第1話
連載にするほどの分量でもないのですが……少しずつ書いていきます。よかったら読んでみてください。
電車のドアが開いた。
ホームに降りた私は、スマートホンを落としてしまった。拾おうと身を屈めた瞬間、体の中を何かが吹き抜けた。朝、出かける用事を忘れていたことに気づいたような一瞬の血のあわだち。すべてがうまくいった一日の終わり、部品が溝に収まったような心地よさ。自分がいま、確かにここにいるのだという実感が満ちてゆき、私はゆっくり立ち上がった。
乗客のほとんどは会社員だった。みんな仕事帰りなのだろう、改札口に通じる階段へ群になって流れていく。朝でもないのに、どうして急き立てられていくのだろう。成人のお祝いに親戚から贈られたスーツを着て、半年前に別れた恋人が選んでくれたネクタイを締めた私も、さっきまであの群の中にいたのだ。
私はベンチに腰かけた。電車は駅を出て、次が来て、また会社員の群を降ろしていった。その繰り返しは、人間の営みというより、工場の生産ラインだった。しかし、この場においては異質なのは、行くあてもないかのように座っている私の方なのだ。
向かいのホームの壁には、美術館のポスターが貼られていた。私にとって、絵画を鑑賞する場所は図書室だった。高校生の頃、昼休みになると図書室へ行って画集を開いた。有名な画家の作品はほとんど見たはずだ。高校を卒業して働き始めると、絵を見ることはなくなった。美術館に行ったことはある。恋人に連れられて、二時間の入場待ちの後で見た有名画家の日本初公開作品に、私はさほど感銘を受けなかった。他の作品を見ても、これが画集で見た絵の実物かと、まるで答え合わせをしに来ている感覚になった。それからは美術館に行かなくなった。やはり高校時代の、あの図書館でなければいけないのだ。なぜならあの場所には……
スマートホンが震えて、メールの着信を知らせた。職場の上司からで、明日の朝、早急に対応して欲しいという業務についてのメールだった。
これがいま身を置いている現実なのだ。
私はゆっくりと立ち上がり、階段を下りた。自動改札を出ると、学習塾のビルの一階に入っているコンビニエンスストアで夕食を買った。トマトソースのリゾットに、チキンのトマトソース煮、トマトとモッツァレラのカプレーゼ。見事にトマトづくしだが、女子大学生風のアルバイト店員は当然、そんなことを気にかけもせず、レジの仕事を済ませた。
商店街を抜けると、右に公園がある。ここを抜けると家への近道だった。数か月前、歩いていた女性が切りつけられる事件が起きて以来、夜になると人の姿はほとんどない。今夜は珍しく人とすれ違った。ファンタジー小説に出てくるドワーフのような、背が低く、体格のいい顎髭が豊かな男だった。私の横を過ぎるとき、男はこちらを見て笑ったようだった。事件のこともあって、私は警戒しながら通り過ぎた。もちろん襲われるようなことはなかったが。
自宅のアパートに着くと、郵便受けを開けた。チラシやダイレクトメールに交じって、水色の封筒が入っていた。宛先も差出人名も書かれていない。そのくせ厳重に糊で封をしてあった。まるで誰かが直接、郵便受けに入れたようだった。さっきのドワーフ風の男が頭に浮かんだ。私はそれを自分の部屋に持って行った。なぜだか分からないが、悪意のあるものを水色の封筒に入れないだろうという確信が心に浮かんだのだった。
トマトづくしの夕食とビールをテーブルに並べ、録画しておいたテレビドラマを再生した。しかし、どうしても水色の封筒が気にかかった。結局ドラマの内容もまるで身に入らず、意を決して封筒を開けてみることにした。中にはチケットと電車の切符、手紙が入っていた。
手紙には私の名前が書かれており、あなたがきっと気に入ってくれるだろうと思って送らせていただきました、と続いていた。末尾には、南加賀美と書かれていた。差出人の名前だろう。
チケットは美術館の招待券だった。初恋の絵画展、という企画らしい。聞いたことのない美術館の名前が小さく印刷されていた。電車の切符はJRのターミナル駅から美術館の最寄り駅までの区間のものだった。
――みなみかがみ。
誰だろう。ちょっと不思議な名前だ。みが多くて、苗字みたいな名前。
――よく言われるんだ。苗字と名前が逆みたいだねって。
図書室で笑っていたメガネのレンズいっぱいの大きな目が蘇った。南加賀美は高校の同級生だった。
しかし、それほど親しかったわけではない。なぜ、突然、こんなものを送ってきたのだろう。
私は彼女の手紙と招待券をしばらく見つめ続けた。




