memoirs,05
事態は考えていた以上に深刻だった。
時間が経つにつれて頭痛がひどくなっていき、判断能力が低下していく。
(少し休憩にするか)
普段なら自分の部屋でしか煙草は吸わない。けれど、今は部屋に戻るのも億劫に感じるほど、身体全体が石のように重く感じる。誰もいない庭先で、木陰に腰を下ろし、俺はこっそりと煙草に火をつけた。
「ったく、こんな日に限って……なんで熱なんか出すかな」
早々に仕事を終わらせて、亜矢を外に連れ出したかった。最近は家の中に引き篭もりがちな亜矢を遊びに連れ出せば、少しは笑顔を見せてくれるかもしれないと思っていたのに、なんというタイミングの悪さだろう。俺は舌打ちして、また煙草に口をつけた。その時だった。
「白藤さん?」
背後からの呼びかけに、俺は焦って振り返った。そこには覗き込むように俺を見つめる亜矢が立っていた。
「なんだ、お前か」
平静を装って、俺は軽く流すように答えた。熱があることを悟られないように、亜矢から顔を背ける。しかし、こういう時に限って、女の勘みたいなものが働いてしまう。
いつも俺と距離を取りたがる亜矢が、なんの躊躇いもなく、俺の額に手を押し当ててきた。少しひんやり冷たい亜矢の手のひらの感触に、柄にもなく動揺してしまう。俺は素早く顔を離した。
しかし、熱があることに気づいてしまった亜矢は簡単に引き下がろうとせず、俺の腕を掴むと、勢いよく引っ張り始めた。抵抗しようと試みるも、熱のせいで体がふらつき、崩れるように亜矢にもたれかかってしまった。
「全然大丈夫じゃないじゃないですか! 煙草なんか吸ってる場合じゃないですよ!」
耳元に亜矢の声が響く。
「……お前、なんか用事があったんじゃないのか?」
「こんな白藤さん、見捨てて出かけられません!」
叱るように言う亜矢を見て、俺は思わず笑みを零す。
いつもと立場が逆転したことに対しておかしくなったわけではない。こうして、俺のことを必死になって心配してくれる亜矢の姿を見て、嬉しくなってしまった。
「悪い」
俺を気遣いながら歩き出す亜矢の姿を見つめながら、小さく謝った。
◇◇◇ ◇◇◇
亜矢の部屋に連れて行かれてから何時間か経った頃、俺はベッドの上で目を覚ました。
部屋の中はもう薄暗く、夜を迎えてしまったことを知った。
「やべ、マジで寝てた」
だるさの残る体を無理やり起こし、ゆっくりと部屋を見渡した。ソファの上でタオルケットをかけて眠る亜矢が視界に入る。
「そんなとこで寝たら、お前が風邪引くだろうが」
俺はそっと起き上がり、眠る亜矢に歩み寄る。起こさないよう慎重になりながら、深い眠りの中にいる亜矢を抱き抱え、ベッドへと運んだ。静かに布団をかけ、亜矢の乱れた前髪を指で流す。
「ありがとうな、亜矢……気まずい相手だったのに、看病してくれて」
熱に浮かされ、いろいろと亜矢を困らせる言葉を言ってしまった。しかし、言った言葉は事実であり、俺の本心だった。だから、言ってしまったことに後悔はしていない。
無防備に寝息を立てて眠る亜矢に、俺はそっと唇を寄せる。
「人のことに一生懸命になるのはいいけど、男を簡単に自分の部屋に泊めるのは感心しませんよ……お嬢様」
額に軽く触れるキスを落とす。そして、亜矢が起きないようにそっと部屋から出ていった。
翌日。
熱の下がった俺は、昨日の失態を挽回するべく、有無も言わせないまま亜矢を外へと連れ出した。車をパーキングに停め、亜矢を連れて街を歩く。天気にも恵まれ、街は多くの人で賑わっていた。
しかし、車を下りたあたりから亜矢の様子がどうもおかしい。周囲を気にするように、キョロキョロと辺りを見回している。そのうち、亜矢はようやくその理由を口にした。
「何がって……こんなところをあの記者に見られたら、白藤さんに迷惑がかかるんじゃ」
「アホっ!」
俺は一言で、不安を露わにする亜矢の言葉を遮った。それでも不安の抜けない顔の亜矢に、ついため息をつく。
