風邪のお見舞いと、見えないトップ
真冬さんが病気だというので、見舞いに行った。
真冬さんはうちの両親がやっている料理店で、一年ほど前から週三回、厨房のアルバイトをしている。
年齢は三十前だといい、それまで何をしていたのか、ふだんどうしているのかは、謎に包まれている。
どこか抜けたところもあるけれど、私には憧れの人だった。
背が高くて、スタイルがよくて、お洒落で、博識。声がいい。話していて楽しい。音楽のセンスも合う。あと、なんかいつもいいにおいがする気がする。
このあいだ、親友にそんなことを話したら、
「あんたそれ、絶対もうその人のこと好きじゃん」
といわれたから吃驚した。
そんなこと、それまで考えたこともなかった。
土曜日、学校からの帰り際にお店を覗くと、いつもはいるはずの真冬さんがいなかった。
「あれ、真冬さんは?」
ホールの母に訊ねると、
「ああ、なんかね。今朝から風邪なんだって。だからしばらくはお休み。透湖ちょっと、パパのこと手伝ってよ」
真冬さんが風邪。
彼女の代わりに厨房で父の作業を手伝いながら、気が気ではなかった。
こんなことは初めてだ。
土曜日といえば、真冬さんがいつも店にいて、学校帰りの私のことを待っていてくれる……って、別に本当に私を待ってるわけじゃなくて、単に働いているだけだけれど、そんな安心感があった。
一人暮らしだと聞いた。近所にあるおうちにも、何度か遊びに行ったことがある。親から受け継いだという、一人暮らしには広すぎるような、古い家だった。
……風邪をこじらせて、暗い部屋のベッドの中でひとり、咳き込んでいる真冬さん。
そんな想像が浮かぶと、居ても立っても居られなくなった。
落ち着いた頃を見計らって、真冬さんにメッセージを送る。
〈母から風邪のこと、聞きました。大丈夫ですか? 必要なものがあったら、お届けします。〉
寝てるかな、と思ったら、意外と早く返信は来た。
〈大丈夫です。〉
嘘だ。
そう直感する。
本当に大丈夫だったら、もっと長文になると思う。しんどいから、一言で返したんだ。
〈心配なので、三時半頃に行きます。〉
三時で昼の営業が終わると、「私、ちょっと真冬さんの様子見てくる」といって、店を飛び出した。
財布とエコバッグは持っている。
途中、ドラッグストアとスーパーに寄る。
私も季節の変わり目に弱いので、年に何度か風邪を引く。そんな時、どういうものが必要だったかな、と思い出す。
えーと、栄養ゼリーと、スポーツドリンクと、熱冷ましシートと、……。
会計の段になって、意外に高額なのに吃驚したけれど、ええい、どうせ今日手伝ったぶんのバイト代が貰えるから、とんとんだ。
川沿いの道をたどって、どこか昔の面影を残す、二階建ての一軒家に歩き着いた。
木々の影に覆われた薄暗い門と庭をくぐって、私は玄関のインターホンを押した。
ピンポーン、と間の抜けた音が響く。
いつもより明らかに遅い反応で、インターホン越しに
「……はい」
と掠れた声が返ってきた。
「透湖です。お見舞いに来ました」
ドアが開いた瞬間、私は息を飲んだ。
真冬さんは、明らかに具合が悪かった。
頰が上気したように赤く、目は少し腫れている。髪も乱れていて、パジャマの前が少しはだけたままになっていた。
真冬さんは背が高い。身長は170センチ半ばあるという。
そんな彼女が、こんなに小さく、か細く見えるのは初めてだった。いつもは少し猫背気味なのが、今日は立っていること自体がやっと、という感じ。
その状態で玄関口まで来るのは、きっと辛かっただろう。
なのに、私は呼び出してしまった。
「透湖さん……本当に、来ちゃったんですね」
「来ますって、言いましたよね。上がってもいいですか?」
真冬さんは少しためらった後、力なくうなずいた。
私は靴を脱ぎ、上がり框をまたいだ。
真冬さんに案内され、リビングを通って、初めて足を踏み入れる寝室へ。
――空気が淀んでいる。
すぐ、そう思った。
存外、広い部屋だった。白い遮光カーテンが閉め切られていて、薄暗い。そこから、独特の匂いが鼻をついた。
人間が何時間も閉じこもっていたことで充満した、濃厚な汗の匂いと、体温の熱気。
「窓、開けますね」
サッシをカラカラと引いて、少しだけ開ける。風が入ってきて、部屋の空気がわずかに軽くなった。
