9 使い捨ての影
王都オルドン、セント・ブリッジ区。
王宮と王立裁定院が隣り合う行政中枢の一角、その北側に高級酒場〈青い薔薇亭〉はある。
深い青のカーテンと銀の装飾が店内を上品に彩り、席は半個室のように仕切られていた。外の喧騒と寒気はここまで届かない。
その一席。
ルシアンは静かに腰を下ろし、カーテンの向こうに神経を澄ませていた。
やがて、使用人に案内され、一人の男が姿を現す。
マイルズ・オズボーン。かつて灰羽隊の副指揮官補佐だった男だ。
ルシアンは席を立ち、深く頭を下げた。
顔を上げる。
マイルズは、ルシアンの顔を見た瞬間、その表情がすっと強張った。
「お久しぶりです。オズボーン副指揮官補佐」
「……お前。生きてたんだな……」
消え入りそうな声だった。
ルシアンが少しだけ瞳を細めて淡く微笑むと、マイルズも慌てて笑みを作り、何事もなかったように席へ腰を下ろした。
ルシアンもそれに合わせて席に座る。
「“王立裁定院の調査のため”と呼ばれて来てみれば、お前だったとはな。五年ぶりか?」
使用人がブランデーを二人のグラスに注ぎ、静かに下がっていく。
氷が小さく音を立てた。
取り繕われたような笑顔。
マイルズのグラスに添えられた指先が、かすかに震えている。
「はい。お元気でしたか。今は民間警備にお勤めだと伺いましたが」
「ルシアンは外部調査局なんだってな。調査官の呼び出しと聞いて身構えちまったよ。……ホットワインのほうが良かったか?」
二人は軽くグラスを合わせる。マイルズはグラスを煽るが、ルシアンは舐めるだけに留めた。
「……単刀直入に伺います。クラウス少佐の件、お聞き及びですか?」
「亡くなったんだろ。……残念だったな」
ルシアンは琥珀の瞳でマイルズを見つめる。しかし彼はグラスの底だけを見続けた。
「死因については何かお聞き及びですか?」
「……死因?」
マイルズはゆっくりとグラスを揺らす。
そして、呟くように言った。
「それより……“誰がまだ生きてるか”を気にしろ」
「……え?」
カーテンで区切られた個室。
両隣は空席のようだ。
マイルズは周囲の気配を探り、再び視線を落とした。
「俺たちは使い捨てだった」
「使い捨て……?」
「気づいてなかったのか?」
マイルズはグラスから瞳だけを動かし、ルシアンを見た。
「お前だって“捨てられかけた”だろう」
「……もしかして、あの襲撃のことですか?」
マイルズは鼻で笑う。
「さぁな。……もう全部、雪と灰の下だ」
ルシアンは手の中のグラスをテーブルへ置いた。
指先の震えが、止まらない。
「問題は俺たちじゃない。“上”だ」
「……“上”とは?」
「名前は言えん。言った瞬間に、俺の家族が危ない」
マイルズが黙り、またグラスを煽った。
ルシアンはその様子を、ただ見つめる。
わずかな沈黙。
縁から、一粒だけ水滴がグラスを伝い落ちていく。
「悪いな、ルシアン。本気で忠告する。手を引け。……じゃないと――」
その時、店内の奥でガラスの割れる音が響いた。客たちのざわめきが広がる。
マイルズはふっと息を吐くと、立ち上がり、外套の裾を整えた。
「ここはおごってやる。……忠告はしたからな」
カーテンをくぐり、足早に去っていった。
「ま……待ってくれ……」
ルシアンの声。
手を伸ばすが、もう彼には声も手も届かなかった。
雪の中、王立裁定院の白亜の尖塔がぼんやり浮かぶ。
ルシアンは半ば無意識に歩き続け、その鉄門の前を通り過ぎた。
――結局、何も分かっていない。
――皆、怯えている。
――“灰羽隊は使い捨てだった”だと……?
拳を強く握りしめる。
どこへ向かえばいいのか分からず、気がつけばブラクストン街にいた。
目の前には、見慣れた石造りの建物。二階の角部屋は、エドガーの部屋だ。
――巻き込むな。
――帰れ。
思考はそう囁くのに、拳はいつの間にか扉を叩いていた。
二度のノック。
しばらくして扉が開き、暖気とともに群青の瞳の男が顔を出す。寝間着にカーディガンという気の抜けた姿。
ルシアンの顔を見た途端、エドガーは眉を寄せた。
「ルシアン……。まだ夜だ。明日の朝、裁定院で話せるだろう?」
「エドガー……俺は……」
エドガーは小さく息を吐き、扉を大きく開いた。
「……入って」
ルシアンは雪の中から暖かな部屋へ足を踏み入れた。
扉が閉ざされ、外の夜は静かに沈む。
雪は、音もなく積もり続けていた。




