5 遺された紙片
王都のはずれ、オルドン西区。
住宅街の一軒家の前に立ち、ルシアンは扉を二度、静かに叩いた。
玄関脇には荷造り途中の木箱が積まれ、そこへ雪が淡く降り積もる。
背後では粉雪が舞い、石畳の上を濡れた色に変えていった。
グレイブ川に架かる橋の欄干では、ガス灯の炎が橙の輪郭を揺らめかせている。
黒の外套の襟を立て、マフラーを鼻まで引き上げる。
吐息は細く、白く、すぐに霧へ溶けた。
扉がわずかに開き、暖気がこぼれる。
「突然失礼いたします。外部調査局、特別調査官のルシアン・ヴェイルと申します」
隙間から徽章を示すと、夫人の瞳が揺れた。
「……ルシアン・ヴェイル?」
その声に迷いが混じる。だが次の瞬間、彼女は小さく息を吐いた。
「……入ってください」
囁くような声。
だが扉を広げた途端、その手はルシアンの袖を鋭くつかんだ。
「……急いで。早く」
雪を纏ったまま屋内へ押し込まれ、夫人はすぐに周囲を確認してから扉を閉めた。
「あの……?」
「奥へ。暖炉の前にどうぞ」
先ほどの強さが嘘のように、今度は弱い声だった。
白髪の混じる髪は簡素にまとめられ、肩にかけられたショールの下には黒い喪服。
部屋には荷物がほとんどなく、暖炉の火も心許ない。
ルシアンは促されるままソファに座り、微かな熱の残るお茶を受け取った。
「……夫人」
「主人の件でしょう? ヨアヒム・クラウスの」
「……はい。この度は……」
夫人は小さく首を振った。
「あなたは軍の方ではないのよね」
「ええ。王立裁定院の者です。五年前まで、彼は私の上官でした。……大変お世話になりました」
視線を巡らせたルシアンを見て、夫人はひとつ笑みをこぼした。
「この家は引き払うつもりですの。主人が亡くなって……。でも軍人恩給は“調査中のため保留”と言われて支払われず、生活も苦しくなってしまいました。
子ども達は皆独り立ちしておりますから、私は実家へ……」
「……保留、ですか」
ルシアンの指が、カップの縁で止まった。
夫人は暖炉の火を見つめ、低く続ける。
「遺体も戻ってきませんでした。
軍から届いたのは、小さな箱に詰められた遺品だけ。
わたくし、もう軍を信じられないのです……」
ルシアンは黙って聞いた。
寒さではない震えを隠すように、手をそっと膝の上に置き換える。
――密葬。説明も恩給もなし。
――クラウス少佐は“消された”。
「……ヴェイルさん」
「はい」
「少し、お待ちになって」
夫人は立ち上がり、隣室から小さな木箱を持って戻ってきた。
「軍から返された遺品は、これだけです」
蓋を開け、一枚の紙片を摘み上げる。
「これ。ご覧になって」
ルシアンは受け取り、視線を落とす。
そこには、記号のように並んだ名前の列。
その中の一つ。
――“L. Vail”。
そして、灰羽隊の仲間たちの名。
顔を上げると、夫人は静かな眼差しで言った。
「軍は意味のない紙だと思って返したのでしょう。
でも……私はどうしても、主人が何か伝えたかったのではないかと」
ルシアンは息を呑む。
「明日、ここを出ます。
そんな時、この紙にあった“ヴェイル”という名のあなたが訪ねてきた……。
主人が“これをあなたに渡せ”と告げている気がしたのです。
受け取ってくださいますか?」
ルシアンの琥珀の瞳が揺れる。
「……お預かりします、夫人」
「……ありがとう。少し、楽になりましたわ」
彼は深く頭を下げた。
---
玄関先まで見送りに現れた夫人は、凍える空気の中で微笑んだ。
「主人は正義感の強い、さっぱりした人でした。自慢の夫だったの」
「ええ。私にとっても、誇りある上官でした」
「……誰にも主人の話ができませんでしたの。今日は……救われましたわ」
ルシアンは一礼し、扉へ手をかける。
「あなたは、家族を残して逝ってはだめよ」
振り返ると、夫人はショールを握りしめていた。
「……軍人の妻が言うことではありませんわね。
外は寒いですわ。どうかお気をつけて」
「夫人も……。お元気で」
扉が閉まる音。
外へ出ると、雪が静かに降り積もっていた。
白い雪は、すべてを飲み込みながら降り続けていた。




