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そしてまた誰もいなくなった-松井浩亮の事件簿-  作者: 水前寺鯉太郎
第一部:農村連続殺人事件

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第2話:赤いボタンと泥濘の聞き込み

1. 遺言としての色彩

 指先に乗るほど小さな、直径一センチのプラスチック片。それは警察署の薄暗い仮眠室で、安っぽい電球の光を反射して、凝固した血のような鈍い輝きを放っていた。 


 松井浩亮は、その証拠品袋を食い入るように見つめていた。鑑識のパクは「現場のゴミに執着するな」と吐き捨てたが、松井にはどうしても、被害者の女性が絶命の間際に、最後の爪を立てて毟り取った拒絶の痕跡のように思えてならなかった。 


 翌朝、松井は目の下に隈を作ったまま、パク班長に食い下がった。


「班長、このボタンと同じものがついた服を、村じゅう探すべきです。この質感、安価な既製品……作業着の一部かもしれません」


 パクは呆れたように鼻を鳴らし、吸い殻の山が築かれた灰皿を横にどけて、デスクに泥だらけの脚を乗せた。


「マツイ、ここは管理の行き届いた東京じゃない。この村の人間は皆、同じような市場の服を着て、同じような泥にまみれて生きてるんだ。だがな、この国じゃあ、そんな実体のある証拠なんてものは、上層部や安企部の胸三寸でいくらでも書類ごと消える。それよりも、近隣の出所者リストを洗え。暴力の味を覚えた獣を追う方が先だ」


「あの日、現場の遺体は、服が不自然なほど丁寧に結ばれていました」


 松井の声が熱を帯びる。 


「これは衝動的な暴行ではありません。執拗な儀式の跡です。犯人は、この土地のルールを知り尽くした、意外にも我々のすぐ近くにいる人間のはずです」


 沈黙が流れた。パクは松井の瞳の奥にある正義という名の厄介な光を認め、苦々しげに煙草の煙を吐き出した。


「勝手にしろ。ただし、言葉も通じない新米が一人で歩き回って、不審者として通報されるなよ。俺は知らんぞ」


2. 拒絶のあぜ道

 松井は、右手に赤いボタンの入った袋を、左手には手垢で汚れた韓国語辞書を握りしめ、秋の冷たい風が吹き抜ける八つ足村へと繰り出した。

 一軒、また一軒と農家を回る。


「すみません、このボタン……これと同じ服を、持っていませんか?」


 絞り出すような、不自然なアクセントの韓国語。返ってくるのは、石を投げつけるような冷ややかな視線か、犬が何をしに来たという忌々しそうな罵声だけだった。当時の農民にとって、警察は市民を守る盾ではなく、ある日突然やってきて家族を連れ去り、取調室で悲鳴を上げさせる暴力の化身だった。


 泥濘のあぜ道を歩き続け、松井の革靴はもはや元の色が分からないほどに、この土地の黒い泥に染まっていた。数時間が過ぎ、西の空が不吉な橙色に染まり始めた頃。松井は村の外れ、背後に鬱蒼とした竹藪を背負った、一軒の古びた駄菓子屋に辿り着いた。


 店の前の石段に、一人の少年が座っていた。少年は、ひび割れたバケツに入れられたサンショウウオの卵を、棒切れで黙々と突いていた。その瞳は、十歳という年齢には不釣り合いなほどに乾き、すべてを諦めたような静けさを湛えている。


「……こんにちは」


 松井が声をかけると、少年はゆっくりと首を動かした。松井は祈るような気持ちで、例の透明な袋を差し出した。


3. 異界の証言

「あ……それ、知ってる」


 少年の声は、枯れ葉が擦れるような乾いた響きだった。松井の心臓が、肋骨の内側を激しく叩いた。


「本当に? どこで見たんだ。思い出してくれ」


「村の学校の、隣の家。あそこのおじさん。この間、そのボタンがついたカーディガンを着て、井戸のそばに立ってた。……でも、今はもうついてないかも」


「井戸のそばに? 何をしていたんだ」


 少年の視線が、再びバケツの中のドロドロとした塊へと戻る。


「……何かを数えてたんだ。一、二、三って。まだ席が足りない、まだ足りないって、井戸の底を覗いて怒ってたんだ」


 松井が少年の名前を尋ねようとした瞬間、店の奥から骨張った手が出てきて、少年の肩を乱暴に抱き寄せた。老婆だった。その目は、松井という人間を見ているのではなく、松井の背後に広がる目に見えない巨大な闇を恐れているようだった。


「日本人さん、うちの子を怖がらせないどくれ。この子は……少しばかり、余計なものが見えすぎるんだ。早くお帰り。夜が来ると、神様の通り道が閉まってしまうよ」


4. 綻びと夕焼け

 松井は、少年が指し示した学校の隣へと急いだ。そこには、周囲の貧しい農家とは一線を画す、立派な黒瓦の屋根の邸宅がそびえていた。この土地を代々治めてきた地主の家系。村の経済を握る絶対的な権力者の住処だ。


 門の前に立った松井の前に、一人の男が姿を現した。身なりの整った、三十代半ばの男。整えられた髪と、眼鏡の奥で冷徹に光る瞳。その顔には、驚くほど感情の起伏というものが欠落していた。まるで精巧に作られた無機質な能面のように、何を考えているのかが全く読めない。男は、泥だらけの松井を、道端の汚物でも見るかのような目で見下ろした。


「警察の方が、何の用ですかな。ここは日本の大使館ではありませんよ」


 男の口調は慇懃無礼だった。だが、松井の視線はすでに、男が羽織っている上質なウールのカーディガンに釘付けになっていた。胸元の一番下。そこにあるべきはずのボタンが、一つだけ欠落している。その周囲の糸は、鋭い力が加わった証拠に、不自然に引きちぎられ、赤黒い綻びを晒していた。


「そのカーディガン……ボタンを失くされたのですか?」


 松井の声が、自身の緊張で低く震える。男はわずかに眉を動かし、欠けたボタンの跡をなぞるように触れた。そして、その無機質な顔のまま、薄く、凍てつくような微笑を浮かべた。


「ええ、昨夜の雨の中、散歩をしていた時にね。どこか不吉な枝にでも引っ掛けたらしい。……それが何か、事件と関係あるのですかな? 私はその場所と、対価を支払って正当な取引をしただけですよ。書類がすべてだ」


 松井は確信した。この男の指が、あの若い女性の喉の奥にススキをねじ込み、手足を呪術的な結び目で縛り上げたのだ。だが、確信は証拠ではない。この時代の韓国で、村の絶対的な権力者を、一個のボタンだけで拘束することは不可能に近い。


「いえ……失礼しました」 


 松井は絞り出すように言い、深く一礼した。背を向けて歩き出した松井の掌で、証拠品袋の中の赤いボタンが、まるで生き物のように熱を帯びて拍動しているのを感じた。背後から、男の低い、しかし地を這うような声が届いた。


「研修生さん。この村には、触れてはいけない古い神様の通り道がある。迷子になって……取り返しのつかない穴に落ちないよう、気をつけることだ」


 松井は振り返らなかった。空には、眼球を刺すような真っ赤な夕焼けが広がっていた。それはまるで、犠牲者の鮮血が空一面に滲み出し、明日への絶望を予言しているかのようだった。翌朝、三人目の犠牲者が発見されるまで、あと十二時間。

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