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ロバート インモータル 6

 ロバート・フリッツvsレオニード・ザハロフのマッチに世界中のチェスマスター達は驚愕した。

 6-0でロバートが勝ったことは、前回のキャンディデイトを踏まえれば十分に予測はできた。世界を驚かせたのはロバートの指し手だった。レオニードは優れた序盤研究家として有名である。彼はこのマッチで惜しげも無く新手を披露したが、ロバートはこれに逆新手で以て応じたのだった。研究勝負で敗れたレオニードは定跡を外した力戦で挑みもしたが、それは余計に歯が立たなかった。

『これはまるで......』とレオニードは思った。『まだ初心者だった子供の頃に、年上の実力者にいいように遊ばれた時の感覚だ。全部見透かされている』


 これまでロシアンプレーヤーから見るロバートのチェスは、どこか鋭利な刃物を持った狂人というきらいがあった。斬れ味は一流なのだが、時々何もかも顧みないような強引過ぎる踏み込みや脆さがあった。彼はその脆さに付け込まれた時に勝ち星を逃していたのである。

 しかし今やどうか! 強引さや脆さはなく、その指し手には一切の濁りも夾雑物きょうざつぶつもなく、澄明ちょうめい明晰めいせきに相手の命を取ること、その一色しか見られなかった。


 続く準決勝もロバートは6-0で勝利を納めた。ロシア棋士達はロバートの指し手の研究を急いだ。


 ヴィクトールはモスクワチェススクールへと呼ばれた。決勝を前に、ロシア棋士達で対ロバートの研究をするためである。彼は準準決勝で敗れたレオニードも参加すると聞いていた。

『これじゃあまるで......チームニキータ、いやチームロシアという所か』

 とヴィクトールはシニカルに思った。

 彼は確信を持って知っていた。ニキータのために我々がしてやれることは研究することではない、放っておくことであると。


 城のような建物のスクールは昔から変わらない。ヴィクトールは入口を通ると、ここに通い始めた子供の頃を思い出した。

『まさか世界チャンピオンになり......その座を奪われた自分という存在を、少年だった私は認識できるだろうか?』

 石造りの床も壁も何も変わっていない。かつていたずらで彫刻刀で削った箇所はどこだったか思い出せない。小学生時代の友人が愛用していた席があった。ヴィクトールは彼を負かす度にその椅子に数え棒などを刻みもしたが、さすがに椅子は交換されている。気に入らない講師を困らせるために、キングの駒をくすねて何個か石の隙間に押し込んだこともあった。きっと探せばまだ残っているだろう。


 研究会はおざなりだった。ロシア棋士達は「わからない」を連呼した。コンピュータ解析をするも、コンピュータがロバートの指し手を見つけるのには時間がかかった。直後は疑問手と判定するも、読み手が深くなると評価を一変させたりした。

 レオニードが「まるで何十年も未来のチェスを見せられたみたいだった」と語ったのはヴィクトールの気に入った。

 彼は研究会に使われている部屋を出て、ニキータの父、セルゲイ・コトフに電話をした。彼は仕事が休みだった。

「やあ、ヴィクトールです。ニキータ君は今どうしてますか?」

「ええ、かなり熱心にロバートの準決勝の棋譜を並べてますよ」

「なるほど。それは興味深いが邪魔はできないですね。日を改めてまた連絡します」

「ええ、どうも」

 ヴィクトールは電話を切ると、そのまま部屋には戻らずに帰ってしまった。


 セルゲイは電話を終えると、居間でチェス盤を前に手を泳がせているニキータを見た。セルゲイは少し嘘をついたのだった。ニキータは熱心というよりは恍惚としていたのだ。

『もう少しだ』とニキータは思った。『ロバートならきっと最後までついてこられる! 一緒に終局を演じられる! 僕は前に願ったんだ。僕と終局を演じられる者がいるなら、キスをしようって』

 ニキータは下腹部から走る寒気に膝を寄せて、身をよじらせた。皿の上に乗っているチョコレートを手で掴めるだけ掴んで、口に放り込んだ。



 挑戦者決定戦決勝の朝、ロバートは会場の廊下で対局相手のアーロンと出くわした。アーロンは窓から見えるビル街を眺め、タバコを噛んでいた。

「ここは禁煙だぞ」

 とロバートが親しみ深さを装って声をかけた。

「火はつけてない」とアーロンは口からタバコを外して、ロバートにタバコを近付けた「咥えてるだけさ」

「タバコはそんなに良いものか?」

「良いもんじゃないさ。止めたくたって止められないんだ」

「ほう」

 やや沈黙があって、アーロンが口を開いた。

「これは自惚れというわけじゃないんだが、君にとって俺は...棋士アーロンは感慨深い相手か?」

 ロバートは腰に手を当てて、眉を吊り上げた。

「どこが?」

「ははは、俺は棋士ロバートが最初に手合わせしたロシア棋士だろう。トレチャコフ美術館でのブリッツ(早指し戦)を覚えてないか?」

「覚えてるさ。余計な一言を言いやがって」

 アーロンはまた笑った。

「あの頃のロバート・フリッツはまだ可愛げがあったな。こいつが世界チャンピオンに挑戦するときは、俺が王者として立ちはだかってやろうと思ってた。それが今はどうだ? 一段低いステージだぜ」

「そうだな。ヴィクトールの後釜がニキータなんていうガキだったのは、俺も予想外さ」

「棋譜を......」とアーロンは言った。

「君の棋譜を見たよ。ロバート。親切にも、モスクワチェススクールの連中の分析付きさ。どうやってここまで......?」

 ロバートはアーロンの横顔を見た。アスリート特有の勝負に挑む目つきは見られなかった。

『負けを認めているのか? こいつが?』

「ああ......」とロバートは言い淀んでため息をついた。「偉大なマスター、そう俺達だってかつては初心者だった。どこまで行くにも辿る道は一緒さ」

 ロバートの言葉にアーロンは大きな口を開けて笑った。

「かつては初心者......。俺達がそれを言うか。とても短い間の楽しみだったなあ。

 対局まで後三十分......悪いが一人にしてくれ」

「ああ」

 アーロンは背後に、ロバートが歩き去って行くのを感じた。足音がだんだんと遠くなっていった。彼はタバコを噛みちぎった。

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