第2話:赤いボタンと泥濘の聞き込み
第2話:赤いボタンと泥濘の聞き込み
1
現場で拾い上げた「赤いボタン」。
それは、直径わずか1センチほどの、安価なプラスチック製のものだった。
松井は、警察署の仮眠室でその小さな証拠をじっと見つめていた。鑑識のパクは「現場のゴミだ」と切り捨てたが、松井にはどうしても、被害者の女性が死の間際に、最後の力を振り絞って犯人の服から毟り取った「遺言」のように思えてならなかった。
翌朝、松井はパク刑事に直訴した。
「このボタンと同じものがついた服を、村じゅう探すべきです。この安っぽさ……地元の商店か、あるいは子供服のものかもしれません」
パクは呆れたように鼻で笑い、デスクに脚を乗せた。
「マツイ、ここは東京じゃないんだ。この村の人間は皆、同じような服を着て、同じような泥にまみれて暮らしている。赤いボタンがついた服など、探せば数百着は出てくるだろう。それよりも、近隣の刑務所を出所した連中のリストを洗う方が先だ」
しかし、松井は引き下がらなかった。
「あの日、現場の遺体は、服が不自然なほど丁寧に結ばれていました。これは衝動的な暴力ではなく、歪んだ執着……儀式のようなものを感じます。犯人は、意外にも我々のすぐ近くにいるはずです」
折れたのはパクの方だった。
「勝手にしろ。ただし、言葉も通じない新米が一人で歩き回って、不審者として通報されるなよ」
2
松井は、片手に赤いボタンを、もう片手に韓国語の辞書を握りしめ、秋の冷たい風が吹き抜ける「八つ足村」を歩き始めた。
一軒、一軒、農家を回る。
「すみません、このボタンと同じ服を持っていませんか?」
覚えたての不器用な韓国語で尋ねるが、帰ってくるのは冷ややかな視線か、「警察が何をしに来た」という忌々しそうな言葉だけだった。当時の農村にとって、警察は「守ってくれる存在」ではなく、「急にやってきて人を連れ去っていく恐怖の象徴」だった。
泥だらけのあぜ道を歩き続け、松井の靴はもはや元の色が分からないほどに汚れていた。
数時間が過ぎ、日が傾き始めた頃。松井は村の外れにある、一軒の古びた駄菓子屋兼雑貨店に辿り着いた。
そこには、一人の少年が店の前の石段に座り、黙々とサンショウウオの卵をバケツに入れて眺めていた。
「……こんにちは」
松井が声をかけると、少年はゆっくりと顔を上げた。年齢は10歳くらいだろうか。その瞳は、子供らしい天真爛漫さとは無縁の、どこかすべてを見透かしたような静けさを湛えていた。
3
「あ……それ、知ってる」
少年は、松井が持っていた透明な袋の中のボタンを指差した。
松井の心臓が大きく跳ねた。
「本当に? どこで見たんだ」
「村の学校の、隣の家のおじさん。この間、そのボタンがついたカーディガンを着て、井戸のそばに立ってたよ。でも、今はもうついてないかも」
少年の言葉は淡々としていたが、松井は逃さなかった。
「井戸のそばに? 何をしていたんだ」
「……何かを、数えてた」
少年はそれ以上何も答えず、バケツの中のサンショウウオに視線を戻した。
松井は少年の名前を聞こうとしたが、奥から店主と思われる老婆が出てきて、少年の肩を抱き寄せた。
「日本人さん、あんまり子供を怖がらせないでおくれ。この子は少し……普通の子とは違うんだ」
老婆の目は、松井の後ろにある「何か」を恐れているようだった。
4
松井は、少年が指し示した「学校の隣の家」へと急いだ。
そこには、村でも裕福な部類に入るであろう、立派な瓦屋根の家が建っていた。家の主は、村の地主の息子であり、地域で強い影響力を持つ男だった。
松井が門の前に立った時、中から一人の男が出てきた。
身なりの整った、30代半ばの男。その目は鋭く、松井を射抜くように見た。
「警察の方が、何の用ですかな」
男の口調は丁寧だったが、その背後には隠しきれない傲慢さが漂っていた。
松井の視線は、男が着ている薄手のカーディガンに釘付けになった。
……胸元の一番下のボタンが、一つだけ欠けている。
そして、その周囲の糸は、無理やり引きちぎられたようにほつれていた。
「そのカーディガン……ボタンを失くされたのですか?」
松井の問いに、男は冷たく微笑んだ。
「ええ、昨夜の雨の中、散歩をしていた時にね。どこかで引っ掛けたらしい。それが何か問題でも?」
松井は確信した。目の前にいるこの男が、あの泥濘の中で女性を縛り上げ、野草を口に詰め込んだ張本人だ。
だが、確信と証拠は別物だった。このボタン一つで、村の有力者を捕まえることは、今の韓国では、そして新米の松井には、あまりに高すぎる壁だった。
「いえ……失礼しました」
松井は一礼し、背を向けた。
拳を握りしめた手のひらで、袋に入った赤いボタンが熱を持っているように感じられた。
背後から、男の低い声が聞こえた。
「研修生さん。この村には、触れてはいけない『古い神様』の通り道がある。迷子にならないよう、気をつけることだ」
松井は振り返らなかった。
空には、不気味なほど真っ赤な夕焼けが広がっていた。それはまるで、犠牲者の鮮血が空に滲み出したかのようだった。




