信じて、我が国の名士を辱めるつもりか! マツイ、貴様はやはり『異邦人』だ。この国の秩序というものが、一ミリも理解できていない」
松井は、部屋の隅で黙って煙草を吹かしているパク刑事の顔を見た。だが、パクは視線を合わせようとはせず、苦々しげに天井を見上げていた。警察組織という名の、高く、分厚く、底なしに濁った壁が、松井の前に立ち塞がっていた。
2. 包囲網
翌日から、松井への妨害は血の通わない暴力となって襲いかかった。
彼が独自にチョのアリバイを調べようと農家を回っても、村人たちは松井の姿を見るなり、まるで疫病神を避けるように家の中に逃げ込み、門を固く閉ざした。
「警察には何も喋るなと、村長から厳命があったんだ。命が惜しければ、さっさと日本へ帰れ」
一人の老人が、震える声でそれだけを吐き捨て、松井の足元に唾を吐いた。
孤立を深める松井を嘲笑うかのように、決定的な事態が起きる。署内に保管していたはずの最重要証拠――あの赤いボタンが、証拠品袋の中から消えていたのだ。
「紛失したんだろう。管理が杜撰んだよ、島国のエリート様は」
同僚の刑事たちは、隠そうともしない嘲笑を浮かべ、松井を透明人間のように扱い始めた。
その夜、松井が宿舎の荒れた畳に座り込んでいると、一通の無記名の封筒がドアの隙間から滑り込んできた。中には、粗い白黒写真が一枚。それは昨夜、松井が暗闇に紛れてチョの屋敷を監視していた際の後ろ姿だった。裏面には、新聞の文字を切り抜いた歪なメッセージが躍っていた。
『これ以上嗅ぎ回るなら、貴様の国へ帰る体はなくなると思え。』
監視されている。それも、警察内部の人間によって。
3. 井戸の底の密約
追い詰められた松井は、激しく叩きつける雨の中、再びあの古い井戸の跡へと向かった。そこには、あの不思議な少年が、傘も差さずにずぶ濡れのまま佇んでいた。
「……君、またここにいるのか。風邪をひくぞ」
松井が近づくと、少年は細い指で井戸の暗い底を指差した。
「あのおじさん、さっきもここに来てたよ。今度は、もっと大きなボタンを持ってた。赤いんじゃなくて、黒い、真珠みたいにキラキラしたやつ。おじさんね、次にここに座らせる“席”を探してるんだって。でも、席の数が足りないって、怒るんだ」
松井の背筋に、氷柱を突っ込まれたような衝撃が走った。昨日、隣の村で三人目の犠牲者が発見されたという無線が入っていた。まだ詳細は極秘のはずだが、被害者の冬用コートには、確かに大粒の黒真珠のようなボタンが並んでいたはずだ。
「少年、それは本当か! チョがここにいたのか?」
「うん。でも、おじさんは一人じゃなかった。『警察の友達』と一緒に笑いながら、このの中に何かを捨ててたよ」
チョ・テシンは単独犯ではない。警察組織そのものが、彼の快楽殺人の観客であり、共犯者だったのだ。その時、背後の竹林がザワリと揺れた。
「誰だ!」
松井が懐中電灯を向けると、そこには雨に濡れそぼったパク刑事が立っていた。その手には、制式支給品の回転式拳銃が握られている。だが、松井の鋭い目は、パクのトレンチコートの奥、もう一丁の、密輸されたソ連製の鉄塊――トカレフが隠されているのを見逃さなかった。
「……パクさん、あなたまで……あいつの犬になったんですか?」
パクは引き金を引かない。ただ、銃口を松井に向けたまま、背後の闇の気配を窺うように視線を鋭く走らせた。その闇の奥で、本部長の息のかかった別の足音が、舌打ちと共に遠ざかっていくのが聞こえた。パクは松井を追手から匿うために、あえてここに先回りしていたのだ。パクは銃口を下げぬまま、地を親うような小声で速射した。
「マツイ。この国には、掘り返してはいけない土があると言っただろう。お前は真っ直ぐすぎる。真っ直ぐな木は、風が吹けば最初にへし折られるんだ。……追われてるぞ、バカ野郎。早く日本へ消えろ」
雨脚が強まり、視界を白く塗り潰していく。少年の姿は、いつの間にか霧の彼方へ消えていた。その時、遠くから複数のパトカーのサイレンが、狂ったように鳴り響いた。
「パク班長! 本部長が呼んでいる! 犯人が捕まった、自首だ!」
パクはゆっくりと銃をホルスターに戻した。
「……命拾いしたな、マツイ。だがな、これがこの街の、この国の『真実』だ。よく見ておけ」
4. 偽りの幕切れ
署に連れ戻された松井の前に座らされていたのは、チョ・テシンではなかった。そこにいたのは、村の掃除をいつも手伝っていた、知的障害を持つ心優しい青年だった。彼の顔は拳で殴り飛ばされたように無残に腫れ上がり、目の前には無理やり書かされたであろう、血の手形がついた供述書が置かれていた。
「俺がやりました……俺が、あのお姉さんたちを……」
青年の虚ろな声が、殺風景な取調室に空虚に響く。彼らは真実など欲していない。ただ、社会を納得させるための、書類上の合意さえあればそれでいいのだ。
その廊下で、チョ・テシンは本部長と和やかに握手を交わしていた。
「いやあ、迅速な解決だ。これで村も安心ですな、本部長」
「チョ氏の協力があってこそですよ。ははは」
チョは悠然と警察署を後にしようとし、立ち尽くす松井の横を通り過ぎる瞬間、その耳元に毒を流し込むように囁いた。
「研修生さん。身代わりなんてものは、泥をこねればいくらでも作れるんだよ。書類がすべてだ。……日本人は、少し賢くなりすぎたようだね」
松井は、握りしめた拳から血が滲み出していることに気づかなかった。赤いボタンは証拠の海に沈められ、真実もまた、権力という名の泥の中に埋め殺された。これが、松井浩亮が刑事として最初に味わった、一生消えることのない敗北の味だった。
降り続く雨は、すべてを洗い流すかのように、ただ冷たく、八つ足村を濡らし続けていた。




