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そしてまた誰もいなくなった-松井浩亮の事件簿-  作者: 水前寺鯉太郎
第一部:農村連続殺人事件

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3/11

第3話:見えない壁と泥の迷宮

第3話:見えない壁と泥の迷宮

1

松井は確信していた。あの瓦屋根の屋敷に住む地主の息子、チョ・テシンこそが、赤いボタンの持ち主であり、被害者の口に野草を詰め込んだ狂人であると。

しかし、捜査本部に報告した松井を待っていたのは、賞賛ではなく、凍りつくような沈黙と怒号だった。

「貴様、自分が何を言っているのか分かっているのか!」

捜査本部長のキムが、灰皿を叩きつけた。

「チョ氏は、この地域で多額の寄付を行っている慈善家だ。ソウルの上層部とも繋がっている。そんな人物を、ボタン一つで疑うなど、国家に対する反逆と同じだぞ!」

「ですが、ボタンの欠落と、あの少年の証言が……」

「少年の証言だと? あの駄菓子屋の孫は、精神を病んでいると村でも評判だ。そんな子供の戯言を信じて、名士を辱めるつもりか。マツイ、貴様はやはり『異邦人』だ。この国の秩序が分かっていない」

松井はパク刑事の顔を見た。パクは苦々しげに顔を背け、黙って煙草を吹かしていた。警察組織という名の巨大な壁が、松井の前に立ち塞がっていた。

2

翌日から、松井への「妨害」は露骨なものとなった。

松井が独自にチョのアリバイを調べようと近隣の住民に聞き込みを行っても、住民たちは松井の姿を見るなり家の中に逃げ込み、門を固く閉ざした。

「警察に何も話すなと、村長からお達しがあったんだ。命が惜しければあっちへ行け」

一人の老人が、震える声でそれだけを告げた。

さらに、松井が署内に保管していたはずの証拠品――あの「赤いボタン」が、証拠品袋の中から消えていた。

「紛失したんだろう。管理が杜撰なんだよ、新米は」

同僚の刑事たちはせせら笑い、松井を孤立させた。

そんな中、松井の宿舎の部屋に、一通の無記名の封筒が投げ込まれた。

中には、一枚の白黒写真。それは、松井が昨夜、こっそりとチョの屋敷を遠くから監視していた時の姿だった。

『これ以上嗅ぎ回るなら、貴様の国へ帰る体はなくなると思え。』

文字ではなく、新聞の切り抜きを貼り合わせた警告文。それは警察内部の人間か、あるいはチョの手の者が、常に松井を監視していることを意味していた。

3

追い詰められた松井は、雨の降る夜、再びあの古い井戸の跡へと向かった。

そこには、駄菓子屋にいたあの不思議な少年が、傘も差さずに佇んでいた。

「……君、またここにいるのか」

松井が声をかけると、少年は静かに井戸の底を指差した。

「あのおじさん、さっきもここに来てたよ。今度は、もっと大きなボタンを持ってた。赤いんじゃなくて、黒い、キラキラしたやつ」

「黒いボタン……?」

松井はハッとした。昨日、隣の村で三人目の被害者が見つかったという無線が入っていた。まだ詳細は伏せられているはずだが、その被害者の服は、黒い真珠のようなボタンがついたコートだったはずだ。

「少年、それは本当か! チョがここにいたのか?」

「うん。でも、おじさんは『警察の友達』と一緒にいたよ。笑いながら、この中に何かを捨ててた」

松井の血の気が引いた。チョは単独犯ではない。あるいは、警察そのものが彼の共犯者であり、証拠を隠滅する手助けをしている。

4

その時、背後の藪がガサリと揺れた。

「誰だ!」

松井がライトを向けると、そこにはパク刑事が立っていた。

「……パクさん、あなたも……?」

パクは悲しげな目で松井を見つめ、腰の拳銃ホルダーに手をかけた。

「マツイ。この国には、掘り返してはいけない土があると言っただろう。お前は真っ直ぐすぎるんだ。真っ直ぐな木は、最初に切り倒される」

雨脚が強くなり、松井の視界を遮る。

少年の姿は、いつの間にか霧の中に消えていた。

パクの銃口が松井に向けられたその瞬間、遠くから別のパトカーのサイレンが鳴り響いた。

「パク刑事! 本部長が呼んでいる! 犯人が自首したそうだ!」

パクは一瞬、険しい表情を見せたが、ゆっくりと銃から手を離した。

「……命拾いしたな、マツイ。だがな、これがこの街の『やり方』だ。よく見ておけ」

署に連れ戻された松井の前にいたのは、チョ・テシンではなかった。

そこにいたのは、知的障害を持ち、いつも村の掃除を手伝っていた、あのおとなしい青年だった。彼の顔は無残に腫れ上がり、無理やり書かされたであろう血染めの供述書が机に置かれていた。

「俺がやりました……俺が、皆殺しました……」

青年の虚ろな声が、取調室に響く。

チョ・テシンは、本部長と握手を交わしながら、悠然と警察署を後にした。去り際、彼は松井の横を通り過ぎる瞬間、耳元でこう囁いた。

「研修生さん。身代わりは、いくらでもいるんだよ」

松井は、握りしめた拳から血が滲むのを感じた。

赤いボタンは消え、真実も泥の中に埋められた。

これが、松井浩亮が刑事として最初に味わった、癒えることのない「敗北」の記憶だった。

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