「離縁の前に、どなたの麹かお伺いしても?」と粥屋の隣の御隠居が笑った日、蔵を追われた私は麹蓋一枚で御用看板を掛け替えます
「蔵の名で売れているだけだ。おまえが起こした麹だからではない」
障子の向こうから飛んできた宗兵衛の声に、窓を押すわたくしの指が止まった。あと半寸、いや、今朝は二寸でよい。外気は冷たいが、蒸米の芯まで冷やすほどではない。
「まあ、嫁が手柄面をするようになったらおしまいだよ。十年置いてやった恩も忘れて」
お峰の声は、取引先へ茶を出すときのように柔らかかった。柔らかい布ほど口へ詰めると息ができない。嫁は便利である。働いている間は家の手、出来がよければ蔵の名、口を開けば手柄面。たいへんよくできた仕分けだ。
わたくしは窓を二寸で留め、指先についた米粒を払った。外側だけ濡れて、中は粉のまま。よくもまあ、その按配で十年を語れますこと。
「寄合で話を通す。妙な噂になる前に、こちらから離縁したと知らせたほうが蔵のためだ」
「ええ。嫁を替えても味は変わらないと、皆さまにわかっていただかなくてはね」
廊下の板が鳴った。宗兵衛の足音は重く、お峰の足音はその半歩後ろを滑る。どちらも麹室へは入ってこない。十年入らずに済んだ場所は、たいそう簡単に語れるらしい。
膝の上には、磨きかけの麹蓋が一枚あった。嫁入りのとき、父が持たせてくれたものだ。蔵の蓋より少し浅く、角の継ぎがひとつだけ不格好で、それでも蒸米を広げると妙に手になじむ。
わたくしは布を折り直し、縁を磨いた。ここで手を離したら、あの二人の言葉に押し出されたようで癪である。出るなら自分で磨き終えてから出る。見栄とは、役に立たないようでいて、こういうときには背骨くらいの働きをする。
障子が開き、宗兵衛が顔だけを差し入れた。
「聞いていたのか」
「窓は二寸にいたしましたわ。昼まで触らないでくださいませ」
「離縁の話だ」
「そちらも聞こえております」
「なら、話が早い。寄合の前に書付を渡す。おまえは実家へ——」
「戻る実家はございませんわ」
父も母も、もういない。それくらいは夫なら覚えていてもよさそうなものだが、蒸した米より物覚えが悪いとなると使い道に困る。
宗兵衛は眉を寄せた。
「では、行き先は自分で決めろ。蔵の物には手をつけるな」
「承知しております」
わたくしは麹蓋の縁へ布を滑らせた。きゅ、と乾いた音がした。
「これは、わたくしの嫁入り道具ですので」
「蓋一枚で何ができる」
「さあ。あなたが十年なさらなかったことくらいは」
宗兵衛の口が開いた。わたくしは窓の留め木を確かめた。今朝の外気なら二寸。夫の頭なら、全開にしても風は通りそうにない。
* * *
夜番明けの朝粥は、舌を焼く寸前がいちばんおいしい。ふうふう冷ますなど、粥に対する礼を欠いている。熱いうちに一口いただき、上顎を少し犠牲にする。これぞ働いた者の朝である。
「あら、志乃さん。今朝はずいぶん勇ましい召し上がり方ですね」
隣の御隠居が、椀の向こうで笑った。いつもの木綿の綿入れは肘のあたりが少し白くなっているが、襟元はきちんと合っている。わたくしより先に腰掛けている日も、あとから来る日も、椀を置く場所はいつも同じだった。
「口の中を焼きましたの」
「それは勇ましいのではなく、急いだだけですね」
「違いますわ。ぬるい粥で始まる朝は、麹まで拗ねますの。これは愚痴ではなく、とても大事な話です」
「はい。大事なお話として伺います」
御隠居は笑いを引っ込めず、急かしもしない。この十年、わたくしが夜番を終えて屋台へ寄るたび、そうして聞いてくれた。
初めは天気の話をしたつもりだった。ところが気づけば、雨の日は窓を指一本ぶん狭めるだの、蒸米の吸いが浅い日は布を一枚減らすだのと話していた。愚痴が下手なのだ。腹立ちを口へ上げる途中で、なぜか麹の世話へ化けてしまう。我ながら勤勉すぎて腹が立つ。
「それで、今朝の麹はいかがでしたか」
「外気は冷えておりましたけれど、米が素直でしたので、窓は二寸です。お昼前に一度だけ返せば、明朝にはよい香りになりますわ」