真冬さんはベッドの端に腰を下ろしたまま、俯いている。パジャマの襟元から、鎖骨のラインがわずかに見える。
「お熱、何度ですか」
「さっき測ったら……三十七度ちょっとです。朝は九度台まであったんですけど。午前中、そこのN医院で診てもらったら、感染症ではないそうです。とりあえず、解熱剤を飲んだら楽になりました」
「そうですか」
話を聞いて、少しだけ安堵する。
思ったよりは、元気もありそうだ。
「必要そうなもの、買ってきましたよ」
エコバッグの中のものを見せた。
「……すみません、わざわざ。あとでお支払いますから」
「そんなのいいですから」
断りながら、あることに気づいた。
彼女が着ている薄手の長袖パジャマが、体から噴き出した汗を存分に吸い込んだためか、背中や胸元に、張り付いたようになっている。
「汗、かいてるみたいですね。タオルで拭いて、着替えたほうがいいです。濡れたままにしておくと、逆に体が冷えて悪循環になります」
「本当だ」
真冬さんは、少し恥ずかしそうにする。
「シャワーくらいしないといけないんでしょうけど……」
いかにも面倒そうだ。
やっぱり、体力を奪われているのだろう。
「あの、……面倒なら、私、手伝います」
いいながら、馴れ馴れしすぎるかな、と思う。
「大丈夫です。……自分でやりますから。透湖さんに、そんなことをさせるわけには」
「真冬さん、なんだかふらついてます。歩いて洗面所まで行くのも危ういでしょう」
真冬さんは唇を噛んで、黙った。
反論する気力もないらしい。
このうちには何度か遊びに来たことがあるので、家の中の勝手は多少、わかっている。
私は洗面所から清潔なタオルを二枚持ってきて、ぬるま湯で軽く湿らせた。
ベッドの横で膝立ちになり、真冬さんに背を向けさせる。
「上着、脱いでください」
「……さすがに、そこまでしてもらうのは」
「病人が遠慮してる場合じゃないです」
渋々、真冬さんは後ろを向いて、上着のボタンを外し始めた。
指がうまく動かないのか、何度か引っかかる。
最後のボタンが外れると、私は手を貸して、生地を肩から滑らせた。
白い肌が、露わになる。
……自分が勧めたことなのに、どきっとした。
背中は汗でしっとりしていて、肩甲骨のラインが、くっきりと浮かんでいた。
普段は服の上からしか見えない背中。
鍛えているのか、意外と筋肉がある。
控えめな胸の膨らみが、横からわずかに見える。
見てはいけないものを見てしまったようで、私は視線を逸らしながら、タオルを背中に当てた。
それでも、滅多にない機会に動揺しているためか、視線は結局、どうしてもそこに向いてしまう。
(……最低だな、私)
ゆっくりと、丁寧に拭く。
タオルが肌に触れ、細かな汗を吸い取るたびに、真冬さんの体が小さく震えた。
冷えていくぬるま湯の感触と、真冬さんの熱が、私の指先に直接伝わってくる。
汗の匂いが、今までより濃い気がする。
甘くて、少し塩辛いような、真冬さんそのものの匂い。
私はその匂いを吸い込みながら、背中を縦に、横に、丁寧に拭いていく。
肩甲骨のくぼみにタオルを押し当てると、真冬さんの息が少し乱れた。
肌は熱を帯びて柔らかく、タオルを通してもその弾力がわかる。
私は指の腹で、汗の筋を一本一本なぞるように拭いた。
背中の中央から脇へと、ゆっくりと。
真冬さんの体が、私の動きに合わせて小さく波打つ。
「……くすぐったい、です」
「我慢してください。特に背中は、自分じゃ届きにくいでしょう」
背中を終え、今度は首筋から肩へ。
鎖骨のくぼみまで拭くと、真冬さんが小さく息を詰めた。
肩がびくりと動く。
首の後ろを拭くと、ボブカットの柔らかい髪先が、指に触れた。
「前……は、自分で拭きます」
さすがにそうなるか。
少々残念な気がしながらも、私はタオルを渡した。
真冬さんはタオルを握りしめると、胸のあたりやみぞおちの周辺を、シャッシャッと素早く滑らせた。
だが、腕に力が入っていない。ただ表面をなぞっているだけ、という感じ。
正直、見ていてイライラする。
「……全然拭けてないじゃないですか。貸してください」
「あっ」
タオルを奪うと、両腕を回すようにして、彼女の体を後ろから抱き寄せる形になった。
真冬さんの背中が、私の胸に軽く当たる。
うなじから立ち上った濃い匂いが、鼻腔をくすぐる。
