8 沈黙の隊員たち
王都ミルフォード区。
下町の路地裏に佇む酒場の扉を、ルシアン・ヴェイルは押し開けた。
下町酒場〈黒猫亭〉。
扉の上の黒猫の看板は半分剥げ落ち、店内の木製カウンターも長年の酒精で黒ずんでいる。
昼間だというのに灯りは薄暗く、煙草と湿った木の匂いが充満していた。
労働者たちがグラスを鳴らし、どこか沈んだ笑い声をあげている。
ルシアンは迷いなく奥へ進んだ。
カウンターの一角。体格の良い短髪の黒髪の男の肩に手を置く。
男は気だるげに振り向いた。
「……お前が来るとは思わなかった。
――“あの件”を追ってるのか?」
――ハロルド・ケイン。
かつて灰羽隊でルシアンの右腕だった男。今は港湾荷役で暮らしている。
ルシアンは答えず、隣の席に腰を下ろした。
「やぁ、ハロルド。元気だったか?」
「元気に見えるか?」
ハロルドの手の中のグラスが、カランと静かに鳴った。
ルシアンは苦く笑い、バーテンダーに「彼と同じものを」と短く告げる。
「お前こそ。今は何してる」
「裁定院の犬だ」
「……うまくやってるじゃねぇか」
「運が良かっただけさ」
ハロルドは鼻で笑った。
「昔話でもしに来たのか?」
「なぁ、ハロルド。……少佐のこと、聞いたか?」
ハロルドは目を細め、少しだけ身体を寄せた。
「灰羽隊は、もう墓の下だ。掘り返すな」
「……何?」
「誰が死んだとか、誰が消えたとか……全部“言わんほうがいい”」
ハロルドは首を振り、グラスを傾けた。
「俺はお前のことが嫌いじゃない。だから言う。軍には二度と関わるな」
ルシアンもグラスを一口だけ飲んだ。
「忘れてくれ。……俺のためにも」
古びたカウンターに、グラスから落ちた雫が静かに染み込み続ける。
「“ヴァイナス商会”について、何か知ってるか?」
ハロルドは遠くを見るような目をした。
光の失われた瞳。
「……お前のためでもある。これ以上は勘弁してくれ」
ルシアンは硬貨を置き、無言で立ち上がった。
「ルシアン……。
俺も“運が良かった”。……生きてるからだ」
ハロルドはもうこちらを見なかった。
――何を知っている?
――なぜ何も話せない?
拳を握りしめ、ルシアンは酒場を出た。
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ハートウェル区。
王立大学と法学館が並ぶ学院地区の静かな酒場〈古書と麦酒(ブック&エール)〉。
暖炉の火が穏やかに揺れ、店内には古書の山と紙の匂いが漂う。
ルシアンの前に座っているのは、エリオット・ブレナン。
灰羽隊では後方支援係だった青年で、今は王立図書院の臨時職員をしている。
「……ルシアンさん、お久しぶりです」
「エリオット。元気にしてたか」
「……はい。まぁ……」
目を伏せた瞬間、細い金髪がふわりと揺れた。
「……少佐のこと、聞いたんですね」
独り言のように落ちる声。
焦点の合わない瞳。
絶えず揺れる右足。
「……何か、聞いているか?」
エリオットは小さく首を振った。
「でも……少佐はずっと言ってました。“灰羽隊は消される”って」
「消される……?」
「“影を歩く人たち”がいるって……。
少佐は、その言葉だけは絶対に口にするな、と……」
両指を忙しなく擦り合わせる癖は、昔のままだった。
「悪い、エリオット。“ヴァイナス商会”について、何か聞いたことは?」
「ぼ、僕は……何も。知ってはいけないんです」
彼はうつむいたまま顔を上げなかった。
「エリオット……」
「ごめんなさい……ごめんなさい……言えません……」
「……いい。もう話さなくていい」
ルシアンはそっと彼の肩に手を置いた。
――壊れかけている。
――いったい、何が彼らをそこまで追い詰めた?
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店を出ると、雪の積もる石畳が白く光っていた。
ほとんどの店は閉まり、ガス灯の橙の揺らめきが雪に滲む。
連絡がついた灰羽隊の仲間は、あと一人だけ。
情報はほとんど得られていない。
――“ヴァイナス商会の件は、「よくある未払い事件」じゃない。……僕はそう思っている”
「その通りだな……」
――何が起きた?
――何を隠している?
――なぜ、誰も口を開けない?
星の見えない夜。
吐いた息だけが白く立ちのぼり、すぐに霧に溶けていった。