「昨日は一寸半でしたね」
「昨日は雨の名残がありましたもの。開けすぎれば表面ばかり乾きます」
「宗兵衛さんは、その違いをご存じで?」
粥が喉の途中で立ち止まった。たいへん賢い粥である。答えにくいところを察して時間を稼いでくれた。
「麹室へお入りになりませんので」
「十年?」
「十年」
御隠居は椀へ目を落とした。右手で持ち上げ、左手は膝に置いたまま。わたくしは離縁のことを言おうとした。今朝、夫と義母が。寄合で。蔵のために。
「それで本日は、窓を二寸にしてから、麹蓋を一枚磨き終えまして」
違う。そこではない。だがもう口から出たので仕方がない。
「その蓋は、いつもの浅い蓋ですか」
「ええ、嫁入りのときの。角の継ぎが少々不格好ですが、米が片寄らないのです」
「よい蓋なのですね」
「わたくしの物は、あれ一枚だけですわ」
ようやく、少しだけ言えた。
御隠居は聞き返さなかった。椀を置き、湯気が細くなっていくのを待ってから、いつもの穏やかな声で言った。
「麹の声は、嘘をつきませんので」
わたくしは残りの粥を口へ運んだ。先ほどより熱くない。少し惜しい。朝は焼けるほど熱く、話はこれくらいの温度がよいのかもしれなかった。
「明日から、こちらへ来られないかもしれません」
「そうですか」
「けれど、次に麹を起こしましたら、窓のことをお話ししますわ」
「はい。伺いましょう」
御隠居は、いつもの幅だけ笑った。大げさに慰めもしない。明日も同じ腰掛けがあるような返事だった。
* * *
「志乃さんには、少し休んでもらおうと思いましてね」
お峰は御用看板の下で、取引先の商い手に茶をすすめていた。わたくしは奥から空いた茶托を運び、少し離れたところへ控えた。どうやら本人は休むのではなく消える予定らしいが、お峰の話の中で、わたくしはもうその場にいない者になっている。
「嫁はどうしても、自分の手柄だと思い込みやすいでしょう? けれど、味は蔵が守ってきたものですもの。嫁を替えても変わりませんわ」
商い手が一度頷いた。お峰はその頷きを逃さず、膝を寄せた。反撃しない相手には蒸米を押し込むように畳みかける。押せば押すほどよい麹になると信じているなら、一度ご自分を樽へ詰めてみてはいかがだろう。
「うちの名を信用していただいているのです。ねえ、宗兵衛」
「ああ。代々の蔵だ。誰が麹番でも、品は変わらない」
宗兵衛は御用看板を見上げた。その顔は、よく吸った米のようにふっくらと自信に満ちている。火が通っているかどうかは別の話だ。
(世間は蔵の名を見ている。麹番の一人や二人、誰がやっても同じこと)
わたくしは茶托を重ね、音を立てずに下げた。十年間の夜番も、季節ごとの窓の幅も、蔵の名へ入れて蓋をすれば見えなくなる。なるほど便利。人の手とは、蔵元にとって勘定へ載せないほどよく働くものらしい。
だからといって、引き継ぎを荒らすのはわたくしの性に合わない。道具は洗い、布は乾かし、仕込みの日ごとの窓の幅を札へ残した。次の麹番が宗兵衛でもお峰でもないことを、せめて米のために祈った。米には罪がない。
お峰が奥へ来たのは、わたくしが棚の最後の塵を拭ったときだった。
「余計なことは取引先へ言わないでおくれ。家の恥になるから」
「何を申せば余計になりますの」
「自分が一人で麹を起こしていた、などと」
「事実でも?」
「嫁が家の仕事をするのは当たり前でしょう。それを自分の働きのように言うから、手柄面だと言われるのよ」
言っているのはお峰である。たいへん小回りの利く世間だ。
「承知いたしました。わたくしからは、何も」
「そうしておくれ。寄合でも、宗兵衛が筋を通すから」
「わたくしは呼ばれておりませんものね」
お峰は微笑んだ。反撃しない嫁へ向けるときだけ、口角がよく上がる。
「女が出ていって、話をややこしくすることはないの」
話をややこしくしたくないのは同感だった。十年世話になった取引先へ、本人の口から別れの挨拶もない。そちらのほうが、わたくしにはよほど筋が曲がって見える。
夕刻、宗兵衛が書付を持ってきた。わたくしは受け取り、名を書いた。宗兵衛はほっとした顔をした。蒸し上がる前に蓋を開けたような顔だった。