それは亜矢に対して呆れたからではない。どこにいるかもわからない記者の存在に怯えているにもかかわらず、俺が巻き込まれることを心配している。亜矢に余計な気遣いをさせたことに情けなさを感じ、自分自身に呆れてしまった。
——そうなったとしても、別に構わない。もしそうなっても、俺はすべてを捨ててでも亜矢を守る覚悟ができているんだ。
そうはっきり告げるつもりだったのだが、ふっと目に入ったものに、俺は言葉を止めた。
言葉を途中で切ると、俺は目に入った露店へと向かった。様々なアクセサリーが並ぶ中で、俺は迷うことなく一つのヘアピンを手に取った。
亜矢に似合いそうなヘアピンを購入して戻ると、亜矢は何やら考え込んだ顔で俯いていた。
「おいっ! まーった、余計なこと考えてるだろ?」
いきなり声をかけられた亜矢は、驚きから後ろに下がろうとする。しかし、俺は逃がさないように腕を掴み、亜矢を自分へと引き寄せた。
「こら、動くなっ」
亜矢の横髪を優しく耳にかけ、そっとヘアピンをつける。
「最初に言っただろ? 耳出した方が色っぽいって」
初めて亜矢と会った時、挑発的に言った言葉だったが、あれは半分本心だった。俺の発言に、亜矢は動揺の声を漏らす。しかし、俺は気にすることなく、亜矢の手を取った。不安なんて感じなくていい、俺が傍にいれば心配いらないと伝えるように、俺は亜矢の手を強く握り締めた。
俺が亜矢と向かったのは映画館だった。
一般家庭で育ってきた亜矢なら、金持ちが行くような場所へ連れて行くよりも、こういう馴染みのある場所の方が気分転換になると考えたからだ。それに、よくテレビ番組でやっている最新映画情報を、亜矢が真剣に見ているところを度々目にしていた。
(本当は神木と行きたかったんだろうけどな)
亜矢は本来、普通の恋人同士がするようなデートを神木としたいと望んでいたに違いない。心の中にまだ色濃く残る神木の存在が、亜矢の笑顔の邪魔をしている。映画館に連れて来たごときで、それが払拭されるはずもないことはわかりきっていた。けれど、今の亜矢を笑顔にするために、できることはなんでも試したいと思った。
すると、亜矢がようやく観たい映画を見つけたらしく、少しだけ目に輝きが宿る。その映画は俺も知っていると告げると、亜矢の表情がさらに明るさを増した。
「なら、これにしようよ! 続き見たかったから、気になってきちゃった!」
神木がいなくなってから、しばらくぶりの笑顔。
俺の心にじんわりと温かな感情が流れ出す。
「なんだ、笑えるじゃん」
その感情は、俺の顔を熱くさせ、動揺させた。
映画が始まっても、俺は内容なんて頭に入ってこず、亜矢の横顔ばかりを見つめていた。スクリーンを見つめながら、ころころと表情を変えていく亜矢を見た方がよっぽど楽しいなんて、本人に言ったらきっと怒るに違いない。けれど、今は怒った顔を想像するだけで口元が緩んでしまう。
(なんか、デートしてるみたいだな)
こんな風に誰かと休日を過ごすのが新鮮で、俺までもがいつしか、その時間を楽しんでいた。
◇◇◇ ◇◇◇
お昼時、家族連れで賑わう公園でサンドイッチを頬張る。
亜矢の提案どおり、公園で昼食をとることにしたが、俺は心のどこかで、公園でご飯を食べるなんて何がいいのだろうと短絡的に捉えていた。けれど、ただレジャーシートに座って、外で食べただけなのに、まるで味が違った。コンビニで買ってきたサンドイッチがやたら美味しく感じる。
「……うまい」
亜矢は外で食べるから美味しいのだと笑顔で告げたが、俺はただそれだけではないと感じ取った。きっと、亜矢が目の前にいて、楽しそうに笑顔を見せてくれているからだと気がつく。またしても、心の中に温かな何かが流れ、鼓動を早くさせた。
食べ終え、次に何をするかを亜矢に聞くと、どうも様子がおかしい。
さっきから何かを気にしながら、散歩なんて言葉を口に出す。
(また余計なことばっか気にしやがって)
俺の予想は的中し、やはり体調を気にして、負担の軽いものを選んだようだった。熱はもうないことを証明するために、強引に亜矢の手を俺の額へ当てた。
「ほら、熱もないだろ?」
