第3話
いよいよ最終話です。
通路はずっと続いていた。同じような壁と天井と床を見続けていたせいか、私は本当に前に進んでいるのか不安になってきた。段々と呼吸は浅く苦しくなり、足元は妙に軽く、歩いているという実感を失いかけていた。私の本当の体は、例えば自宅のベッドに眠っていて、夢か幻の中で歩いているような感覚だった。いくつかの角を曲がり、数段を上り、下り、しかしついに通路の終わりに到着した。改札口で駅員が、改札鋏を持って立っている。私は水色の封筒から切符を渡した。
「まもなく発車しますので、車内でお待ちください」
男は帽子を目深にかぶっており、顔の下半分を覆っている赤みがかった髭だけが見てとれた。その口元がわずがに笑ったように私は思った。
電車は二両編成だった。私が乗った車両には、数人の乗客がいた。膝の上に黒い猫を乗せた年配の婦人。そっくりな顔をした二人の幼い女の子。セーラー服の少女は、金色のバラの花束を抱えていた。
――つまりあれは、ゴールドローズということか。
彼女も僕の花束に目が留まったようだった。かすかに、シルバーローズと声が聞こえたような気がした。
「まだ出発しないのか。今日はずいぶん遅いじゃないか」
不機嫌そうな男の声がした。確かにこの車両の中から聞こえたのだが。
「最後のお客さんが乗ったようですから、もうすぐですよ。それが決まりなのは知っているでしょう」
婦人はなだめるように、猫の首をなでた。黒猫は渋々納得したように、それ以上は何も言わなくなった。
やがてベルが鳴り、電車は走り出した。都会の中を濠のように深く刻まれたレールの上を、流行と騒々しさから二両編成は離れていった。
「楽園行きの、電車にようこそ」
双子が声を揃えて歌い始めた。
「そこは世界の果ての、そのまた果てに」
「微笑むだけで、世界は揺れる」
双子は老夫婦に微笑みかけた。婦人は優しい笑みを返した、黒猫はにゃあと、ひとつ鳴いた。
「口づけしたなら、世界は変わる」
双子の一人は、ふざけてもう一人の頬にキスをした。
「ゴールドローズは、未来への贈り物」
双子は少女を見て歌った。そして、
「シルバーローズは、過去への捧げ物」
乗客たちはみんな僕を見つめて微笑んでいた。僕もつられて笑った。上手く笑えたかどうかは、分からなかったけれど。
「さあ境を越えて、世界の果ての、そのまた果てへ」
車輪の音が大きく響き、鉄橋を渡っているのが分かった。
「楽園へようこそ」
電車が止まった。ドアが開き、目的の駅名を告げるアナウンスが聞こえた。降りたのは僕と、ゴールドローズの少女だけだった。彼女はホームの端にある階段を上っていった。僕は彼女の後を追った。彼女もたぶん、同じ美術館に行くのだろうという気がしたのだ。しかし階段を上り切った先に少女の姿はなかった。仕方なく僕は駅員に、美術館への行き方を聞いた。
「改札を出て左へ。坂を上ってトンネルの中へ」
そこまで行けば分かると、駅員は事務所のドアを閉めてしまった。僕は教えられた通りに、坂を上り始めた。道の片側は崖がそびえ、反対側は竹林で先が見えなかった。道はこのまま山へ続いていくみたいだった。次第に汗が出てきて、僕はポケットを探った。しかしハンカチは入っていない。そういえば、机の上に洗ってきちんと畳んでおいたのを、僕は持たずに出てきてしまったのだ。あきらめて袖で額を拭い、僕は歩き続けた。
トンネルの入り口は狭く、車一台がやっと通れるくらいだった。僕はまた、狭い所を延々と歩かされる予感にうんざりしながらも、中に入った。ありがたいことに、道はすぐに上りから平らになり、涼しくて汗もひいた。緩やかなカーブを過ぎると、壁の色が変わっているのが分かった。一面に赤いバラが咲いているのだ。やがて壁の一部に人が立って通れるくらいの穴が開いている場所に着いた。南美術館という看板が脇に立てかけてあった。
僕はさらに狭いそのトンネルに入り、擦れそうなところまで伸びている棘に気をつけながら、甘い香りの立ち込める中を進んで行った。
やがてバラのトンネルは階段になり、たくさんのバラが植えられた庭園の真ん中に、まるで隠し通路のようにつながっていた。庭の一方には白い洋館が建っていた。他に建物は見当たらず、僕はそこへ向かった。入り口の扉は開いており、僕はそのまま玄関ホールに入った。