「明日の寄合が済めば、皆も納得する」
「皆さまとは、どなたですの」
「世間だ」
便利な返事である。顔も手も持たないくせに、宗兵衛の都合のよいところでだけ頷くらしい。
* * *
翌日、わたくしは一番よい外出着に袖を通した。襟は古いが、糊はきいている。追い出される女にも襟はある。むしろ、こういうときこそ首筋を真っ直ぐ見せるべきだ。
風呂敷を広げかけ、やめた。麹蓋は包まず、両腕でむき出しに抱えた。盗んだ物ではないのだから隠す筋はない。蓋一枚で何ができる、と言われた一枚である。ならばよく見えるように持っていこう。見栄、大いに結構。腹の足しにはならないが、今のわたくしには朝粥一杯ぶんほど効いた。
蔵の物は、何ひとつ持たなかった。着替えと櫛は小さな包みに収め、先に借りた部屋へ置いた。腕の中に残ったのは麹蓋だけで、軽いはずなのに、十年前より重かった。
寄合の戸口には履物が並んでいた。中から宗兵衛の声が聞こえる。
「長く置きすぎたため、本人が自分の力を過信したのです。今後は家の者で見直しを——」
わたくしは上がり框へ足をかけた。
いつもなら、声の張りすぎは水を吸わせすぎた米、こちらを見ない目は芯の残った米、と勝手に換算する。そうして人を麹にしてしまえば、腹も立ちにくい。
けれど、そのときだけ、何にも換えられなかった。
畳の奥、上座に、木綿の綿入れが見えた。
毎朝、粥椀を置く隣にあった袖。肘のあたりが少し白くなった、見慣れた綿入れだった。
「失礼いたします」
声が自分の喉から出たことを確かめ、わたくしは履物を揃えた。麹蓋を抱えたまま、上がり框を上がる。
宗兵衛が振り返った。
「志乃。なぜ来た」
「十年お世話になった皆さまへ、ご挨拶に参りました」
「呼んでいない。家の話はもう——」
お峰が宗兵衛の袖へ目をやった。止めるほどではない、今はまだ。彼女は上座へ向けて柔らかく笑った。
「まあ、大女将。お見苦しいところを。嫁は少々、思い込みの激しいところがございまして」
大女将。
その呼び名が、木綿の綿入れへ届いた。
御隠居は、朝粥の屋台と同じ顔でわたくしを見ていた。膝の前に置かれた手も、背筋も、何も変わっていない。ただ、周りの者の背中だけが、先ほどまでより低くなっている。
* * *
「離縁の前に、どなたの麹かお伺いしても?」
お辰の声は、粥屋台で窓の幅を尋ねるときと同じだった。
宗兵衛が口を開いた。
「それは、もちろん、うちの蔵の——」
「蔵の名は存じております」
お辰は穏やかに返した。声を強めてもいないのに、宗兵衛の続きが畳へ落ちた。
「わたくしがお尋ねしたのは、麹を起こした方です」
寄合の面々が宗兵衛を見た。先ほどまで蔵の由緒に合わせて動いていた顎が、ひとつも動かない。やがて視線は、宗兵衛の顔から、麹蓋を抱えるわたくしの手へ移った。
十年、荒れた指である。米を返し、布を絞り、夜明け前の窓へ触れてきた手。隠そうとすれば、蓋まで落としそうだった。
「嫁が家の仕事をしただけでございます」
お峰の声は、先ほどより薄かった。
「大女将もご存じでしょう。味は家が守るもので、嫁一人の——」
お辰が、お峰を見た。
それだけで、お峰は最初に口をつぐんだ。伸びた指が宗兵衛の袖をつかむ。人前ほど柔らかった声は、格上の前では湯気より先に消えるらしい。
お辰はわたくしへ顔を向けた。
「志乃さん。昨日の朝は、窓を二寸とおっしゃいましたね」
「はい」
「雨の名残がある朝は、一寸半。冷えていても米が素直なら二寸。昼前に一度だけ返す、と」
「はい」
「浅い麹蓋は、米が片寄らないとも」
腕の中の一枚が、急に重くなった。縁を押さえる指へ力が入り、磨いた木肌が掌に食い込む。
「毎朝、聞いておりました。麹の声を」
この方は、わたくしの離縁を初めて聞いたのではない。わたくしの十年を、もう聞き終えていらしたのだ。
話そうとしては窓の幅になり、蒸米の吸い加減になった。それでも、届いていた。
