第一章ヴァルオ編 第一部【三進法の反転盤】
時空が、違った。
金粉を集めたように、漆黒の空には時針、分針そして秒針が、逆向きに時を刻んでいる。
舞台は――三進法の文字盤だ。
「揃っているな。息災だったか?」
そう問うのは、この中で一番若い男性。
銀糸の長髪は辺りの漆黒と金粉を映して煌々と輝き、褐色の肌には周囲を溶かした静寂がある。
藍鼠を基調に、瞳孔の周りに滅紫の陰影が入った双眸では、空と同じ文字盤と逆針が、空と同調するかのように時を進めている。
一見して飾り気のない旅装束のような格好だが、分かるものには分かる。衣装の全てに、細やかな、魔力を宿した刺繍がこれでもかと言うほどされていた。
「勿論です。閣下」
「重苦しいからそういうのは後で……祝勝の時にしましょうや」
「今回は重いからな。巻き込む人数も多い」
「そりゃ……発生源の人数多いですから……」
彼は、集合した七名の協力者たちを見渡しながらゆっくりと視線を動かす。その先々にあった影像が鏡面のように浮かんだ。
「幻獣や竜の類は居ないな」
「居るわけないでしょ……居たら全滅ですよ。リクトロア様が居ても」
三十路前の男の疲れた溜息を聞き流しながら、彼――リクトロアはゆっくりと手を動かした。
「魔獣は一種類のみで対空能力はない。これで行く」
風属性での飛翔だ。八人全員を巻き込み、漆黒の空の元――見ただけで人が堕ちそうな瘴気溜まりに真っ直ぐに向かう。
「ルイーゼ以外は冥石を手放すな」
瘴気溜りに突っ込んだ。途端――
とてつもなく、形容しがたい。断末魔の記憶が流れ込んだ。
流石に酷すぎる記憶だが、リクトロアは呪を紡ぎ、聞き集めた情報から馬車を再現する。
ここで生きたまま獣に喰われた子どもたちの容姿、そして――ここに辿り着くまでに亡くなっていた赤子。
その九名を乗せ、記録にあった男性が御者をする馬車が、ゆっくりと向かった先は――朽ちた故郷だ。
どこからともなく、歌が響く。記録では旋律が曖昧な、歌詞も都度変わるものでこれと断定して再現ができなかったものだ。
「こっちの唄ですね~」
一人難を逃れていた三十路前の男が調子外れに口ずさむと、
【おじちゃん、下手〜】
【お父さんみた~い】
響く無邪気な声は、自分たちを飲み込んだ災禍を綺麗に忘れているかのようだ。
「やかましいわ!! それとオレはまだ二十代!!」
子どもたちに最後に笑顔をもたらせたケイオスは、満更でもなさそうにリクトロアには見えた。下手と言われても顔は笑っており、声も親しい人間向けだった。
和やかに馬車が全員を乗せて轍を残した後。
その轍から銀色の粉が流れた。
八人が空を見上げ銀粉を見送ると、瘴気が晴れた。
相変わらずの黒い空と金粉の反転盤の中、もう瘴気を纏わない魔獣たちを兵たちが押し留めている光景が戻った。
リクトロアは、また手を動かした。途端、また形容のしがたい断末が次々に響く。
「もう片付けていいからって、さっさと片付けましたね……。いつもの通りですけれど」
いつものことに呆れたような、協力者の一人の声にリクトロアは頷く。
「瘴気がなければ普通こうする」
気管系で酸素を取り込むなら使える術だ。小さな水球を出して地上で溺れさせた。やったことを文章にするならそれだけだ。神経を魔力で破壊したり圧倒的物量で仕留めるよりは、リクトロアの心が痛まないので選んだ手段だ。
「あ――リクトロア!? あっち! あっちで一般の人が巻き込まれて溺れてます!」
三十路手前の男の悲鳴に、リクトロアは単身浮遊し、
「どこだ!? ケイオス!」
真面目に問う。すると、
「冗談っす……。いつかやってみたくて……」
ケイオスが仲間に叩きのめされているのを横目に、リクトロアは懐中時計を懐から出す。上蓋に彫られた起動句を撫でると、そこから黒い粒子が舞う。
すぐに、漆黒の空と、金粉の反転時計が懐中時計に戻った。
時計の文字盤は、リクトロアがいつも使う、五進法と十進法の掛け合わせに戻り、リクトロアの瞳が緑青色を基盤に瞳孔周りに花浅葱のアクセントが入った色になった。文字盤も逆針ももうない。
「リクトロア様、二人行きましたけれど大丈夫でしたか?」
「仕方ない。ケイオスは子どもに懐かれにくかったな」
「おじちゃん、嫌われました……。でも嫌われなかったら幼馴染諸共逝ってましたね」
不謹慎な冗談に逃避出来るうちはまだいい。ここにいる人間が引き摺られて魔獣を生むこともあり得るのだ。ケイオスのこの口も、見ていたものへの嫌悪と恐怖を映す非日常のものだ。
事前情報で得た覚悟を上回るものだった。喰われた八名と同じ人数で来たが、個体差もあったようだ。
「あっ!! 妻の冥石が……」
ヘンリックの妻の冥石は割れたようだ。
「無事です」
「俺も」
「あたしが危ない時にはリクトロア様も含んでみんな全滅ですね」
「ルイーゼ、強すぎる……」
「俺に冥石くれよ……」
たまに女性に居るのだ。精神耐性が尋常を超えて高い人間が。
自分を助ける立場にすらない人間に生命を賭けた救助を求める。それが充分に起こり得る狂気の時間だ。
三進数――活動、休息、休息。その三つが示すのは、三つのうち一つしか活動しないことで、いつでも万全の攻勢が取れるという、殺戮前提の異常な空間だ。
「魔石は悪用されないようにしてくれればそれでいい。後は任せてもいいか?」
「魔石換金して持っていきます」
「要らん。……早くルティナに会いたい。事後処理は頼む。それとヘンリック、亡くなった妻へは挨拶を送る。早く娘と和解しておけ」
刺繍の銀糸が煌めく外套を翻し、リクトロアは歩き出した。
皆、もはや業務のように終わる魔獣掃討を形骸とは思わない。
消えた生命、負の記憶、そして――高確率で大事な人間が冥石を割られ堕ちるからだ。
それを書類と一緒にするような人間は、この反転文字盤に置いてきていいだろう。
隠れて嘆息する。無惨な記憶が色濃く残っている。安心出来る、唯一深く眠れる彼女のもとに戻りたい。
自身の懐中時計の蓋の裏。そこにある割れた冥石ではなく、残っている冥石の所有者が待つあの屋敷に帰りたかった。




