36 静火の前夜
36 静火の前夜
エドガーが扉を開けると、冷気とともにブラクストン街の下宿先にやってきたルシアンが、小瓶を高く掲げて見せた。
「土産、持ってきたぞ」
エドガーが穏やかに笑みながら小瓶とルシアンの荷物を受け取ると、ルシアンは扉の外で雪を払う。
ふわりと、冷たい空気と霧の匂いが舞った。
エドガーは部屋のミニキッチンへ向かいながら、ボトルのラベルに指を沿わせた。
「“フェルンウォルド蒸留所・冬季限定ポテトスピリッツ”? 辺境で買ってたの?」
「いや、帰ってきてから買った。向こうではあまり時間の余裕はなかったからな。
美味いぞ。あと、お前が今抱えているのは燻製サラミ」
「悪いね。手ぶらで良かったのに」
ルシアンも外套を脱いで部屋の中へ入ると、二人は宴の支度を始める。
---
グラスを持ち、互いに掲げた。
暖炉の明かりが二人の横顔を柔らかく照らしている。
「無事帰還できた幸運に」
「そして、明日からの戦いに」
「「乾杯」」
杯の水面が揺れ、微かに橙の光の筋を帯びる。エドガーはそっと香りを確かめた。
「清冽な香り。好きだな」
「そうだと思った。強いが飲めるか?」
「そんなに酒は弱くないんだ。飲めるよ」
「そうか」
ルシアンが口角を上げてニヤリと笑うので、エドガーは声を上げて笑った。
ルシアンが部屋を見渡している。
辺境から戻ってきて数日だが、すでに部屋は“いつもの様相”をなしていた。
「なぜ何冊も本が開きっぱなしで机にあるんだ。ベッドの上にもあるじゃないか」
「さっきまで読んでたんだ」
「同時に?」
「ルシアン、すべての事象を説明できると思ってはいけない」
「偉そうによく言うよ。片付けられないってはっきり言え」
エドガーは肩をすくめてグラスを傾ける。
ルシアンはそれを見て小さく笑った。
「あといつも気になっていたんだが、マントルピースの上にある未開封の葉巻箱はなんなんだ?」
ルシアンが指を差した先にエドガーも目をやる。彼は小さくため息をつくと、グラスをサイドテーブルに置き、立ち上がって葉巻箱を手に取った。それをルシアンに押し付けるように渡す。
「いる?」
「え?」
「マルコム卿に昔貰ったんだ。でも僕は葉巻の匂いはどうしても苦手で」
「なぜ辞退しなかったんだ? お前は言いたいことはちゃんと言う男だろう」
「それができる状況じゃなかった」
ルシアンは片眉を上げる。
「わかったぞ。何かその時も怒らせたんだろう」
「ははは」
エドガーは曖昧に笑うと、またソファに身を預けた。
窓の向こうでは、雪が深い静けさを連れて降っている。明日はいつもより積もっているかもしれない。
「ルシアン」
橙の暖炉の火の明かりが、エドガーの端正な横顔を照らし、影を作っている。
ルシアンの手の中で、グラスの中のスピリッツが小さく波紋を作った。
「明日、僕は告発をする」
群青の瞳がゆっくりとルシアンの琥珀の瞳を見た。
燃え立つように、その瞳が揺れる。
彼の口角はわずかに上がっていた。
――覚悟と、それをどこか愉しむようなその青炎。
ルシアンはぞくりと震えるのを抑えられなかった。
「エドガー……」
「君が僕の調査官である以上、巻き込んでしまうよ」
「俺は“巻き込まれる”なんて思わない。むしろお前を矢面に立たせてしまうことが申し訳なくて――」
「僕は謝ってほしいわけじゃない」
ルシアンは息を飲んだ。
エドガーは膝に肘をつき、手を組んだ。
黒髪が体に沿って流れ落ちる。
「僕はね、法と理というのは、人々の血と涙の積み重ねで築かれたものだと思っている。
その存在には必ず生まれた意味がある。
だからこそ、それを簡単に足蹴にするような人間が許せないんだ。
――僕は理を求める。歩みを止めるつもりもない」
彼はじっと、暖炉の火を見つめている。
「ルシアン。
巻き込んだことを申し訳ないだなんて、僕は君には謝らないよ。
――僕と共に戦ってくれ、ルシアン」
ルシアンは席を立ち、エドガーの前に跪いた。
「……当たり前だろう。お前は俺の法務官だろう。
お前は偉そうに法務官席に座って、“僕について来て”ってそう言えばいいんだ」
ゆっくりとルシアンを見たエドガーは、ふっと笑った。
「僕はいつもそんなに偉そうかな」
「なんだ? 気づいてなかったのか?」
「そうか。気をつけるよ」
ルシアンは声を上げて笑った。
「冗談さ。お前はもっと自由にやればいい」
「僕が自由にやったら、君はすぐに過労死するよ」
「あぁ、なるほど。一理あるな。
手加減してくれ」
二人は声を立てて笑った。
笑い声が消えたあと、暖炉の火だけが二人の影をゆっくりと揺らしていた。
明日からの戦いが、その光の先で待っているとも知らぬふりで。
そして二人は気づいていた――もう、後には戻れないのだと。




