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ロバート&ニキータ 2

 トレチャコフ美術館のホール、ヴルーベリ作『幻の王女』を背景に対局場は設えてあった。ロバートがここでアーロンとエキシビジョンをやった時と異なるのは、観客席はなく、たくさんのカメラが並んでいて、真っ暗なホールの中で対局机だけが数条の光で照らされれいることだ。

 セコンドやその他の選手付き添いのスタッフは別室でモニターの画面で対局を見守る。真田やヴィクトールを始めとするスタッフ達は元々レストランとして使われている場所にいた。大きなモニターが何台も運び込まれ、そのモニターに合わせて丸いテーブルと座席が配置されていた。

 ほとんどのテーブルがロシア人で占められる中、隅のテーブルに真田とラモスはいた。

「もうすぐだぞ真田君!」とラモスは観客のように興奮して言った。

「私たちはこれから歴史の目撃者になるんだ!」

「ええ、そうですね」

 と真田は微笑で答えた。

『俺の役割は......、あの二人をこの場所に導くことだった。後は見守るだけだ。たとえ、ロバートが王者になれなくとも......』

 真田がロシア選手団の方を見回すとヴィクトールと目があった。彼らこちらを見て手を挙げて微笑んだ。真田は小さく会釈をした。



 ロバートは大会スタッフと共に控え室にいた。ニキータとの対面は対局の時が最初になるようだった。やがてスタッフに促されて対局場へと歩いた。歩きながら、初手を指す時までは会場に記者とカメラマンが入っていると説明を受けて、彼は身に付けているグレーのスーツの襟を正した。

『やっとここまで来たんだ』とロバートは対局場までの暗い道を歩きながら思った。

『だと言うのに、何だ? この落ち着きようは......。まるで闘志というものが湧いてこない。まるで......小学校の時の簡単なテストに臨むような......』

 対局場に着くと、けたたましいカメラのフラッシュがロバートを迎えた。ニキータは既にスタッフに付き添われ、対局机の前で待っていた。華奢な体格に合わせて作られたオーダーメイドのタイトな漆黒のスーツが輝いた。

 机を挟んで二人は向かい合った。ニキータは手を後ろに組んで、片足に体重をかけて斜めになっていた。彼はロバートを見て、頭をさらに斜めにして微笑んだ。

「Здравствуйте(ズドラーストヴィチェ) Как дела?(カーグ ジュラー)」

 ニキータは、こんにちは調子はどう? と言った。

 ロバートは微笑し、

「Неплохо(ニプローハ)」

 まあまあだと言った。

 スタッフの手に促されて、ニキータは白と黒のポーンを一つずつ手に取った。それを一旦後ろ手に隠し左右の小さな拳に握って、前に突き出した。ロバートはやや前屈みになって、鼻を掻きながら、ニキータの左の拳を指差した。ニキータが左の拳を開くと黒のポーンが出てきた。ロバートは第一局黒番を持つ。

 二人は席に着いてスコアにそれぞれサインをした。そこは薄暗く静寂だった。カメラのフラッシュを焚く音、息づかい、咳払い、紙にペンを走らせる音、服の生地が擦れる音......、全ての音が張力によって支えられる水のように震えて緊張していた。

『もう我慢しない』とニキータはロバートを見て思った。奥まった目からのぞく知性的な男性の目つき。皮の薄い鋭利な頬。

『ロバートはきっと全部受け止めてくれる』

 ニキータは机に肘をついてこめかみをを指で支えた。こめかみに爪が刺さる痛みが心地良かった。

「始めて下さい」

 審判が言った。

 ニキータは机から肘を離し、髪の毛を指で耳にかけた。eポーンの頭を掴み、たどたどしい手つきでe4と指した。まるで初めて異性の体に触れる、初々しい年若い者のような緊張した手つきで。フラッシュに照らされる中、彼は上目遣いの微笑でロバートの顔をうかがった。

 ロバートは記者達がいなくなるのを待っていた。机に半身を乗り出し盤上に目を落とし、顎を撫でつつ周囲をうかがっていた。やがて対局場にニキータと二人になった時、ロバートはd6と着手した。



 モニターで対局を見守る者達は予想を裏切られた。ラモスは真田の耳元で囁いた。

「真田君、なぜロバートはシシリアンディフェンスを採用しない?」

「わかりません」と真田は答えた。彼もロバートはニキータのe4に対してはc5とシシリアンディフェンスで応じると信じて疑わなかった。

「様子見? なんてするような相手ではないだろうに......」

 二人が話していると、ヴィクトールが二人の机に近付いて来た。

「やあ、c5と指さないとは裏切られたよ。こちらに座ってもいいかい?」

「ええ、どうぞ」と真田は椅子を引いた。

 ラモスは前世界王者が来たことに驚いた。ひとしきり親愛の口上を述べた後、ビジネスマンの弁護士らしく名刺を交換し合った。

「なぜこちらに?」とラモス。

「真田君との方が検討が捗ると思ってね」とヴィクトールは言って、真田の方を見た。

「君のプレースタイルは......ショウギ由来だが、ロバートの影響も大きいのだろう?」

「ええ、ですが、復帰してからのロバートの指し手は私にも読めませんよ」

「ふふ......キャンディデイトを見ていたが、私も読めない......」

 ラモスは談笑する前世界王者とワールドカップ準優勝者をポカンと見ていた。

「二人は......その、随分と親しいようで」

「ええ、真田君は私の囲碁仲間なんだ」ヴィクトールの言葉に真田は苦笑いした。ヴィクトールは声をひそめて「まあ、真田君は私よりもアレクサンドラと親密なようだが」と言った。ラモスはアメリカ人らしく、ワオッ! と驚きの声を上げた。

ロシア語の発音って可愛いくてセクシーですよね。

英語の次に勉強したい言語です。

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