第1話:赤いボタンと泥の記憶
第一部:農村連続殺人事件
第1話:赤いボタンと泥の記憶
1
1986年、10月。
大韓民国、京畿道。ソウルから南へ下ったその場所には、どこまでも続く黄金色の稲穂と、それを切り裂くような未舗装のあぜ道が広がっていた。
「おい、マツイ! さっさと来い。日本人は歩くのが遅いのか!」
怒鳴り声の主は、現地警察のベテラン刑事、パクだった。松井浩亮は、泥に足を取られながら必死にその後を追う。日本の警察庁から「海外研修」の名目で派遣されて三ヶ月。言葉も満足に通じない異国の地で、松井が最初に学んだのは、韓国の秋の夜風がいかに骨の髄まで冷えるかということだった。
午前6時。霧が立ち込める田んぼの土手には、すでに数人の警官が集まっていた。
「通報があったのは20分前だ。地元の農夫が、牛を連れて歩いていて見つけたらしい」
パクが煙草を地面に吐き捨て、顎で示した。
松井は深呼吸をして、あぜ道を覗き込んだ。その瞬間、喉の奥からせり上がってくる酸っぱいものを、歯を食いしばって押し殺した。
排水溝の中に、それは転がっていた。
被害者は若い女性だった。年齢は20代前半だろうか。彼女は全裸にされ、手足は自身のブラジャーと靴下で、見たこともないような複雑な結び目で縛り上げられていた。
「……なんて酷いことを」
松井の呟きは、霧の中に白く消えた。遺体の口には、周囲に生えていたススキの束が乱暴に詰め込まれ、死してなお、彼女の声を奪い続けていた。
2
「鑑識を呼べ! 現場を荒らすなと言ってるだろ!」
パクの怒号が響くが、当時の捜査現場はあまりに無秩序だった。野次馬の農民たちが遠巻きに眺め、警官たちは泥だらけの長靴で遺体の周囲を歩き回っている。現代の日本で教わった「現場保存」という概念は、ここには存在しないに等しかった。
松井は膝をつき、遺体の傍らに顔を近づけた。
死後硬直はまだ始まっていない。体温は奪われているが、肌には生々しい質感が残っている。犯人は、昨夜の激しい雨が止むのを待って、この場所に彼女を棄てたのだ。
その時、松井の目が、遺体の左手の指先に止まった。
彼女の指は、泥を掻き出したのか、爪の間に黒い土が詰まっていた。だが、その中の一つに、異質な色が混じっていた。
「パクさん、これを見てください」
松井はピンセットなど持っていなかった。ハンカチを広げ、指先で慎重にその「異物」を拾い上げた。
それは、小さな、赤いプラスチック製のボタンだった。
子供の服についているような、安っぽい、どこにでもあるボタン。
だが、その赤い色は、モノクロームのような霧の農村で、不気味なほど鮮やかに、松井の網膜に焼き付いた。
「ボタンだと? どこにでもあるだろ、そんなもの。被害者の服のものじゃないのか」
「いえ、彼女の衣類はあそこにまとめられていますが、ボタンを使うような服はありません。これは……犯人のものです」
松井の言葉に、パクは鼻で笑った。
「新米が。そんなゴミ一つで犯人が捕まるなら、苦労はせんよ。さっさと死体を運び出すぞ」
3
警察署に戻ると、そこは戦場だった。
前月にも似たような事件が起きていた。これで二人目だ。上層部は「共産主義者のテロ」か「怨恨」を疑っていたが、松井の直感は別のものを告げていた。
松井は署の片隅で、拾い上げた赤いボタンを小さな透明な袋に入れ、電球の光に透かして見ていた。
(なぜ、こんなものが爪の間にあったんだ。彼女は、死ぬ間際に犯人の服を掴んだのか。それとも、犯人がわざと残したのか……)
その時、署内のラジオから、静かな音楽が流れ始めた。
哀愁を帯びたバラード曲だ。雨上がりの街に溶け込んでいくようなその調べに、荒くれ者の刑事たちも一瞬だけ手を止めた。
「……不気味だな」
隣で調書を書いていた若い現地の刑事が呟いた。
「この曲、前回の事件の夜にも流れていたんですよ。偶然でしょうけど」
松井はその言葉に、言いようのない戦慄を覚えた。
もし、この連続殺人が、何かの「儀式」だとしたら。
もし、犯人がこの広大な農村を、自分だけの劇場だと考えているのだとしたら。
松井は窓の外を見た。
夕闇が迫る八つ足村。そこには、深い闇を湛えた古い井戸の跡や、手入れのされていない祠が点在している。この土地の人々が「神様が通り抜ける道」と呼ぶ場所。
松井の手記には、この日の記録がこう記されている。
『1986年10月24日。赤いボタンを拾う。犯人の息遣いを感じた気がしたが、それは霧のせいかもしれない。私はまだ、この国が抱える本当の闇を知らなかった。』
4
深夜。松井は宿舎に戻る道すがら、ふと足を止めた。
村の入り口にある古い井戸。そこには、誰が供えたのか、一輪の白い花が置かれていた。
松井は井戸の縁に立ち、その底を覗き込んだ。
深い、深い闇。
そこから、子供の笑い声が聞こえた気がして、松井は慌てて後ずさりした。
「……気のせいだ。疲れが溜まっている」
自分に言い聞かせ、松井は歩き出した。
だが、彼の背後で、井戸の中から「ピチャリ」と水音がした。
まるで、何かが新しく、その場所に運び込まれたかのような音だった。
新人刑事、松井浩亮。
彼が定年を迎えるまで解くことができなかった、そして「ラジオ体操事件」へと繋がっていく長い、長い悪夢。その第一章の幕が、冷たい雨とともに上がった。
翌朝、三人目の犠牲者が発見されることを、まだこの時の松井は知る由もなかった。