昨日は躊躇なく俺の額に手を当ててきたくせに、今日はやけに嫌がって、手を離させようとする。
「離すから、何がしたいか選べよ」
「だったらボートでいいよ!」
そう叫んだ瞬間、亜矢の顔が一気に赤くなるのを俺は見逃さなかった。
——嫌がってるんじゃない。
これは俺を意識している。そう確信した。また心が震え出す。
しかし、その瞬間、大粒の雨が頭上から勢いよく降り始めた。
「亜矢、ひとまずこっち来い!」
亜矢の手首を掴んだまま、適当に雨宿りのできそうな木の下へと避難した。俺たち以外の人たちは、慌てて駐車場のある方へと走っていった。
(失敗したな……車を近くまで持ってくるべきだった)
初めに車を停めたパーキングは、ここから少し距離がある。雨の予報などなかったため、公園へ来る時も車のことは深く考えずに、そのまま置いてきてしまった。
せっかくボートにも乗ろうというタイミングで、なんと間の悪い雨だろうと、俺は無意識にため息をついた。
「白藤さん」
亜矢が遠慮がちに呼ぶ。振り返ると、目を伏せながら、照れ臭そうにする亜矢が目に映った。
そして、突然の感謝の言葉。
話を続けるうちに、亜矢のまっすぐな眼差しが俺に向けられた。
「白藤さん、わたしのことをずっと支えてくれて、励ましてくれて……ありがとうっ」
ずっと求めていた亜矢の笑顔が目の前にある。
心に溢れ出した温かな感情が全身に伝わっていく。
——好きだ、可愛い、愛おしい。
その言葉が頭の中を埋め尽くし、制御していたつもりの理性が簡単に壊されていった。
亜矢が持っていたタオルで、俺の濡れた髪を拭こうと手を伸ばした。その仕草に触発され、気がつけば唇を奪っていた。
雨音を聞きながら、俺の脳裏にある記憶がよぎる。
亜矢と初めて出会った日。
病院の中庭。いくらでも座る場所があるにもかかわらず、亜矢はまっすぐ俺の隣に座った。子供の相手は正直苦手だったが、亜矢の話を聞いていくうちに、同情のような感情が初めは湧いてきた。
母親を早くに亡くし、父親が現在入院中という中で、一人で頑張ろうとする亜矢が健気に映った。守ってあげたいなんて馬鹿な考えもよぎるほどだ。
けれど、辛い状況下で亜矢は、俺が抱えている孤独に気づき、励まそうとブレスレットをくれた。俺に向かって、満面の笑みを浮かべた亜矢を見た瞬間、感じてしまったんだ。
——俺が大人になったら、どんな苦しい状況でも大切な人を守っていけるような男になろう。
大切な人の笑顔を守ることを俺は誓った。
もう会えるかわからない、名前も聞けなかった少女。それでも、いつか会えたならと、心は未来に期待を馳せる。
そして、その奇跡は現実になった。
触れられる距離、誰にも邪魔をされずに愛を注げる。
だから、もう誰にも譲らないし、逃さない。
——だって、亜矢は俺の初恋の人だから。
◇◇◇ ◇◇◇
その翌日、亜矢が熱を出して寝込んでしまった。
雨の中で、長い時間を過ごしてしまったせいだろう。亜矢に寄り添って看病していると、不意にハワイでの俺の発言の意味を問われてしまった。
『初めからお前に仕えていたら、俺はもっと違ってたかもしれないのにな……』
その言葉は、俺のもう一つの暗い過去を意味していた。一瞬、話すことを躊躇う。
それでも、亜矢を好きだからこそ、知ってほしいと思う気持ちもあった。
俺は意を決して、過去の出来事と隠していた罪を亜矢に打ち明けた。普通なら、軽蔑されてもおかしくないのに、亜矢は涙を流して、俺のした選択を肯定してくれた。
俺はそんな亜矢に再び恋をする。
亜矢は、神木を想いながら俺のことを拒めなかった自分を責めているかもしれない。
そんな亜矢の罪悪感を利用して、心の隙間に入り込んだ俺は卑怯な人間だろう。けれど、そんなやり方をしてでも、俺は亜矢を手に入れたかった。
◇◇◇ ◇◇◇
亜矢の体調が回復したのは三日後のことだった。
しかし、今の俺は非常に機嫌が悪かった。どういうわけか、亜矢があからさまに俺を避けているからだ。
「白藤くん……何かあったのか?」
