1話 最近の二人
かつて電撃文庫で刊行されていたライトノベル「いぬかみっ!」の新作書き下ろしの連載です。
ちゃぶ台(貰い物で付喪神がついているため、夜になると時々、勝手にカタコト動く)で『小動物の骨・関節疾患』の教科書を開いてノートに色々と書き込んでいた川平啓太が、
「ふう」
大きく伸びを一つした。すると横合いからすっと白い手が伸びてきて、タイミング良く彼の前に湯飲みを置いた。ふわりと良い香りが彼の鼻をくすぐる。
暖かいほうじ茶と色気のある女性のほのかな甘い匂い。
「ケイタ、頑張ってるね」
その匂いの主、ようこは啓太の頬にちゅっとキスをした。啓太はわずかにくすぐったそうな顔をした後、
「まあ、もうじき前期テストだからな」
ようこの頭をかき抱き、髪をくしゃくしゃした。ようこは嬉しそうに額を啓太の肩に擦りつけ、そのままの姿勢でしばしぴっとりと彼に身を寄せる。
甘えている。
啓太はもう片方の手で器用にお茶を飲んだり、教科書を捲ったりしながら勉強を続けた。
川平啓太は現在、念願叶って獣医になるべく専門の大学に通っている。地頭は悪くない方なので最短の勉強で割とスムーズに合格できた。
タンクトップのシャツから突き出た逞しいゴツゴツとした手足にくしゃっとした硬そうな髪。それと野性味のある顔つき。二十歳を超え、少年ぽさは大分、減じているが、その目つきは昔と変わらず、生気に満ちて光り輝いている。
大型犬用の首輪をようことの契約の証としてつけている姿も健在だ。
一方のようこ。
メリハリのついたしなやかな肢体。妖しいまでの美貌。つややかな黒髪。かつての少女めいたあどけなさはほんのり残しつつも、全体的にただならぬ色気を纏ったオトナの女性にその身を変じている。
そしてその張りのある胸、丸みを帯びた腰元を無防備なダボダボのTシャツ(啓太が使っている男物)とデザインの古いミニスカートで包んでいる様が逆に成熟した外見に似合わない危ういエロティズムを醸し出していた。
ただその笑っているような、優しさと残酷さを同時に兼ね備えた切れ長の瞳はずっと変わらなかった。
こちらもまた啓太と同じように契約の証である蛙の形をしたチェーンを首につけている。
年輪は重ねたが二人の根っこの気質に変わりはなく、信頼も絆もより純然と深化していた。
二人は現在、とあるビルの屋上にあるペントハウスで暮らしていた。元々、住人のほとんどが逃げ出していた曰くつきの霊障物件だったのを、啓太とようこが依頼を受けて三日がかりで全て除霊したのだ。
結果、オーナーに気に入られ、タダみたいな値段で屋上を丸ごと借り切れるようになった。
家具の類いは必要最小限。
二人の気質と能力から多少の憑きものくらいはモノともしなかったので、勝手にガタゴト揺れる机の他にも、夜中になると引き出しが開いて白い手がひらひらと手招きするタンスや、時折、見知らぬおじさんが写り込み、恨み言を呟くテレビ(きつめに叩くと消える)などを様々な場所から貰い受けて、過不足なく使っている。
建物自体はプレハブ造りでなんとかかんとか二部屋と台所やリビングを確保できる程度の広さだったが、逆に屋上全体は庭代わりに使えて、ようこが洗濯物を干したり、啓太が野菜を育てたりするのに使用していた。
二人の日々は充足と共にゆったりと進んでいた。
そして、ひとしきり啓太に甘えたようこはすっと身を離し、
「じゃあ、そろそろ準備をするね。なでしことは久しぶりだからオシャレしてかないと」