――あんたそれ、絶対もうその人のこと好きじゃん。
親友の言葉が、急に脳裏に浮かんだ。
なぜだろう。
胸の奥がざわつく。
「透湖さん……?! 何を……」
「真冬さんが前を向いたまま、私が背後から正面を拭きます。これなら、恥ずかしくないでしょう」
「そ、そういう問題じゃなくてっ……、あの、近いです」
「動かないでください」
「あの……あんまり近いと、風邪、うつしてしまうかも」
「ただの看病ですよ」
この体勢、どう見てもただの看病には見えないだろう、と自分で思いながらも、手を止められない。
強引に押し切って体勢を固定した私だったが、背後から腕を回した瞬間、重大な事実に気づいて、血の気が引いた。
(……あ、これ……ヤバいかも……)
正面から拭くのであれば、目視で確認しながら、「触れてはいけない部分」を避けて拭くことができる。
しかし、後ろから抱きすくめるような姿勢で腕を回し、手探りのブラインド状態でタオルを滑らせるとなると、話は完全に別だ。
触れてはいけない部分、すなわち――
彼女の胸の先端。
しかも、真冬さんという女性の身体的特徴を考えると、このミッションの難易度は跳ね上がる。
彼女のバストサイズは、おそらくBはない程度だと思う。
一方、自分で言うのもなんだけれど、私のほうは彼女よりも圧倒的に大きい。私自身の感覚で「このへんが胸の頂点だろう」と手を探ろうとすると、確実に目測を誤る。
真冬さんの胸は、平坦とまでは言わないものの、高身長で引き締まった体型も手伝って、背後から抱きかかえた状態だと「どこからが胸の膨らみで、どこが頂点なのか」の境界線が、極めて曖昧なのだ。
(どこだ……? どこに地雷があるんだ……?)
私はタオルを握りしめた右手の指先に、神経を集中させた。
左腕は真冬さんの細いお腹をしっかりと抱え込み、彼女の体を固定している。背中に当たる私の胸が彼女の背中に押し潰され、体温と鼓動が、ダイレクトに伝わってくる。
「……透湖さん……息が……かかってます……」
「静かにしててください。今、集中してますから」
「何に、集中してるんですか」
まずは安全地帯からだ。
脇腹から脇の下。
続いて、タオルを彼女の鎖骨のあたりに当て、そこから胸の上部に向かって、そっと優しく撫で下ろした。
「ふあっ……んんっ……」
真冬さんの口から、小さく甘い声が漏れる。耳元で聞こえるその吐息の熱さに、心臓がどきりと跳ね上がった。
(……落ち着け、透湖。私は今、熱を出して弱っている近所のお姉さんの看病をしているだけだ。変な意識を持つな)
自分に強く言い聞かせながら、タオルを慎重に下へ滑らせる。
デコルテから胸の上部。ここまでは大丈夫だ。
だが、ここから先は危険地帯に入る。
胸の上部中央から脇の下に向かってタオルを滑らせた瞬間、――
ほんのわずかに、それまで水平だった平面から、垂直に、コリッとした柔らかい手応えがタオル越しに伝わった気がして、私は慌てて手を止めた。
「んんっ……!」
「す、すみません、今のは」
「そ、そこはただの……筋肉です」
嘘だ。
今、絶対、ほんの少しだけ硬い突起みたいなのに触れてしまった。
指先に残る、小さく尖った先端の感触。
真冬さんの、普段は服の下に隠れている部分。
「……透湖さん、さっきからちょっと、動きがゆっくりすぎませんか?」
「あの……なんだか、ゲームみたいになってしまって」
「……何のゲームです?」
「……地雷原で、生き残るゲームです」
「地雷原て……あっ、ふ……」
私に身体を拭かれながら、真冬さんは時折、身をくねらせ、抗議のように甘い声を上げるが、背後からがっちりと抱きすくめられているため、逃げ出すことができない。
熱のせいで身体に力が入らず、ただ私の腕の中で小さく身をよじることしかできないのだ。
その抗議を聞いているうちに、私の中で何かが狂い始めていた。
普段の真冬さんは、どこか冷めていて、大人びた雰囲気を醸し出している。それが今、熱のせいでトロンとした目をし、私のちょっとした手の動きにビクビクと身体を跳ねさせ、艶っぽい声を漏らしている。
そのギャップと、背中から感じる彼女の柔らかい熱が、私の中に怪しい興奮をじわじわと煽り立てていた。
(絶対に……当たらないように、完璧に回避して拭き切ってみせる……!)