喉の奥が狭くなった。返事をしようとすると、息ばかりが上がってくる。わたくしは麹蓋の縁を撫でた。十年前から知っている、少し不格好な角だった。
「大女将でいらしたのですね」
「朝は、ただの粥好きの隠居です」
お辰はそう言って、ほんの少し笑った。品のよい方が、粥好きで身元を片づけた。ずるい。そんなことを言われたら、こちらまでいつもの朝へ戻りたくなるではないか。
「では、大女将。今朝は粥を召し上がりました?」
「寄合があるので、半分で我慢いたしました」
「まあ。それはよくありませんわ」
「大女将」として膝を折るべきなのに、口から出たのは朝粥の心配だった。けれど、お辰は咎めなかった。
「ですから、早く済ませたいのです」
上座で落ちたその一言に、寄合の者たちが一斉に姿勢を正した。なるほど、たいへん俗で、たいへん効く。わたくしは危うく笑うところだった。
宗兵衛が頼みにしていた世間は、もう先ほどの顔ではなかった。
* * *
「蔵の名で……」
宗兵衛はそこまで言い、続きを失った。
同じ言葉のはずなのに、今度はひどく頼りない。十年間、お辰の耳へ届いていたのは蔵の由緒ではない。一寸半と二寸の違い、米の吸い、返す時刻、浅い蓋の癖。宗兵衛自身の声が、それらの一つも自分の口から出せないことを、部屋じゅうへ聞かせていた。
お峰が袖を強く引いた。宗兵衛の肩がわずかに傾く。
「志乃、おまえは……大女将と、いつから」
「毎朝、朝粥をご一緒しただけですわ」
「なぜ黙っていた」
「何をですの。御隠居のお名前も、ご身分も存じませんでした」
宗兵衛はお辰を見た。何か助けになる言葉を探したらしい。だが、お辰は椀のない膝へ両手を置き、待っているだけだった。
「嫁が、勝手に話したことで」
「窓の幅を、ですか」
「それは……」
「蒸米の按配を?」
「蔵の仕事です」
「ええ。ですから、どなたのお仕事か伺っております」
お辰の口調は変わらない。責める声ではなかった。事実は便利だ。怒鳴らなくても、置く場所さえ正しければ勝手に人の足を踏む。
寄合の面々の頷きは戻らなかった。ひとりがわたくしの指を見て、次の者も見る。個々の胸算用など知りたくもない。少なくとも今、彼らが見ているのは御用看板ではなく、わたくしの手だった。
胸の奥で、何かがきれいに裏返った。さあ、どうぞよくご覧あそばせ。十年ぶん、洗っても落ちなかった手でございます。
わたくしは麹蓋を脇へ抱え直し、畳へ手をついた。
「皆さまには、十年お世話になりました。本日の仕込みまで、引き継ぎは残してございます」
「志乃」
「麹番としての、最後のご挨拶です」
宗兵衛は手を伸ばしかけたが、お峰に袖をつかまれたままだった。わたくしは二人へ頭を下げなかった。寄合の面々へだけ礼をし、お辰へ向き直った。
「御隠居」
「はい」
「明日からは、窓の話ができません」
「次に起こしたときに、伺います」
昨日と同じ返事だった。
わたくしは立ち上がった。麹蓋一枚を抱えて歩くには、両腕が空いている。婚家へ置いていくもののほうが多いはずなのに、上がり框を下りる足は、来たときより軽かった。
* * *
町外れの借り店は、戸を開けるたび右へ傾いた。雨の日には左から水が入り、晴れれば奥まで日が差す。家主は「風通しがよい」と言ったが、あれは壁の隙間を美しく言い換えただけである。商いには言葉の技が必要らしい。わたくしも見習おう。これは傾いた店ではない。米の機嫌に合わせて風を選べる店だ。
最初の朝、麹蓋を一枚だけ台へ置いた。蒸した米を広げれば、店は急に狭くなった。一枚ぶんしか仕込めないのだから当然だが、その一枚ぜんぶが、わたくしの仕事だった。
米の山を崩し、指を差し入れる。吸いはよい。湯気が掌へまとわりつく。窓代わりの戸を少し開けると、朝の冷気が床を這った。
「二寸半。いえ、ここは風が抜けるから二寸ですわね」
答える者はいない。だから何度でも測った。見栄で借りた小さな店だが、見栄にも米にも家賃がかかる。働け、わたくし。粥代まで稼がねば、朝の楽しみが干からびる。