今一度、啓太の頬にキスをし、バイバイしながら隣接する部屋へと去っていった。
啓太は「おう」と鷹揚に呟き、お茶をまた啜り、
「……」
そっと肉食獣の襲来を恐れるガゼルのように警戒心たっぷりに振り返る。ようこが部屋から出てくる気配はない。啓太はすっと携帯電話を取り出し、SNSを確認した。
(れっつ)
指を滑らす。
(バラ色のキャンパスライフ)
当然のように勉強だけが目的ではなかった。彼は大学でも様々な女子へのアプローチを続けていた。そしてその中でもやや脈ありな女の子とデートの約束まで取り付けていた。
ようこは線引きをしっかりしていて大学まではついてこない。なので、割とそこら辺に啓太の自由があった。
これから数時間、ようこがなでしことお喋りしにいく間が勝負だった。
確認すると、
『お茶くらいなら今日でもオッケーだよー』
という軽い返事がその子から来ていた。
「うひ」
啓太は慌てて口元を手で押さえ、漏れ出かけた声を封じる。
急いで返信をしようとしたところで、
「ケイタ、ねえねえ、どっちが可愛いかな?」
ぴょんと隣の部屋から満面の笑みのようこが飛び出てきて、片足つま先立ちでくるっとターンした。ピンク色のパンツとブラジャーのみのあられもない格好で、両方の手にそれぞれタイプの違うワンピースを持っている。
どうやら啓太に今日着ていく服の参照意見を貰おうというかわいらしい意図らしい。
だが、啓太は、
「ひっ!」
分かりやすく動揺し、携帯を放り投げてしまった。それが啓太とようこの中間地点くらいまですうっと滑っていく。
「……」
「……」
啓太はへらへらと取り繕うように焦った笑みを浮かべてようこを見て、ようこは冷たい半目でじっと携帯を凝視した。そして無言で歩み寄り、しゃがみ込み、携帯を取り上げ、画面を確認する。
やがてなにもかも察したのだろう。
「ふ」
ようこが髪を掻き上げ笑った。それからゆっくりと啓太を振り返り、優しい声で言う。
「ねえ、ケイタ?」
「は、はひ」
啓太は座ったまま、背筋をぴんとさせた。
ようこは下着姿のまま、ゆっくり近づいてくる。
四つん這いでにじり寄るように。
「わたしねえ。最近、ギジュツコモン、と色々と研究して〝しゅくち〟をもっともっと改良できたんだ」
「ほ、ほへえ?」
怖くて変な声を発する啓太。スタイルの良過ぎる絶世の美女が乾いた笑みを浮かべながらにこにこ這い寄ってくるのはなかなか絵面的にインパクトがある。ようこはふふふと笑いながら言う。
「げんてー条件だけど、思いっきり遠くへモノを飛ばしたり出来るようになったの。たとえばなんきょくに行くじえーたいの船とか、地の底の底の洞窟とか、じんこーえいせいの中とか」
ようこは啓太に近づき、正面から抱きついた。白い二の腕を啓太に首に艶っぽく絡ませ、
「ケイタがオイタするようならどこか遠い、遠いところにケイタを閉じ込めないとね?」
それからあーんと口を開けた。まるでキスするように。
白い歯。
犬歯の奥。赤い喉を丸ごと啓太の眼前に見せつけるようにして宣告する。
「ねえ、ケイタ」
浮気したら。
食べちゃうよ?
カチッと歯を鳴らし、口を閉じる。デモンストレーションとしては充分だった。啓太はますます背筋を屹立させ、ブルブルと震えた。
完全に取り込まれている。ようこの生涯の相手として逃げ道を塞がれている。
いわば雁字搦めの愛に未来を強制的に限定されている。
啓太は震え続けた。
彼の脳裏に浮かんだ言葉はたった一つだった。
(さすが俺が選んだ女だぜ!)
