ロバート&ニキータ 1
キャンディデイト決勝もロバートはストレートで勝利した。会場を去る時、観客と報道陣の拍手と歓声で送り出され、外では真田とラモスの手配した車に迎えられた。
数日間ひとしきり騒いだ後、ロバートはホテルにいた。夜のニューヨークを奥に写す、半ば鏡になった窓にもたれて、彼はチェス盤を前にしていた。ニキータとのタイトルマッチを控え、研究を進めようとしていた。しかし、ロバートの手は止まっていた。
「ロバート、君の勝ちだよ」と決勝の席でアーロンは言った。「もう我々と指してもつまらないだろう。ニキータも同じだ。あいつの相手をしてやってくれ」
『いったいこの一年以上で何があった?』
とロバートは考えた。余計な言葉を投げてくるのはアーロンらしい。しかし、その内容が彼らしくなかった。全面降伏ともとれる内容。そうだ、対局前にも妙なことを言っていた。
『つまらないな......』
とロバートは内心独り言を言った。
レオニードを6-0で降した時はあれだけ躍っていた心も、準決勝になれば平静だった。決勝、張り合いが感じられなかった。国際トーナメントで時々はるか格下の実力の選手とあたることがあるが、その時の感覚だった。石の壁だと思って蹴飛ばしたら、発泡スチロールの壁だったような、過剰に込めた力の虚しい蒸発。
携帯電話が鳴った。真田からのメールだった。
『これから夕食の予定だが、一緒にどうだ?』
というものだった。
これにロバートは電話で、食事は一緒にルームサービスを取ろう、練習対局をしてほしいと伝えた。
やがて真田が来て共に食事を取り、二人はチェス盤を挟んだ。
「サトシの実力はどれくらいだ?」
とロバートが言った。
「今は、ワールドカップのおかげでランキングはかなり高いが......実際は世界ランク五十位相当あれば良い方だろう。あの時は勢いで勝ったようなもんだ」
「そうか......サトシは持ち時間五十分で、俺は十分でいい。本気でやってくれ」
「ああ」
二人は四局を済ませた。全てロバートの圧勝だった。真田はヴィクトール戦で見せたような仰天手を読まなかったわけではない。彼はワールドカップの時と同じように全力で挑んだ。彼には仰天手からの勝利手順も見えたが、ロバートはそれを当然のように読んでいて完全に彼を押さえ込んだのだ。
対局後感想戦をしながら、真田は、
「見ているのと実際に対局するのでは全然違うな」
と言った。彼はロバートの顔をチラと見た。目を伏せて盤上に集中していると言うよりは、何かに悩んでいるという風だった。
「サトシ、ここから、この手順は見えなかったか?」
「いや、見えない。これで何になる?」
ロバートは真田に局面の説明をした。ロバートの言葉に、真田は感心するばかりだった。
「また明日来てくれ」
とロバートは真田を見送った。真田は会社を出たら、すぐに来ると言った。
十一月になった。チェス世界タイトルマッチはモスクワのトレチャコフ美術館で行われる。かつてロバートがアーロンとエキシビジョンマッチを戦った場所である。
世界チャンピオン、ニキータの引き連れる団体は荘厳なものだった。セコンドには前世界チャンピオンのヴィクトール、世話役に女子チャンピオンのアレクサンドラとニキータの父セルゲイ、医療関係者の一団、そして名目だけの研究チームとして世界トップランカーのロシア棋士達。
漆黒の光沢を放つ十数台程のリムジンの一列が美術館前に着いて、そこから高級スーツに身を包む見るからにインテリな集団が降りてくる様子は壮観だった。チェスを知らない呆けた行きがかりの者などは、大統領が来ているのかと勘違いした。
それに対しささやかな挑戦者一行が美術館に車を乗り付けた。くすんだ一台のタクシーから降りてきたのは挑戦者ロバート、セコンド真田、代理人ラモスの三人だけだった。
「これが団体戦なら」とラモスが皮肉な微笑を浮かべて言った。「我々は厳しいぞ。たった三人だもんな」
彼らはタクシーからチャンピオン御一行の到着を見ていたのだった。
赤い壁から突き出た三角屋根の城門のような扉。中世から近世にかけての城のような造りにモダンなガラス貼り構造を持った美術館は見事だった。これを見て真田は一人歓声を上げた。
「やっぱりロシアの文化ってのは良いもんだな。会場がロシアで良かった」
「ラモス」とロバートが言った。「裏切り者が出た。二人になっちまった」
一行は笑いながら門に向かって歩き出した。
ロバートはモスクワの冷たい澄んだ空気を頬に受けても自分の熱っぽさを感じなかった。
『今の俺は冷たいようだ......、全く、らしくもない!』