一枚が二枚になったわけではない。けれど、一枚から起こした麹を欲しいと言う人が、翌朝に一人、その次の朝に二人来た。味噌へ混ぜる者、甘酒を仕込む者、家で漬ける者。わたくしは米を増やせるぶんだけ増やし、増やせない日は頭を下げた。
婚家の名を借りることはなかった。店先の板には、ただ「麹」とだけ書いた。字が少ないぶん、風にも強い。看板まで倹約上手とは、我ながらたいした店である。
宗兵衛が裏口へ来たのは、霜の降りた朝だった。
戸を叩く音が妙に遠慮がちなので、わたくしは粉売りかと思った。開けると、宗兵衛が立っていた。蔵で見ていたときより肩が薄い。蒸米に換算するなら、水を吸う前。まだ使い道はあるかもしれないが、わたくしの蓋へ載せる米ではない。
「何のご用ですの」
「話がしたい」
「こちらで伺います。中は仕込み中ですので」
宗兵衛はわたくしの肩越しに店内を見た。台の上の麹蓋へ目が止まる。
「一枚で始めたのか」
「一枚しかございませんでしたもの」
「客がついていると聞いた」
「おかげさまで」
「蔵の味が変わったと、余計なことを言う者がいる」
「まあ」
「おまえが残した札の通りにやっている。だが、同じにならない」
「札には、米の顔までは書けませんから」
「なら、戻ってくれ」
朝の冷気が、宗兵衛の足元から店へ入り込んだ。彼は謝らなかった。離縁を撤回するとも、わたくしの十年がわたくしのものだったとも言わない。ただ、戻ってくれ。蔵の味へ、手だけ戻せという頼みだった。
「家へ戻れという意味ではない。麹だけ見てくれればいい。おまえも、こんな小さな店より——」
わたくしは戸へ手をかけた。
「あなた」
「何だ」
「麹の声は、嘘をつきませんので」
宗兵衛の口が閉じた。よし。御隠居からいただいた言葉は、朝粥より腹持ちがよい。
「仕込みがございます。失礼いたしますわ」
戸を閉めると、冷気が細い筋になって残った。わたくしは隙間へ布を詰め、麹蓋へ戻った。米は待ってくれない。夫は待たせても構わないが、もう待つ理由もなかった。
翌春、改めの日には、朝から風が山の側より吹いていた。
店の戸も、床も、麹蓋の縁も、わたくしは前夜に三度磨いた。二度で十分だったが、三度目は見栄である。見栄は背骨、そして時には雑巾を握る腕にもなる。
改めに来た者たちは、米を見て、香りを確かめ、控えの綴りをめくった。誰の紹介かとは尋ねなかった。わたくしも、お辰の名を出さなかった。窓を開け、閉め、米を返し、いつも通りのものを出した。
数日後、軒へ御用看板が掛かった。
婚家の蔵で見上げたものより小さい。新しい木はまだ白く、店の傾きに合わせると看板まで少し右へ上がって見える。けれど、そこに刻まれた印は、蔵の由緒にくっついてきたものではなかった。この店の戸の開け幅と、この一枚の麹蓋と、わたくしの手を見たあとで掛かったものだ。
祝いに何を食べるか、考えるまでもない。わたくしは店を早めに開け、朝粥の屋台へ急いだ。御用看板を眺めすぎて出遅れたので、粥がぬるくなっては一大事である。栄達より食欲。たいへん健全!
御隠居は、いつもの木綿の綿入れで座っていた。春になっても朝は冷えるらしい。隣には、わたくしの分の場所がいつもの幅だけ空いていた。
「おはようございます、志乃さん」
「おはようございます、御隠居。今朝は一椀ぜんぶ召し上がれますの?」
「はい。寄合もございませんので」
「それは何よりですわ」
椀を持つと、湯気が頬へ当たった。熱い。申し分ない。わたくしは一口すすり、やはり上顎を少し犠牲にした。
御隠居が笑う。
「御用看板、おめでとうございます」
「ありがとうございます。少々右上がりですけれど、店ごとですので」
「景気がよさそうで結構ですね」
「そういうことにいたしますわ」
お辰は椀をいつもの場所へ置いた。十年前から変わらない手つきだった。
「今朝の麹は?」
わたくしも椀を置いた。答えたいことが、きちんとひとつに収まっている朝だった。
「山の側を三寸ですわ。ええ、今朝は麹も粥も、たいへん素直でした」
ここまでお付き合いいただき、ありがとうございます。
作者ページには他の短編も並んでいます。よろしければどうぞ。