私は左腕の力を少し強め、彼女の細い腰をさらにしっかりと抱き寄せた。
真冬さんの汗の匂いが、一層強く鼻腔をくすぐる。
右手で持ったタオルを、今度はみぞおちのあたりに当てた。
そこから上腹部を真横に拭き、胸の下のライン――アンダーバストに沿って、ゆっくりと曲線を描くように滑らせていく。
「ん……っ、そこ……くすぐったい……」
「我慢してください」
アンダーの汗は拭けた。次は……胸の膨らみの外側だ。
トップの位置を大きく迂回するため、私はコンパスで円を描くように、タオルを大胆に外側へ膨らませて動かした。
脇の下から、右胸の外側の膨らみへ。
指先から伝わるのは、真冬さんの柔らかい脂肪の感触。小さめではあるが、手に吸い付くようなしなやかな弾力がある。
「透湖さんの手……あったかい」
「真冬さんの体温も、熱いですよ」
真冬さんは私の腕に身体を預けるようにしている。
動き回る私の右腕に、彼女の吐息がかかる。
続いて左胸だ。
タオルを左手に持ち替え、今度は左側のデコルテから、斜め下に向かって慎重にタオルを撫で下ろしていく。
トップと思われる位置から、少なくとも半径一センチは離れた場所を通過させるイメージだ。
慎重に、ミリ単位でタオルを動かす。
真冬さんの体が、緊張でキュッと硬くなるのが分かった。
「……っあ!?」
突然、真冬さんが背中を大きく反らせ、小さな悲鳴を上げた。
「えっ!? どうしました!?」
「あ、いえ……ちょっと、むず痒くなっただけで」
本当だろうか。
冷や汗が背中を伝わる。
まるで暗闇の中で地雷原を徒歩で走破しているような、凄まじい緊張感だ。
でも、その緊張感が……なぜか、たまらなく興奮する。
私は慎重に、真冬さんの左胸の周囲を大きく円を描くようにして拭き上げていった。
彼女の呼吸は完全に乱れ、「ん……あ……っ」という小さく甘い喘ぎ声が、拭くたびに私の耳元で弾けていた。
腹、脇腹、そして再び、胸の下のほうを丁寧に。
敏感な場所を避けるために、かえってその存在を意識しすぎてしまう。
まるで、当てないようにしながら、当てる場所を探しているみたいだ。
真冬さんの反応が、私の中のスイッチを入れていく。
真冬さんの吐息、匂い、肌の感触。
その全部が、私の感覚を研ぎ澄ませていく。
「……ふう。上半身の正面、拭き終わりました!」
永遠にも思えた緊張の時間がようやく終わり、タオルを置いた。
後ろを向いたまま新しいパジャマを着せると、真冬さんは糸が切れた人形のように、そのままベッドの上へバタリと倒れ込んだ。
「何ですか、今の拷問……」
私は一仕事終えた爽快感と、どこか名残惜しいような気持ちを胸に抱きながら、至極真面目な顔で彼女に訊ねた。
「下の方も、結構汗かいてますよね。……どうしますか?」
その言葉を聞いた瞬間、真冬さんは足元にあった掛け布団を頭の上まで引っ張り上げた。
「さすがに、自分でやります」
真冬さんははっきりと拒否した。
私もそれ以上は言えなかった。
ここから先はもう、ただの看病では済まなくなる。
我ながら、よくこんなことをやってしまったものだと呆れる。
私は新しいタオルを渡して、部屋を出た。
キッチンでスポーツドリンクを冷蔵庫に入れ、ゼリーを並べながら、さっきの感触を何度も思い返していた。
真冬さんの薄い胸。
指先に残る、硬い先端の感触。
あの高い声。
真冬さんの体を、あんなふうに触ってしまった。
胸の奥が熱い。
これは、熱のせいじゃない。
真冬さんの匂いが、まだ鼻の奥に残っている。
それが甘くて、濃くて、離れない。
リビングのソファに座って、真冬さんが着替えを終えるのを待っていると、部屋の中から小さく「……透湖さん」と呼ぶ声がした。
「はい」
「……ありがとうございます。助かりました。本当に」
帰る際、玄関で靴を履いていると、横に姿見があった。
そこに映っていたのは――。
熱を出した真冬さんに負けないくらい、顔を赤く染めた、私自身の姿だった。