恐怖の中に感嘆があり、自分のパートナーへの賛辞がある。やっぱりようこは普通じゃない。
このままようこの思惑通り彼女だけを見続ければそれはもう確実に幸せだろう。やや癇癪持ちなきらいはあるが、ようこは女性として完璧に近い。
基本的には優しいし、とびっきり美しい。家事能力も今や啓太を遙かに上回っている。
ずっとようことだけ過ごしていれば良いのだが。
「く」
啓太も笑った。
「くくく」
笑い返した。
それが出来ないから川平啓太なのだ。
反逆の性。
「ようこ?」
啓太は告げる。
「技がレベルアップしたのはなにもおまえだけじゃないんだぜ?」
そしてさりげない動作で文机の引き出しを開けると中から蛙の消しゴムを幾つか取り出した。
それをぴっと指に挟み、扇状に広げる。
「蛙よ」
あまりにもスムーズな動作だったのでようこの対応が遅れた。
「煙と化せ!」
すん、と小さな音だけが鳴った。次の瞬間、辺りの視界が一瞬でピンク色の染め上がる。
理解が追いつかないが、啓太の身体の感触だけぬるりと自分から離れたのは分かった。
パニックになり、左右を見回し、ようやく把握した。
部屋中をピンク色の煙が充満しているのだ。一秒未満の間に啓太は依り代となる蛙を濃厚なピンクの煙幕に変えて見せた。恐らく相手の視界を奪い、逃走するために特化した術なのだろう。
ようこは驚愕した。
「こ、こんな」
隠し球を持っていたのか。
ただ他の女の子とデートするためだけに!
それを使う。しばし呆気にとられていたようこはやがて思わずぷっと吹き出した。
(さすがわたしが選んだ男!)
あはは、と笑う。面白い。やっぱり啓太は面白い!
(だけど)
ようこはピンクの煙の中で目を輝かせる。
「まだ甘い! 絶対に逃がさないから!」
指を一本立てた。
「しゅくち!」
ひゅおっと強力な排気システムが作動するような音がして煙が天井の一点に吸い込まれ、かき消えた。プレハブの室内を濃厚に満たしていた煙幕を微粒子一つ残さず全て外へ一気に排出したのだ。術の精度は以前よりもさらに冴え渡っている。続けてその立てた指を下方に振るう。
「しゅくち!」
今度は逃げ出した啓太を呼び戻すべく次の術を発動させる。ようこが行っているのはかなり高度なことだった。まず啓太の気配を補足する。
彼は驚くべきことにこの一瞬でビルを駆け下り、公道に飛び出し、全速力で繁華街へと向かっていた。移動速度と敏捷性は人間離れしていると言えよう。おまけに小憎らしくも霊能者らしく気配を断っている。
だが。
ようこの方が遙かに上手だった。あっさりと術に囚われ、啓太の実体がこの部屋へと転送される。しかも彼は超高速で走っている最中だったので急に止まれない。そのままの速度で柱に激突し、
「ぐば!」
思いっきり顔や腹を強打した。家がしばしギシギシと揺れるほど大きな衝撃が走った。啓太は痛みのあまり転げ回っていた。自業自得なのと啓太は丈夫なのでようこはあまり心配していなかった。それより少し呆れている。
啓太は一体どうやったのか先ほどのヨレヨレの部屋着からビシッとしたジャケットにオシャレなズボンへと早着替えを果たしていたのだ。おまけにどこから入手したのか手には薔薇の花束を握っている。
もはや奇術や妖術の領域だ。
「ケイタ?」
啓太がまだ痛がっているのでようこは啓太の傍らにしゃがみ込み、
「可哀想に」
にこっと笑う。
「今日は家で安静にしてようね? ね?」
振り返った啓太がひいっと声にならない悲鳴を上げた。
十分後、身支度を調えたようこが部屋を出て中を振り返った。
「じゃ、ケイタ。行ってくるね~」
手には啓太から徴収した薔薇の花束を抱えている。なでしこにでもあげるつもりだった。さらにしっかりと啓太の携帯から今日のヒトにお断りの連絡もしておいた。これも啓太のパートナーの役目だ。
ばいばい、と中腰になって手を振る。それから前に向き直り、上機嫌に鼻歌を歌いながら後ろ手で扉を閉めた。啓太の喚く声が背後から聞こえてきたが気にせず、身軽な足取りで階段を降りていった。
慟哭にも似た啓太の叫び声。
「ちくしょー! せめてこれだけなんとかしろ! トイレにもいけないぞ!」
ちらりと閉まる寸前の扉から見えた景色では。
川平啓太がとんでもなく太い鎖でがんじがらめにされ、ベッドに縛りつけられていた。