朝、俺を見るなり、逃げるようにして廊下を走っていく亜矢を見届けてから、陽太が苦笑いを浮かべて聞いてきた。
「いえ、身に覚えはないのですが……もしかしたら、わたしが気づかないうちに何かしたのかもしれませんね」
陽太には普段通りの笑顔を向けたが、心の中では納得できないという苛立ちが募っていた。
(三日前までは俺の話聞いて理解してくれたくせして、今になって避けるってなんだよ)
公園でも明らかに俺を意識して顔を赤くして、強引ではあったけれどキスもした。その後に避けるなら理解もできるが、熱を出した時にはそんな素振りはまったくなかった。なのに、熱が下がった途端に盛大に俺を避ける意味がわからない。
(帰ってきたら絶対に問い詰めてやる)
しかし、事態は一変する。
亜矢の迎えに行く時間に学校へ到着すると、あの記者が目に映った。亜矢に迫り、何かを言っている。
「あの野郎!」
車を出た瞬間だった。記者の手を振り払った反動で、亜矢がバランスを崩し、道路へと倒れ込む。そして、亜矢に迫る車が目に入った瞬間、俺は何も考えずに走り出していた。
寸前のところで亜矢に覆い被さり、その体を抱き締めたまま地面を転がった。ブレーキ音が耳に響くも、なんとかぶつかることは防げたようだった。亜矢を守れたことの安堵感から、一気に気が抜ける。
「お願い、返事してよ! 白藤さんっ!」
呼び声になんとか目を開けると、亜矢は俺を見て涙ぐんでいた。今朝は俺を避けていたくせにと皮肉を言ってやりたい気持ちもあったが、今はそれどころではない。
俺は脅すように記者に詰め寄り、警告を発した。この後、記者に何かされたとしても、どうでもいい。
記者は俺の迫力に怖じ気づいたのか、逃げるように立ち去っていった。
(陽太様か旦那様に報告して、出版社に圧力でもかけてもらうか)
体のあちこちが痛むのを感じながら振り返り、地面に座り込んだままの亜矢に手を差し伸べる。亜矢は懸命に俺の怪我を心配するが、そんなのはまるで気にしていなかった。こんなにも俺のことを想っているくせに、なんで今朝は避けたのか理由を聞きたくて仕方なくなっていた。
急いで帰宅し、俺は亜矢の手を引くと、そのまま執務室へと駆け込む。
逃げ場を失った亜矢は、俺に避けていた理由を問われても、懸命に話を逸らそうとした。けれど、事情を聞くまでは逃すつもりのない俺の圧に負けたのか、亜矢は最終的に観念した。
「は……初恋……だったの」
いきなり言われた言葉に、俺は理解に苦しんだ。
亜矢の初恋話を聞いた覚えはない。というか、そんな話は聞きたくない。
そう思っていたのに、その初恋相手が俺だったと語り出す。
(亜矢の初恋が俺? 俺を好きだったって言ってるのか?)
そんな重大なことを聞かされて、明日からまたいつもどおり、執事とお嬢様に戻ろうなんて冗談じゃない。俺は一言で亜矢の言葉を断ち切った。
「何、勝手に終わらそうとしてんだよ」
今なら、強引にでも亜矢の気持ちを動かせば、もしかしたら俺に心変わりするかもしれない。しかし、亜矢は拒むように俺のキスを防いだ。
「誰だってキスとかされれば、嫌でも意識するに決まってるじゃない!!」
その亜矢の発言に、俺は一理あると考えを変える。
強引すぎても、亜矢にはあまり効果はない。だったら、やり方を変えればいい話だ。
これまでは行動で示してきた。今からは、言葉で心を揺さぶり、亜矢の頭の中を俺の存在で埋め尽くしてやればいい。そんな決意とともに、亜矢に今度は惜しみなく愛を囁く。
「初めて会ったあの時より、お前の笑顔も涙も何もかも好きだ」
直接的な愛の言葉が亜矢の心に響いたことは、顔を見れば一目瞭然だった。
これから尽きることなく愛を囁いて、呆れられるほど甘やかして、俺なしではいられないようにしていけば、自然と亜矢は俺の愛に堕ちていく。
そんなひどいことを考えてしまう俺の愛は、きっと歪んでいるのだろう。
——でも、それでも俺は亜矢を手に入れたいと、強く思ってしまうんだ。
白藤さん、愛が深い
いや、重い( *¯ ꒳¯*)
でもそれでこその白藤さんなんだよね。