中には誰もいなかった。本当にここが美術館なのだろうか。僕は不安になりながら、声をかけた。すると上の方でドアの音がして、二階につづく大階段から白いロングドレスを着た女性が下りてきた。黒い長い髪に、大きな目が緊張したようにじっと僕を見つめていた。メガネはかけていなかった。
「南さん、だよね」
彼女は僕のところまで来ると、いきなり頭を下げた。
「ごめんなさい。突然あんな手紙を送ったりして。唐突というか……迷惑ですよね、あまりお話をしたこともなかったくせに、あんな手紙を」
あの手紙の文面から想像していた現在の加賀美の姿とまるで違う、気の弱そうな当時のままの彼女だった。あの頃も理由はなんだったか、こんな風にずっと謝り続けたことがあったのを思い出した。
「いやいいんだよ。迷惑だなんて全然思わなかったし、絵が好きだから、送ってくれてありがとう」
僕が言うと彼女は驚いた顔をして、それから目を伏せてしまった。
「ああ、チケットを渡さないとね」
彼女は目を合わせずに、自分が送ったチケットを受け取った。
「まだいろいろ準備が出来ていなくて、カウンターとかも。ごめんなさい」
僕は差し入れの菓子を加賀美に渡し、花束を差し出すと、
「あ、シルバーローズ。でもそれは……もう少しそのまま持っていてくれた方がよいと思います」
彼女はまた申し訳なさそうな顔をした。
それから僕は加賀美に案内されて二階に向かった。階段は踊り場で左右に分かれ、僕たちは左の階段を上り、小広間に出た。加賀美はそこから左手の廊下に僕を誘った。
僕は、右の廊下の途中に、壁の絵を見つめているあの制服姿の少女を見つけた。ここからはどんな絵かは見えない。少女に近づこうとすると、加賀美に腕を引かれた。
「あちらに行ってはいけません。今はまだ」
それはさっきとは違う、まるであの手紙から感じたような預言者めいた口調だった。
「あなたに見せたい絵があるのはこちら」
加賀美は僕を、一枚の絵の前に立たせた。
あれは職場の同僚との酒の席だった。初めて好きになった相手について話をしていた。面白おかしく失恋や惚気話をする同僚たちの前で、僕はただの片思いだったと嘘をついた。本当のことを話して、馬鹿にされるのが嫌だったのだ。
高校生の頃、彼女に会いに毎日のように図書室に通い、彼女の載っている画集を開いていたなんて。
それは彼女の絵の実物だった。淡く温かいオレンジ色の背景の前で、座りながらこちらを見つめる少女。その面差しに、あの頃の僕は恋をしていた。そして、今も。
「違う画集を開いても、あなたはすぐに閉じてしまって、彼女に会っていたんだよね。あの頃、毎日」
僕は加賀美の言葉に頷いた。絵の中の少女も、それに恋をしていた自分も、虚しく馬鹿げていると封じ込めて生きてきたのだった。そして、いつの間にかそれを忘れてしまったのだった。
「あれがあなたの初恋だった」
僕は声を出すことができなかった。何かを話そうとすれば、きっと想いが一気に溢れてしまうだろうから。
「ゆっくり見ていってくださいね。もしあなたが望むなら、いつまでも」
加賀美は僕に微笑みかけて、花束から一本だけシルバーローズを抜いて、立ち去った。
――シルバー・ローズは過去への捧げ物
いま僕は気づいていた。この魔法の花があれば、僕は願いを叶えることができるのだということを。この現実を捨て、初恋の人と永遠に寄り添うことができるということを。
少女は姿を消していた。彼女の見ていた絵には若い男と、ウェディングドレスを着た女が並んでいた。二人の重なった手には金色のブーケが握られ、そこから零れたかのように金色のバラが一輪、床に落ちていた。
私は庭を歩いていた。やはり止めることはできなかった。高校生の頃、私は生まれて初めてある同級生に恋をした。しかし彼には他に愛している女性がいた。その相手がどんな存在であれ、その恋を私は妨げることができなかった。
「本当にこれで良かったのかい」
赤い髭の背の低い男が、慰めるように私の肩に手を置いた。私は頷いた。
「彼を連れてきてくれてありがとう。本当に私は……」
私は銀色の花を空に掲げ、彼の面影を想った。そして目を閉じて、彼が歩いてくる幻を夢に見た。
――ゴールド・ローズは未来への贈り物
さようなら、私の初恋の人。
そして館の扉を閉めるために、私は目を開けた。
そこには。
あなたの微笑みは、私の世界を揺らし
あなたの口づけは、私の世界を変える
彼は私に、金色のバラを差し出してくれた。
こうして一つの初恋は終わりを告げました。読んでくださったみなさんの心に、何かしらの印象を残すことができたのなら幸いです。




